見出し画像

道を外した友人のはなし

長い間治療していると、色々な人と出会う。
そのなかにはどちらかというと悪い出来事のほうが多くて、今回はそういう悪い出来事がどんなものかについて語っていこうと思う。
なぜこんな話をするのかといえば、発達障害の疑いのある友人とゆるやかに縁を切ることになってしまったからだ。

あらかじめ言っておくと、ここに登場するA子は現在、結婚をして子供にも恵まれたところだ。
それに、出産を機にわたしの怒り(というか、傷?)も醒めたようなところがあり、このタイミングでの投稿ということになった。

A子は活発な子だった。
出会ったのはたぶん20歳くらいの頃で、多弁で活動家といったオーラをまとっていた。それでいて人当たりも良く、(当時は)傲慢ではなかったため、そのころの夢の話や、占い、音楽の話などで盛り上がった。ふたつかみっつの年齢差はあったが、それは問題ではなかった。
それに、今思い出してみても、元気な子という印象以外なかった。なかったはずだった。おしゃべりではあれど、失言とかもない、多動でもない子。
いわゆる「ふつう」かと言えばそうではなかったけれど、むしろそれはいい意味で、違和感というものはおよそ覚えたことがないのだった。

A子は学外の活動にも精力的で、わたしも誘われて何度かイベントなどに参加したこともあった。それはとてもいい思い出で、何度かあった機会の主な参加メンバーとは、今も連絡を取り合っている。
だからA子はわたしにとっていい友人だった。それも、「とてもいい」がつけられるほどの友人だった。

そんな「いい思い出」を持ちながら10年ほど経った。
インターネット、特にSNSがある時代だから、付き合いは薄まらずに続いていて、病気の関係からわたしも地元に帰ってきたし、A子も地元にいるというから、ひさしぶりに会おうかということになった。
A子は服装こそナチュラル系になっていたが、そこまで大きく変わった印象はない。年齢とともに趣味が変わったのかな?とか、ちょっと年を重ねたかなっていうくらいに捉えていた。
久しぶりに会って話す。わたしは病気を負い目に思わずにはいられなくて、ちょっとだけ緊張していたけれど、すごく楽しい時間を過ごせた。縁を切る未来なんて想像がつかなかった。
しかし、現実にはここから徐々に違和感を覚えだし、そして思い出し、その答え合わせをすることになる。

少し遡って10年の間、彼女はfacebookを主なSNSとして使っていた。
投稿が多い子だったのですべては見ていなかったが、いつからか怪しい医療の情報をポストすることが多くなってきていた。それらの投稿のなかには、ことばにできない気持ち悪さを覚えるものもあったし、荒唐無稽な(言葉を選ばずに言えばばからしい)医学知識をシェアしていることだってあった。
だけど1000人はいようかという友達の数を見れば、まあそういうこともあるのかな……って思ってしまうし、一時的なものなんじゃないかとじぶんを慰めるような発想さえ出てしまう。
今思うとこの判断は明らかに誤りなのだけど、
学生時代の「いい思い出」というのはそれほどまでに人格を補正するものだった。あの子が変な道に行くはずがない、そういう人間じゃないし……と、当時のわたしは本気で思っていた。

しかしA子はその時点で影響力のある、ネットでは有名なヤブ医者と出会っていて、わたしの知る限りではだんだんとアンチ標準医療の体を成してきていた。
久しぶりに会った時から、何カ月に一度くらいの頻度で会うようになっていたのだけど、「コロナはただの風邪だから」と消毒を拒否してノーマスクで会いに来たり、東洋医学の話をやたらするようになっていた。
また、そのころよく話題に上がっていた人たちは行動的だけどどこかズレたような人たちで、A子は彼らのことを天才だとかすごい人たちと呼んでいたけれど、あとでよく調べてみると、主張に矛盾があったり、行動的だけどちょっと迷惑なタイプの人が多かった。
A子は会話の中では明らかに注意力も散漫になって、前話したことをきれいに忘れていたり、会話を遮って自分の話をペラペラ話すことが多くなってきて、さすがに10年来の親友といえど、イライラすることも増えた。

何よりきつかったのが、「自分を盛る」行為だ。
たしかに学生時代のA子は活動的で「すごかった」って言えると思う。
だけど、なんかこう、どう考えても大げさな言い方で盛ろうとするのだ。

この記事中にある「グラン君」のような感じがまさにA子の盛り方。以前はこんな話し方じゃなかったはずなんだけど…
この話し方されると疲れるんです。振り回されるから。

就労移行支援事業所ディーキャリア立川・所沢オフィスさまより

様々なA子の要素を組み合わせていくと、あるひとつの類推ができた。
それは未治療のADHDではないか、ということ。そう思って病院(へ連れていきたかったがそれは明らかに嫌がるので)をそれとなく勧めたところ、遅まきながら行ってくれて、いい病院だったよと報告もくれた。
ゆっくりのペースだとしても、とりあえず継続してくれればいいか…と思ってほっとしていたら、
数週間後、A子は沖縄へ飛んだ。

わたしのなかで、なにか糸が切れた気がした。
脱力感や虚しさもあったが、憎しみが湧いてしょうがなかった。
また葛藤もあった。A子はこんな人間じゃなかったはずと、この期に及んで信じたい気持ちも芽生えた。
だけど、その沖縄であったいろいろなエピソードを聞くと、やはり勝手にしてほしいという気持ちのほうがつよくなって、フェードアウトすることを決心した。

A子はこれから、子供には「添加物はダメ!」といって手作りのおやつしか食べさせないかもしれない。
流行しているはしかのワクチンさえ、受けさせないかもしれない。
子どもは成長途中で辛くなって、宗教二世みたいに心を病むかもしれない。
A子は毒親とよばれるのかもしれない。
だけどそんなことは、もう知ったことじゃない。
A子とわたしは、もう友達じゃないからだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?