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LeicaQと長崎④

原爆資料館と美術館と宗教と教会について

コンサートも無事終わり、翌日は飛行機の時間まで市街地をめぐることにしました。
そして1番の目的は原爆資料館です。

路面電車
いろいろな形があって楽しかったな
車社会とは違った「人の生活」感
物の形がそのまま影になるわけじゃない
ところどころ西洋的な意匠が見られて楽しい
3月の長野はまだ桜なんて咲いていないんだよね
長崎原爆資料館
ここまで来たんだから足を運ばなきゃと思った


父がキリスト教の教会に通っていたこともあり、小さな頃からそこに着いて行っていました。
そして、信者の方には申し訳ないですが、色々な流れがあって洗礼を「受けてしまい」ました。
信じているかと聞かれれば、素直に「はい」とは言えません。
ただ、そうした信仰の場があることには意味があると思いますし、聖書の物語やイエスキリストの示した例え話や行動には、今に通じるものもあると思います。

教会や礼拝といった場や時間は、それぞれの労働や日々繰り返される日常がある中で、その立ち位置を一時的に離れる機会が得られるという点で有用です。
この時間を僕は大事にしたいと思っています。
でもそれは必ずしも宗教じゃなくてもいい。
先日「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本の中で、本を読むことは(小説を読むことは)、目の前にいない誰かの可能性について思いを馳せることだ、という趣旨のことが書かれていました。
ともすると目の前のこと、繰り返す日常のことばかりを考えてしまうほど余裕のない世の中とも言えるでしょうから、そうした時間が取れるくらいには余裕のある「文化的な」生活が守られたいと思います。

今回の原爆資料館然り、美術館や博物館、映画やお芝居に出かけることであっても、教会や礼拝と同様に、普段目にすることのない人や物事に思いを馳せる時間になります。
であれば、美術館や博物館といった場所に出かけるということは現代の礼拝的行為と捉えてはいけませんか。
神の存在が西洋哲学でめためたにされて以降、各地の宗教施設はそれ以前の役割や意味を失ってきました。
現代では、それらもまた多様な世界を覗く窓のひとつになったのではないかと思うのです。

ほら、まだ雪が残ってる

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