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我々は本当の地球の姿を見ているのか?SDGsの観点から考える

12月に入り中盤戦、ようやく今年の終わりが見えてきました。先週はUNEP- IETCチーム総力戦で、UNEP-IETC国際諮問委員会、グローバルダイアログと4日間にわたる国際会議を開催しました。準備の半年、最後の2か月はバタバタのあっという間の怒涛の日々で何とか準備をして、無事に楽しく、もちろん実りのある学びがあった4日間になりました。チームの皆さん、ありがとうございます。良きチームの一人として思いっきり仕事ができました。

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これで今年も終わり、と言いたいところですが、話す側の仕事としてはもう一つありました。大阪大学での講義です。私は間接的に縁のある大阪大学工学部環境・エネルギー工学科における都市環境工学の授業です。大阪が誇る大阪大学で最先端の勉強をしている学生さん向けの講義です。しかも、環境工学、つまり、環境+工学、シンプルに言うと人間と自然の調和における工学的なアプローチ、と言う、今まさしくSDGs時代に必要な専門分野です。

大阪大学が出身ではない僕がなぜ縁があるかと言うと、大学院時代の恩師の先生が、この大阪大学環境・エネルギー工学科の修了生で、僕が学んだ静岡県立大学大学院に写る直前は、講師をされていました。なので、その当時にお世話になった先生がまだおられたり、一緒に仕事している人がここの研究所の出身の方だったりします。不思議な縁ですね。

今回僕に依頼のあった講義内容は「自然共生型の環境管理の基礎として生態系を学ぶ」です。僕をよくご存じの方なら、多分ここで突っ込みを入れるでしょう、「本多、ちょっと待て、生態系と言うのは本多の守備範囲外ではないか?」と。そうです、正解です。生態系・生物系は専門外です。でも今は、専門外だから自分には関係ない、と言う時代ではありません。SDGsの時代は、個々の専門分野も重要ですが、全てがつながって今のような地球環境問題が発生している、と認識しなければなりません。

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1.我々は本当に地球の姿を見ているのか? - 自然共生型の意味を考えてみる

自分の人生は自分の選択で作り上げていきます。皆さんはなんで阪大に来たのですか?たまたま、ではないでしょう。中学と高校と進んできた中で色々あった選択肢の中から選んだのが今の皆さんです。不安や悩みはありますが、それは人間の得意技。

悩みがあるという事は、本来の自分の姿が見えていないのかもしれません。他人はよく見えても自分自身は良く見えない、と言うのが本当かもしれませんね。自分自身の姿と心を客観的に見ることができない、だから悩むことが得意技となるのが、人間の心理でしょう。

私たち人間はありとあらゆる本当の姿を見ることができません。なぜなら私たちはいつも自分自身が築き上げてきた心のメガネを通して世の中を見ているので。常に、私たちが中心である目線。人間が手にしているこの人口社会が全てである。そのように人間社会は突き進んできましたが、ようやく、私たちが気が付いたことがあります。我々のせいで地球環境がおかしくなっている、という事です。

では、我々は本当に地球の姿を見ているのでしょうか?

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皆さん、三大地球危機と言うのは聞いたことがありますか?三大地球危機と言うのは、気候危機・自然危機・汚染危機です。世界平均の気温がこの270年で1.5℃上昇している、地球上に住んでいる約870万種類もの動植物のうち100万種が絶滅の危機に追いやられている、全人口の77億人のうち90%は大気汚染下での生活を強いられている、など。これらは全てつながっているのです、それぞれが多発的に発生した地球危機や環境危機ではありません。しかもこの870万種類のうちたった一つの種のせいで、こんなに甚大な地球環境危機が猛威を振って我々に襲い掛かってきているのです。その一つの種とは、もちろん、我々人間です。

今日のキーワード「自然共生型の環境管理」って、皆さんどうお考えですか?まさしく、持続可能な開発目標(SDGs)の文脈で重要なキーワードの一つ、我々人間社会は自然と共に共存していかなければならない、そんなの当たり前である、と皆さんお考えでしょう。それ正解です。

でもそれ正解です、で終わってしまうと、今日の講義はいりません。なので、これで終了、としたいところですが、その正解は正解ではなくなる、という事に気が付いて、それを考えなければなりません。逆説的に物事を考えていく、これ重要です、社会出でてから。目の前の情報を鵜吞みにすると、それ以上はありません、そこにはきっと何かある、と考えることが私たちの人生には重要です。

そもそも「自然共生型の環境管理」って、何を意味するのでしょうか?文字通り読めば「人間が環境を管理し、自然と共に生きなければならない」、となりますよね、この解釈はあっていますか?「人間が環境を管理し、自然と共に生きなければならない」。これって正しい考え方ですか?

これはあくまでも人間目線の考え方ではないでしょうか?地球上では、人間は約870万種類の動植物のたった1種類でしかない、という事は多数決を取れば完全に敗北です。そもそも自然共生型と環境管理という言葉自体を考えると、何か違和感を感じませんか?なんで870万種類の1種類が環境を管理しなければならないのでしょうか?

人間が自然を管理しても良いのでしょうか?人間が自然を管理するから人間と自然が共生できるのでしょうか?「自然共生型の環境管理」と言うのは、完全なる人間目線の考え方です。地球のありとあらゆる場所に影響を与える人間なので、自然も管理しなければならない、と言う認識だと思いますが、本当にこの考え方はあっていますか?

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私の意見はこうです。人間以外の約870万の全種類の動植物は地球が気候変動で気温が上昇しようと、台風が猛威を振るおうと、洪水が起ころうと、大規模山火事が起ころうと、全てが自然なんです。その原因が何であろうと、その場その場の状況が全てなのです。何も管理しない、その場で全力を生きている、その状況で生き残れない種は絶滅していた、それが事実です。自然は誰も管理していない、人間だけが自分が創り上げた人口社会を守るために自然を何とかコントロールしなければならないので、自然を管理しなければならない、と考えているのではないでしょうか?

地球は常にバランスを取る、例え人間が自然を破壊したとしても。地球は人間も自然の一部と認識するので、人間が環境を破壊しようと何しようとその結果としての何があろうとバランスを取り続ける、気候変動はそれを正しく証明しています。数億年かけて自然が作り上げ地下に眠っていた石油や天然資源を、人間は資本主義と言う人間が勝手に作り出した社会システム内でそれらを富に変え、その富と引き換えに大気中に放出された二酸化炭素、自然がそのバランスを取ろうとしている、これが事実。

その富は地球にとって何らかの価値はない。地球にとっては天然資源が二酸化炭素と変換されただけ。

人間が天然資源の変換で生み出している富が、地球が天然資源を作り出すスピード内であれば何も問題はありません。これが、人間が勝手に掲げている持続可能な開発となるであろう。でも実際は、人間の活動は地球が天然資源を作り出すスピードよりも170倍も速いと言う科学者もいます。という事は、今のこの世の中は持続可能ではないことが当たり前であり、2030年までにこの170倍ものスピードから生ずる”ギャップ”を埋めない限りは、持続可能な開発目標2030、つまりSDGsは単なる人間社会の中掲げる妄想的な持続可能な開発目標にしか過ぎないのではないだろうか?

もし地球に考える理性があればこう言うでしょう、「お前ら人間はちっとも地球を見ていない。お前らはお前らの世界しか見ていない、魚が水を知らないように」、と。

SDGsは人間社会の妄想かもしれない?人間は本質を見ていないのかもしれない?目的と手法が異なっているのではないか?私たちが見ている世界は、事実を捕らえているのだろうか?

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2.我々は本当の人間社会を見ているのか? - ごみ問題から考えてみる

私たちの目の前にある地球環境問題は何ですか?その中で皆さん普段の生活の中で感じていることはありますか?

気温が上昇している→気候危機、870万種類もの動植物のうち100万種が絶滅の危機に瀕している→自然危機、ごみが不法投棄されている→汚染危機、とこれらの三大地球危機により、私たちは地球上のどこにいても、人間が引き起したこれらすべての地球危機から逃れることはできません。自分で自分の首を絞めています。

これら地球三大危機のうち、今日は最も身近な例、ごみ問題を考えてみます。

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日本に住んでいる私たちにとってごみの分別は生活に溶け込んでいますよね。例えばごみを出した瞬間から手が勝手分別しだして、これは燃えるごみ、これはプラスチックごみ、これは紙ごみ、とか。プラスチック包装も洗って捨てる、と言うのも普通。これが世界標準だと思う、のは間違いです。こっちが世界の少数派です。では世界標準のビデオを見てみましょう。

先ずはインドネシア。インドネシアの首都ジャカルタから車で2時間程度にある処分場。ジャカルタから排出される一般ごみなどを受け入れています。私も調査で行きましたが、最初のビデオはごみの山を下から上に上っている映像です。結構な急な斜面で、見てわかるように足元プラスチックごみだらけです。頂上はフルスケールのサッカー場が作れるぐらいの大きさ。標高は70メートルぐらい、マンション20階ぐらいですかね。そこからの眺めは結構気持ちのいい感じでした、足元を除いては。プラごみの山、と言うのが正しいです。

次はケニア首都のナイロビ近郊の処分場。首都ナイロビのごみがトラックで運ばれています。ここで注目は多くの人たちが何かをしているという事。何をしているかと言うと、これは皆さんと同じです、ごみ分別をしている、もう少し正確に言うと、処分場でリサイクル可能な資源を集めています。ここで集まられたプラスチックやPETボトル、アルミや鉄などありとあらゆる資源性価値の高いごみが、ここから再び人間の市場の戻っています、つまり我々が目指している循環経済がこのみなさんのおかげで部分的に閉じています。でもここで考えないといけないのが、このみなさんの置かれた状態。一日炎天下の中働いても日給100円程度、ケニア街中のブルーワーカーと比べても1/10程度、保険とかの何の保証もなく、職場環境は劣悪。もちろん皆さんはこんなところには来たくなかったが、社会の荒波にもまれて、生きるためにたどり着いた場所がここ。世界にはこのような人たちが3千万人もいると言われています。ここで注目すべき点は、ごみを燃やす、つまり野焼きをしている事。野焼きはブラックカーボンやダイオキシンを発生するので危険です。廃棄物の野焼きによる環境汚染は1トン当たり100ドル程度、適正に処分すれば1トン当たり5ドル程度なのですが、環境上適正な処分場の莫大な建設費がネックとなっていますが、長期的に見るとどっちが良いのかは明らかです。

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そして、ミャンマーのヤンゴン郊外の処分場。こちらもインドネシアとケニアと同じ状況です。分別されずに集まるごみから、リサイクル資源を拾う人たち、皆さんが100円ショップで購入しているプラスチック製品の原料は、こういうところから来ているかもしれません。という事は、100円ショップでリサイクル素材から作られたプラスチック製品を買うことで、皆さんは開発途上国支援をしている、と言えるかもしれませんね。

さて、もう一度言いますが、こっちが世界標準です。ここでの問い、「我々は本当の人間社会を見ているか?」と「循環型社会は成り立つのか?」を見る限り、答えは「なるほど、こういう人たちがごみをリサイクルするために重要な役割を担っているんだね」、と思うでしょう。でもそう思うのはまだ早い、一つグラフを見てみましょう。

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皆さんは工学部環境・エネルギー工学科の学生さんですよね。ではこのグラフを見て何を読み取りますか?クイズ番組形式として10秒シンキングタイムです。さぁ考えてみよう!

皆さんが読み取った基本データはおそらく、①2020年と2050年を比べると一般ごみの発生量が増加している、②単純埋立率が50%から42%に減少しているが分母が大きくなっている分、量はあまり変わらない、③リサイクル率が若干増加している。

ではその基本データから何を読み取ることができますか?色々とシナリオを考えられますが、一番のポイントは、2020年も2030年もそれほどデータに差がない、つまりリサイクル率もほぼ同じ。という事は今後30年経っても、ごみを取り巻く世界の状況は変わらないことが予想されている、という事です。

日本をはじめとする高所得国では、2050年のデファクトスタンダードになりつつあるカーボンニュートラル、ネットゼロを達成するための一つの柱として掲げているのが循環型社会の高度化、ごみの最終処分を極力なくしてリサイクル率を極力上げていく。言い換えると、地下資源はもう掘らない、人間が使っている地上資源をぐるぐる回す社会を構築することです。日本をはじめとした高所得国は2050年までにネットゼロ社会そして100%資源循環は難しいと思いますが、そこそこの循環型社会が成り立っていると思います。でも、それは世界人口率でみるとわずか15%、11億人程度がその恩恵を受けることができ、その他85%の66億人の人たちのごみは、2050年になっても、先ほどビデオのように、単純埋立と野焼き、そしてそこからリサイクル可能な資源ごみを拾う大勢の人たちがそのまま残っていると予想されています。

世界的に見れば2050年なってもごみの世界は今と変わっておらず、ごみを拾って生計を立てている人、循環型社会は夢物語、大量のごみが一方通行で処分場に運ばれてくる現在と同じ未来社会が待っています。ごみを見れば人間社会がわかる。2050年になっても大量のごみを出し続ける私たち。2050年になっても大量のごみが処分場に運ばれている状況、そのような状況を考えると、SDGsは何なんだろうか?と思いませんか?処分場で暮らしている人たちは、もちろんあのきらびやかな17色のSDGsは知りません。高所得国に住んでいる人たちだけが、SDGsで国際貢献をしている、と罪滅ぼしになっていませんか?いわゆるグリーンウォッシュ。そのようにならないためにも、私たち人間として本当にするべきことを認識しなければなりません。環境問題の本質は何でしょうか?すべて人間が悪いのです。

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3.我々は本当の自然の姿を見ているのか? - 持続可能性と言う意味から考える

先ほどビデオを見ましたが、これが現実です。私たちは今後も毎日ごみを出し続けるので、ごみ問題は解決しません。言い換えると、天然資源を富に変え、いらなくなった人工物をごみとして自然に放り投げる。

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持続可能性は成り立つのか?SDGs17個のゴールを見ると、17個中、15個は人間社会における持続可能な開発を目的としています。貧困、教育、ジェンダー、社会基盤、製造と消費などどれも重要です、14個目にようやく海の自然、15個目に陸の自然を守ろうと出てきます。これでわかるようにSDGsはあくまでも人間社会の持続可能性を考えたもの、自然と人間社会の調和・共存と言っているけども、人間社会における経済発展をしつつ持続可能な開発を行っていく、と言う、やはり人間のエゴが中心となっている考え方ではないでしょうか?

気候変動、これも残念ながら解決しないかもしれません。私たちが今後も現在のライフスタイルや社会構造を変えない限り。言い換えると、天然資源を富に変えて、富を生まない二酸化炭素はやはり大気中に放り投げる。

生物多様性の損失。これも解決しないでしょう。一度失ったその輝いていた命は二度と戻ってきません。私たちが今後も天然資源を搾取し破壊し続ける限り。言い換えると、動植物のいのちを人間の富に変えていく、その影響として100万種類の動植物が絶滅寸前。それと、今まで接することのなかった道のウイルスとの遭遇、例えば新型コロナウイルスが人間をやっつけに来ている、これ事実です。

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これ全て、人間自身が自ら引き起ています、目の前の利益を求めてきたので。最初に話しました、人間社会のスピードは自然界の170倍も速いのです。第一次産業革命から約270年経ちました、人間のスピードでは270年です。そのスピードの変化には、もちろん自然はついていく事は出来ません。人間社会の270年は、自然界にとって約46000年です。つまり、270年と46000年、その差45730年、これがゼロ年となった時が持続可能な開発ができている、と言える日でしょう。

45730年、いいですか、45370年。今から45730年前、種としてのヒトがようやくアフリカ大陸を脱出したころです。その当時の人間社会は完全に自然と一致していました。人口は800万から1000万と言われています。もしかしたらこれくらいの人数が、地球上における人が自然と合致した生活を送り、自然に負荷をかけない人数なのかもしれません。ちなみに現在の人口は約77億人、この45370年で7700倍も人工は増加しています。

その今から45730年前、地球はもちろん完全なる持続可能な惑星でした。約870万種もの動植物が数億年かけて進化してきた過程の結果として絶妙なバランスで持ちつ持たれつ、誰かのいのちで誰かのいのちがつながる自然界のおきての中で生きていました。その状態であれば気候危機、自然危機、汚染危機などの地球三大危機なんて起こらなかったでしょう。

その究極のバランスを壊し始めたのが約270年前の第一次産業革命以降です。もし産業革命が地球の自然のプロセスが必要とするスピードに沿って、45730年かけたら、人工的な人間社会も完全なる持続可能な社会であったかもしれません。でも人間の時間軸での45730年は何世代分になるでしょうか?ざっくり計算で約1500世代分、それくらいの時間軸となります。今から45730年後、1500世代後、人間はこの世の中にいるのでしょうか?

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この人間の開発の速度を落とさない限り、持続可能性、サステナビリティは成り立たないでしょう。2030年にSDGsの数値目標は数値としては到達するかもしれません。2050年の世界のデファクトスタンダードとなっているカーボンニュートラル、ネットゼロ社会は高所得国や二酸化炭素排出主要国では達成するかもしれません、でも先ほどグラフで見たように、2050年になっても世界全体では廃棄物の40%強、低所得国では80%程度の廃棄物が処分場に捨てられている状況と推測されます。循環資源の観点から、残念ながら2050年になっても、循環型社会ではなく天然資源→物の製造→廃棄物、と言う線形型社会は続くでしょう。

人間以外の動植物は、気候危機、自然危機、汚染危機の地球三大危機と言うのをもちろん知りません。でもこれらを人間以上に感じ取っています。なんせこの厳しい自然界のおきての中で、この地球環境の劇的な変化に対応できないものは滅びるのが運命。そこを生き残るには、この気温上昇から耐え、人間の手による自然破壊から何とか逃れ、多少の汚染物質を吸い込んだとしても生き延びる体を作らないものは、生き残れません。言い換えれば人間活動が地球誕生以降の自然のおきてをすべてぶち壊し、人間が創り上げた自然破壊型の社会、今は人間のエゴによる自然と共存した社会・環境管理型社会となっています。

人間社会における開発の速度を落とし、究極的には地球の自然界のスピードと人間社会のスピードが完全に一致し、人間が追い求めてきたその知識や技術を自然一体型として成り立たせた場合、究極の持続可能性に到達するでしょう。その世界は、少なくとも第一次産業革命の以前は手にしていました。一度、豊かさを味わった人間はその豊かさを手放すことができません。しかし、その豊かさを手にするために犠牲にしてきた地球環境をこれ以上破壊してはなりません。成長ありき・経済発展ありきの人間社会を経済成長安定型社会、脱成長型経済社会、自然と一体化した経済社会を手にしたとき、持続可能性は成り立つでしょう。

自然と人間は共存しなければならない、自然界と人間界は共生しなければならない。でもこれらの考えはあくまでも人間目線。人間以外の動植物は、人間が自然を破壊しようとその影響で何が起きようと、その瞬間瞬間いのちを輝かせて全力で生きている。人間だけがその自然の流れから逸脱し、自然の分量を越えて、自然を我が物顔して破壊し続けている。人間は自然をコントロールしようとし、しかもコントロールできていると思っているが、人間が自然をコントロールしようとすればするほど、その自然が人間の脅威となり人間を襲ってきている。もはや遅いかもしれないが、人間には考えるという素晴らしい機能が備わっている。この考えを人間の欲望ではなく、地球全体として持続可能性のある豊かな自然・環境を保ち、動植物全てが分かち合う姿に戻すことに使わなければなりません。人間の英知が正しき方向に向かえば、それはきっと達成できるはず、今から何世代か後には。

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