三国街道9 長岡宿→寺泊宿〔完〕
北関東で育ち・育てられ、越後が大好きな自分が三国街道の事を知らなすぎたので、雪が降る前に山を越え、日本海を目指します。
2022.09.23
1.長岡宿
私が通っていた茨城県の小中学校は、校長先生の方針で、夏休みの課題以外の宿題が原則禁止。学校では学び、家では遊びなさい、とのメッセージだといい意味で勘違いし遊び放題でした。
その影響か、予習復習をする習慣がなかなか身につかないまま、54歳になってしまいました。
最終日の歩行距離、30~35kmくらいかと思っていたら、45km以上ある事が前日に判明…。信濃川と大河津分水路が本来の街道ルートを寸断しているため、3度橋を渡る為に迂回するからです。
1日平均歩行距離25kmの目標とのギャップと、潰れた足裏のマメと、歩行6日目の疲労が、えぃ!もうどうにでもなれ!と開き直らせてくれました。
出張で長岡に何度か来てましたが、大都会というイメージはありませんでしたが、三国街道を歩いてくると、長岡市は大都会。中心部の雁木もスケールが大きく、ちょっとした商店街のアーケードレベルです。
2.中からみた雁木
様々な形をした雁木があり、これだけをじっくり観察していても飽きませんり時代と共に変化しているのでしょうね。
新潟県には油田があるのですね。国内原油生産量の約6割が新潟産で、日本一となってます。
3.街道から逸れた道
信濃川は船で渡っていたので、回り道をしながら進みます。
信濃川を渡る影響で、歩く道は三国街道ではありませんが、曲線などに街道らしい雰囲気が漂います。
名前がなくても、どんな道でも街道になり得ます。
街道に復帰するまで、しばらくは信濃川の土手の上。
本当にいい眺めで、雨でこの美しさという事は、晴れたらどんな風景なのか、又来たくなります。
4.街道に復帰
約2時間ぶりに、旧三国街道に復帰。何故がホッとしてます。とはいえ自信がないので、通りがかりのご婦人に「ここは旧三国街道ですか?」と訊くと、「わかりません」との返事。看板がないと不安になりますね。
三国街道の標柱が遂に現れました。
嬉しくて抱きつきたくなりましたが、グッと我慢。
船戸。
船が付く地名があると、かつては船着場があったのかなぁと想像し、舟運全盛期の頃の賑わいを妄想します。先程渡った黒川から信濃川を経て、物資が運ばれていたそうです。
5.与板宿
与板宿に入りました。
途中民家の室内駐車場に、与板の歴史を説明した写真などがたくさん貼られてます。入って良いものが除いていると、近所の人がどうぞ入ってください、と声をかけてくださり、楽しませていただきました。
多くの豪商がいたそうで、途中に大きな割烹があったり、名残がしっかりと残されてます。
どこまでも続く雁木の商店街。
街道歩きの醍醐味、道がクランク状に曲がる桝形があっても、与板の雁木は途切れる事はありません。
二度の桝形と、鍵の手を過ぎて、与板宿とはお別れ。見応えのある町並みでした。
6.里山修験道
街道の風景と路線バス。
これが不思議と絵になります。宅配業者のトラックも絵になります。昔から街道は人や物が移動する場所なので、じっくりくるのでしょう。
里山という言葉がぴったりの道。
橙色の柿・ピンクのコスモス・真っ赤な曼珠沙華・小金色に輝く田畑。歩けど歩けど、辿り着かない日本海を目指し、修行僧になったつもりで、前に前に、一歩一歩進みます。
7.大河津分水路
線路の跡が出てきてびっくり。
廃線跡好きなので、線路跡を辿っていたら、道を間違えて引き返す羽目に…。今日は無駄歩き出来ないのに、何しているんだ俺!
大河津分水。
信濃川下流域の洪水を防ぐために、200年前に発案され100年前の1922年8月に通水、今から1ヶ月前が100周年記念でした。工事に関わった人々は延1,000万人と言われてますので、世紀の大工事と言えますね。
大河津可動堰、水害から越後平野の人々の命を守ってます。
大砲のようなラジアルゲートと呼ばれる水流を調節するゲートは迫力満点!
8.地蔵堂宿
再び街道に復帰して、地蔵堂宿に入りました。お腹が空いて・足痛くて座りたくて・ビールも飲みたいのですが、本当に時間がないので、全部我慢して前に進みます。
分水の町は、大河津分水路の工事で賑わったからだと思いますが、割烹や旅館が残っていました。
酒屋さんの酒樽に"おいらん道中"というお酒があったので、遊郭があったのでしょう。桜の時期には、おいらん道中祭りもあるそうです。
延1,000万人が工事に関わったら、そりゃ賑わいますよね。
付近の家々は、殆どが三本の角が生えた様な特徴的な鬼瓦が乗ってました。
こういった建物の意匠の変化も、街道歩きの醍醐味です。
9.関中島宿
十王堂の説明看板に、中島宿は冬季間に北国街道(=北陸道)の継立地として栄えたと記されてます。
北国街道は日本海側のはずなので、冬場の気象条件が影響しているのですね。
立派な木壁の家が増えてきます。雪国だからなのか、方角は関係なく一階には窓が殆どありません。街道の風景が様々な木の色に彩られてます。
10.渡部宿
再び大河津分水路を渡ります。
江戸時代にはなかったので、当時の人が知ったら驚く事でしょうね。
渡部宿にはお城があったのですね。宿場町らしい景色は楽しめませんでしたが、里山の風景に癒されました。
寺泊宿の手前、写真では伝わりませんが、昼でも街灯がついている、薄暗いちょっとした峠道を超えます。
さぁ、あと少し!
11.寺泊宿
北陸道に合流し、静かな雰囲気の寺泊宿に入ります。海辺の宿場町は30年前に東海道を歩いた時にも、海辺感を感じた記憶が無かったので、初めてかもしれません。
神社やお寺が崖の上にあり、日本海が見渡せそうですが、気力・体力・時間が無いので断念。
港で海をみて、土産を買って、酒飲んで、あっという間にさいたま市に戻ってきました。
歩けないので、次女に自転車で迎えにきてもらい帰宅。
本当に色んな事が起きた、記憶に残る9日間の過酷な行軍、街道の神様に感謝!
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