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香水

人間には五感がある。
触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚。
もっとも鋭敏な感覚は触覚とされ、他の感覚とは違い全身が感覚器官であり、特に指先は多くの神経があるために鋭くなっているそうだ。
しかし最も「記憶」に残る感覚はなんだろうか。
休日の午後。アパートの自室で珈琲を飲みながらシュンは考えに耽っていた。
目で見たものはもちろん記憶に入るし、耳で聴いたものもまた脳へ蓄積されるだろう。
ほかにも料理で気に入っている味などがあるならば、それは味覚が記憶として脳に記録されているからであるし、良い香りのもの、たとえば花の香りや今飲んでいる珈琲の香りも、それが放つ─持つ香りとして覚えられる。
記憶は思い出す事もあればそうでないこともあり、やがて忘却してしまう事もあるだろう。
シュンはいい香りが好きだった。
なにより気分が解れ、落ち着く。リラックスでき、時にリフレッシュができる。
身だしなみには気を遣っていた。服のシワはしっかり伸ばしてから着るようにしていたし、肌のケアも忘れない。
そして少量の自分が好きな香りを持つ香水を手首に振り、髪を整え、仕事へ向かう。
そんな平凡な生活を送るシュンには愛する人があった。
婚約はしていないが、相思相愛で、忙しない毎日を送り続ける中、愛する人─彼女の存在はシュンにとって生き甲斐そのものであり、彼女の何もかもがシュンにとっては大切だった。
特に、彼女が着ける香水はシュンにとっても強く記憶に刻まれていた。
何気ないとき。手を繋ぐとき、抱擁をするとき。
常にその香りは変わることがなく、また似た香りがすると彼女を思い出す。
これは嗅覚が記憶と結び付いているからだ。
いつどんな場面でも使える香水。
やがてシュンは彼女と香水を同じものに揃えた。
もっと彼女の存在を近くに感じたいと思い立ち、香りが馴染んでくるとさらにリラックスして日々過ごせるようになった。
彼女と私はともに仕事をしているため、互いの都合がつかなければ会えない。
会えない日々が続いたりなど、心が寂しくなるふとした瞬間があれば、シュンは香水の香りで落ち着くのだった。
ありふれた香りであり、ただの市販品のうちのひとつ。特別な原料だの、高額な価格だのといった香水ではない。
しかしシュンにとって、また彼女にとってその香りは記憶─想い出として脳に刷り込まれ、自分の大切な人の香りとして認識する。
その香りを感じるだけで彼女を思い出し、やがて記憶の引き出しの中の想い出を引っ張り出し、それはシュンを頑張らせてくれる活力となる。
今日もシュンは香水を手首に振り、ジャケットに腕を通して会社へ向かうのだった。

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