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猜疑心

猜疑心。相手の言動や、行動を疑う気持ち。
聞き慣れない言葉で普段使うこともないであろうが、とある平凡な青年はその言葉が頭から離れなくなっていた。
順当に高等学校を卒業し、大学校へではなく仕事をすることを選んだ。平凡な会社、自分を取り巻く環境。変わり映えせず、毎日が決して刺激的とは言えない生活を青年は送っていた。
もっとも、交際している女はあった。
青年は趣味も少なかったため、この女を一途に愛し続け、また記念日や節目の日などは積極的にプレゼントを渡したりなどし、女もまたこの青年を愛していた。関係は良好そのものだった。
青年はサラリーマンとして働く一方で女とも毎日連絡を取りあい、都合がつけば女と休日に出かける。
それが青年にとってはなによりも嬉しく、また女を愛し続けられ、何も持っていない自分には愛している女がいると再認識することが、自身の精神衛生を保つためにも良いのだった。
実際、青年には他に何か誇れるものはなかった。
家族はいるが裕福ではなく、また優れた頭脳を持っている訳でもない。勤めている会社は同年代の他のやつらよりは金は貰っているが、さして大きい差でもない。
煙草は吸うが、酒はやらない。青年は酔うことが好きではなかった。
趣味と呼べるものも一応はあった。一応というのも、今はやっていないものが多いためだった。
釣りやキャンプ。読書。ボウリングやビリヤードなどのスポーツも頻繁にやっていたことがあり、興味をもったことにはのめり込み易かった。
女との出会いは今の職場で、何も無かった日々が女が入社してきたことで大きく変わった。次第に気になるようになり、そこで運良く新部署が設立され、女とともにその部署に異動となったのだ。
「よろしく…ぼくは〇〇と言います…前の部署は…」
「こちらこそ、よろしく。私は△△です。入社してまもないので…」
ぎこちない初対面での会話を青年はふと思い出す。
割と馴れ合うまでに時間は掛からず、すぐに連絡先を交換した。自身の情報、女の情報、仕事以外の話も話すようになり、やがて青年は女を食事に誘った。
「食事でも、どうだい」
「いいですね、行きましょう。詳しく話をしたかったの」
やがて双方の休日が合う日にレストランで食事をし、バーへ行く。
青年は珍しく場の雰囲気に流されて酒を飲み、言った。
「ぼくと付き合わないかい、きみはとっても美しい、性格もいい。きみのためならぼくはなんだってできる」
冗談のつもりではなかった。青年は人生で初めて一目惚れというものをこの女にしたのだった。他になにもなく、この女とずっと過ごせるのなら自分はなんだってしてやるぞ。他に何もいらない。そんな気持ちをこめて。
「やめておいたほうがいいと思うわ。私はそんなに大した人間じゃないし、あなたにはもっといい人がいるんじゃないのかしら」
ありがちなセリフが帰ってくるが、青年は引き下がらなかった。なんとしても手に入れてやりたい。昂って抑えきれないこの気持ちを顔には出さず、やがて言う。
「きみじゃなければ嫌なんだよ。ぼくも大した人間じゃない。共通点も多い。気が合いそうじゃないか」
女は考えるような少しの沈黙の後、口を開く。
「じゃあ、付き合ってみましょう。やってみなければ分からないことも、確かにあるものね」
かくして2人は交際関係になり、今はそれから8ヶ月程が経つ。
二人の関係は良好そのもので、喧嘩などしたことはなかった。青年も前に交際していた女よりも比較にならない熱量を女に向け、日々の仕事を頑張っていた。
しばらく経ったある日。女とともに入った新部署が解体となり、青年は別の支社へ異動しろと辞令が出た。
青年は、そして女も悲しみ寂しがったが、女は浮気をするような女ではない。ずっとぼくと一緒に愛し合える。そう確信しているので青年は辞令通り異動した。
女とはさすがに以前よりは連絡の頻度は減ったが、それでも気持ちは変わらないように思える。青年はそう思い込む。
青年は女に一途であったが、女にも一途でいて欲しかった。 少々、いや相当に愛し合っていることを自分でも自覚していたかったのだ。若干の束縛心まで持っていたように思えた。
そのため、女から連絡が1日ないと心配になり、自分から連絡してしまう。自分の気持ちをしばしば多く伝える。
実際には女は浮気をする気などなく、青年の願うとおり、青年のことだけを愛していた。
青年は自分の想いが強すぎることを自覚していた。
女と交際関係になってからというもの、同棲を目ざし、やがては婚約を人生の目標とした。そのために様々な趣味をやめ、金を女のために使った。
そんな状況で女がいなくなったとしたら、青年はどうにかなりそうだった。女に別れを切り出されようものなら、自死すら選択肢にあった。
離さない。こんな想いは常に青年の中にあり、そんな中で過ごしていたあるとき、猜疑心という言葉を耳にし、またその意味を知るやいなや、青年は深く自分の女への考えに耽るのだった。
青年は考える。
今や順風満帆に動いている人生。女のことを生涯愛し続けると誓ったあの日。1つ問題があるとすれば、婚約していないので自分の想いがどうであろうが、女が自分から離れようとすれば離れられるのだ。それが異常なほどに心配になり、引っかかる。
青年は思い立ったように女に連絡した。
「ぼくのこと、ずっと好きかい。愛してくれるかい。ぼくは心配なんだ。きっとそれは無用なんだろうが、どうしたらこの心配を無くせるだろうか」
「私はあなたのことだけが好きよ。浮気なんてしないわ、当たり前じゃない。ずっとよ」
青年は連絡を終え、その場限りでは安心した。
眠る前、また猜疑心という言葉について考え始める。
それの為になかなかに眠れず、気づけば時計の短針は数を2つほど進めていた。
青年は呟き、考えることをやめて眠りに入った。
「猜疑心なんてものを抱くくらいなら、あの時もう少し考えていればよかったのかなあ」

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