【短編】地下鉄2号線 乙支路入口駅 初雪
〜韓国ソウルの地下鉄2号線。51もの駅からなるこの路線の、それぞれの駅にまつわる物語を書いてみました〜
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8番出口から地上に出ると、聞いていた通りに目の前にロッテホテルが現れた。大胆な大ぶりの建物は、地震のない国らしかった。大きなシャンデリアがあるフロアの先に、広いロビーがあった。エレベーターホールには韓服(チマチョゴリ)を着た背の高い女性が立ち、笑顔でこちらを見ている。長いフロントデスクの端から端まで、何度も視線を泳がせた。
雪の舞う、寒い日だった。
仁川空港についてから空港鉄道と地下鉄を乗り継いで、予約したホテルに向かった。市庁という駅から、南大門市場の方へ少し歩いたところにあるホテルに荷物を置いて、乙支路入口駅で降りた。とても近かったので、歩けるのかもしれなかった。週末のせいか、地下鉄はどこも同じような黒いロングダウンを着ている人であふれていた。
ああ、そういえば。一広さんが冬にはどんな格好をするのかを知らない。
出会ったシンガポールは真夏だった。雨の中、傘も差さずに泣いていた私に、流暢な英語で話しかけて、傘をくれた。「大丈夫です、泣くために外に出たので」と日本語で答えた私を笑わずに「日本人でしたか。風邪ひきますよ」と声をかけてくれた人。
長く付き合っていた大好きな人を、年上の子持ちの女性に寝取られた。彼女は妊娠した。大好きな人は、責任をとって結婚するのだと言った。暴れたかったけど、しなかった。彼は私の、子供ができていても勝手に始末するようなタイプに見える私の、冷静なところをきっと愛していたと思うから。そこから私は転職したばかりの会社から奪うように休暇をとって、シンガポールに逃げたのだった。
ロッテホテルのロビーに現れた一広さんは、上品なグレーのコートを着ていた。私には気がつかずにチェックインをしている。その慣れた所作はとても美しくて、その非日常あふれるしぐさをずっとみていたいと思わせた。振り返って私を見つけた一広さんが歩いてくる。「寒かったでしょう?よく来たね。商談が長引いてしまって。ごめんね」。私は一広さんのコートの裾をじっと見たまま、頷くことしかできなかった。
「着替えるから、ちょっと待ってて。それとも、部屋に来ますか?」
一広さんはコートの下にはきちんとスーツを着ていた。部屋に来ますか、という言い方が本当にさりげなくて、傘を手渡してくれたときのように優しかった。けれど私はここで待ってますと言って、エレベーターを見送った。
ソウルが初めてなら、と参鶏湯のお店に行こうということになった。この辺りが明洞というソウルで一番の繁華街だと教えてくれた。「百済参鶏湯」そのお店は明洞のメイン通りから少し入ったところの2階にあった。窓際の席に座ると一広さんはメニューも見ずに「サムゲタン トゥゲ メクチュ ハンビョンジュセヨ」と韓国語で注文した。「韓国は出張でよく来るんだよ。注文ぐらいはね。ビール飲むよね?」そう言って顔をあげた。初めてちゃんと一広さんの顔を見た気がした。
参鶏湯は思っていたより鳥の形をしていて、「わあ、めちゃくちゃ鳥だ!」と思わず声がでた。一広さんは「当たり前でしょう」と笑った。小さな骨を格闘しながら食べ進める私を見て「真美子さんはとったらすぐ食べるタイプなんだ」と言った。一広さんの手元を見ると骨が私のそれより多くて、器の中には骨をきれいに取り除かれた鶏肉が見えた。「一広さんは先に骨を取っちゃうタイプ…?」と言うと「僕はA型だからね」と笑った。シンガポールで私がB型だと言ったのを、覚えているようだった。
「真美子さんはいつまでソウルにいるの?」
「明後日帰ります」
「じゃあ明日も晩ご飯一緒に食べましょう」
「はい」
「真美子さん」
「はい」
「シンガポールで、どうして泣いていたの?」
その瞬間、あの日のシンガポールの曇天が目の前に広がり、喪失の悲しみが押し寄せ、私は目を伏せた。手元のセーターが、ここがシンガポールではなく、真冬のソウルだと気付かせてくれるまで。
「…大丈夫?」
「私、婚約者がいました。でも、その人、他の人と結婚しちゃったんです。ひどい捨てられ方をした、それだけです。ずっとうまく悲しめなかったんです。あの日泣くことができて、よかった。もう大丈夫です」
「うん」
一広さんが黙々と骨と身を分けるのを見ながら「先に食べ終わったら、それ、もらいますね」と言うと「それは困る」と言った顔がおかしくて、二人で笑った。
少し酔って歩く明洞の街は、日本のそれとよく似ていて、だけど目に入る看板は意味をなさない象形文字で、現実味がなくて、ただただ寒かった。シンガポールで出会い、メールアドレスを交換した。ソウルに行ったことがない、行ってみたい、という私にソウル滞在の日を伝えてくれた。そのメールを頼りに、一人でソウルまで来てしまった。
「一広さん」
彼の横顔を見上げて、続けた。
「一広さんは悲しいとき、どうしますか?」
その声は通り過ぎる若い韓国人の集団に、かき消されそうになる。
「そうだなあ。空を見るかな。だからシンガポールで空を見上げて泣く君に、思わず声をかけた。僕もあんなふうに、泣きたかったのかもしれない」
二人で見上げるソウルの空は、雪のせいか曇っていて、空の果てなどないように思えた。
酔っぱらった人たちが大声で話しながら通り過ぎていく。その度に白い息がふわりと浮かぶ。迷路のような地下道を通って、ホテルに戻った。ロビーは閑散としていた。
「部屋に、きますか?」
一広さんがマフラーを外しながら、私の方を見た。
「いえ、自分のホテルに戻ります。地下鉄で駅1つだけなので、大丈夫です」
一広さんが地下鉄の入り口まで送ってくれた。「本当に大丈夫?」と何度も聞いてくれたのがおかしくて「こどもじゃないですから」と言いながら笑ってしまった。
「ああ、今日は初雪らしいよ。取引先の韓国人が教えてくれた。初雪は、好きな人と見るのがいいらしい」
そう言って足を止めた。私も足を止めて、光りながら落ちてくる雪を見ていた。
「役不足でしたか?」
私がそう言うと一広さんは驚いたような顔をして「いやいや、こちらこそ」と首を振った。
「本当に大丈夫?送って行こうか?」
「大丈夫です。ありがとう。明日、また」
「ああ、仕事が終わったら連絡するよ」
このまま部屋に行くこともできたのかもしれない。けれど、私は帰ることを選んだ。
明日また、一広さんに会いに来よう。明日は何を食べようか。やっぱり焼肉かな。
「真美子さん」
立ち止まる。足元に氷の固い感触が伝わってくる。
「明日、また部屋に誘うかもしれない」
一広さんはどんな顔をしているのだろう。わたしは振り返って何も答えず、代わりに胸のあたりで小さく手を振った。一広さんもつられて手を振っていた。
明日会える人がいる幸せを思いながら、地下鉄の駅に向かって歩き出した。
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