怒ることに意味がどのくらいあるのか。
高校生に対して、怒鳴るは論外にせよ、怒ってどのくらい効果があるのか疑問を持っている。
〈「怒る」ではなく「叱る」〉論をしたいのではない。こんなのはどちらでも同じである。語の定義を、論者が好きに決めているだけだからである。
実際、例えば『大辞林』では、「叱る」の項でその語義が「怒る。」と書かれている。また『精選版 日本国語大辞典』では、「怒る」の項で「しかる。」と説明される。つまり語の一般的な意味としては、両者にたいした違いはないのである。
要するに、〈「怒る」ではなく「叱る」〉論者は、自分の言いたいことを「怒る」「叱る」という語に担わせているだけである。主張は、例えば〈感情的に責めるのはダメである。〉とか、〈相手のためにアドバイスをすべきである。〉とかに過ぎない。こんな当たり前に見えることを言ってもなにも面白くないから、レトリックとして「怒る」と「叱る」という語のちがいを利用しているだけである(と私は思う。)。
しかし、「怒る」あるいは「叱る」人が意識して、例えば感情的かそうでないかを分けていることに意味はあまりない。これらの行為の意義は、「怒」られている、あるいは「叱」られているその人がどう感じ、どう変わるかにある。いくら「叱る」主体がそう思っていても、相手が感情的に「怒」られたと感じ、やたらと反発して、自身の言動を改めないのであれば意味がないのである。
要するに問題は、「怒る」べきか「叱る」べきかという話ではなく、〈どのようにして相手の言動を良い方向に変化させるような介入をするか。〉なのだ。
最初に書いたのは、そのとき、「怒る」あるいは「叱る」と一般的に呼ばれるような介入に、どのくらい有用性があるのかわからない、という意味である。
大人に対して怒って意味があるのは、ごくごく限られた場面である。また、ごくごく限定的な意味である。副作用も大きい。だから、大人に対して怒るときには、戦略が要る。怒ることによる効果や影響がどんなものか自覚しなければならない。でなければ、たいていの場合、怒った本人が損をすることになる。
こんなことは、まともな社会人なら常識である。だから、まともな大人はむやみやたらと怒ったりしない。
しかし、学校の先生には、わりとすぐに怒る人が多い。善意で怒る、あるいは叱る。しかしそれが良い手であるのか。
ほとんどの場合、悪手ではないのか。
私はほとんど怒らない。ほとんど怒る必要を感じない。ただ淡々と指導する。
注意はする。例えば、授業中、指示したことに取り組まない。取り組めないのではなく、取り組まない。私はその生徒に近づき、「やりなさい。」と穏やかに言う。ペンを持たせて、机に向かわせる。怒る必要はない。
もしかすると、「めんどくせえ。」とかなんとか悪態をつくかもしれない。こんなことを相手にしても仕方ない。「やりなさい。」と言う。何度でも言う。粘る。たいていの場合、私より根気強く反発しつづける者はいない。どこかのタイミングでやり始める。
これを怒っていると見るかは微妙なところかもしれない。叱っていると見えるかもしれない。しかし、周りの生徒は、私がしつこいとは思っているが、怒っているとは思っていないようである。現に、「先生はもうちょっと怒ってもいいんじゃないですか?」と言われる。その場を見ていた生徒からである。
こんなことを書くと、〈生徒になめられる〉と言う人がいるかもしれない。しかし、毅然とした指導をしつづけ、それを態度に出していれば、なめられない。現にこれまでもなめた態度を取り続ける者はいない。怒る、叱るをせずとも、筋を通し、身を正して生活していれば、なめられることはない。
けっきょく、相手の言動を良い方向に変えるためには、時間がかかるのである。粘るしかない。何度も何度も同じことを指導し続けるしかない。
淡々と、粘り強く、一貫して、同じことを指導し続ける。これがいい。相手が高校生であれば、なおのことそうである。
これに「怒る」が必要か。私はあまり必要を感じない。
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