化石


1.序

 季節の訪れを感じさせるのはいつも匂いだった。そしてそれは多くの場合において家の外で感じる草や木や花の匂いである。
 しかし冬は違う。私に冬の訪れを感じさせる匂いは、家の中で感じる石油ストーブのそれであった。春夏秋に感じた匂いを生み出した者たちが死に、土に還り、途方もない時間をかけて変質した、いわば死臭である。

2.隣人

 死とはノンアポでやってくる不躾な客人ではなく、常に鼻先三寸で私の目を見つめる異常な隣人である。この隣人は日常生活においては全くと言っていいほど存在感がないので私たちは気付くことすらない。しかし特定の条件が揃ったときその影は黒く濃くなり、そこで初めて感じ取った視線を、私たちは「命の危機」などと呼んだりする。
 誘う意図としては優しさの欠片もなく、警告する意図としては些か鋭すぎるその視線は、いずれにせよ感じた段階ではまだ手遅れではない。「都合の悪い事実から目を逸らす」と、いい文脈で使われることがない言葉があるが、私たちはこの視線――死という都合の悪い事実から目を逸らし続けることで生き永らえているのだろう。
 目が合ってしまったとき、その視線を受け入れてしまったとき、私たちはいずこかへ誘われるのだ。

3.匂い

 辛味は味覚ではなく痛覚であるが、他の味覚と同列に語られる。これは冬の朝の匂いも同じような気がしてならない。春夏秋の朝、感じる匂いは純粋に空気の匂いである。が、冬のそれはまた少し違う。空気の匂いに加え、鼻孔の粘膜を刺激する冷気が加算されているのだ。また冬の空気は植物の匂いが占める割合が少ない。故に無機物的で異質である。
 刺激臭とはまた異なる刺激が鼻を伝って呼吸器系の粘膜を刺すとき、私は日が昇りきっていない、彩度の低い東の空に目を遣る。鳥の声も少なく、黎明か薄暮かの区別も難しいその空は、危険なほどに馨しい死臭を放つのだ。

4.印象

 季節に生死の印象を割り振るのであれば、冬は間違いなく死である。隣人は、冬に住んでいるのだろう。
 隣人の影が少し濃さを増したとき、影の濃さが光源の強さに依存するように、生もその存在感を増す。冬に抱く死の印象の一番大きな要素はその冷たさにある。人はその冷たさから目を背けるため部屋を暖め生を実感する。春や秋では抱くことのない生の実感だ。そうして効き過ぎた暖房に、人は夏めいた「視線」を感じ、先ほどまで感じていた視線に生を見出す。馨しい死臭とは、当にこのことなのである。

5.跋

 今年も私はまた冬を乗り越える。若しくはここが終着点となるのかもわからない。いずれにせよ、遅かれ早かれ隣人と目が合い私はいずこかへ誘われる。そうなってから幾星霜が流れ、私はきっと化石となる。私がそうなったとき、その時代に生きる人は、冬に私の化石を燃やし、隣人の視線から目を背けるのだろうか。
 今はまだ、誰にもわからない。


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