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コミュ強もつらいよ〜代理的憤りとの戦い〜

「コミュ強でいいよね」とたまに言われる。自身をいわゆる「コミュ障」自認をしていらっしゃる方からだ。その度に、ちょっと待ってくれ、と思う。

まず第一に、生まれてこの方なんの努力もなしにコミュ強であったわけではないよ、とは思ってしまう。たしかに幼少期から人見知りした記憶はさほどないし、口は回る方だったと思う。しかしそれだけではなくて、わたしなりの努力もしてきた。失敗をしてはその度に猛省し、改善できる点を探ってきた。常時相手の反応をうかがい、なかなか気も休まらなかったりする。ある種の生存戦略だった節さえある。「コミュ強でいいよね」と言われるとき、センス一辺倒でやってきたように思われている気がして、幾分かもやもやとする。

もっと言えば、「コミュ強ってそんなにいいもんではない」とも思ってきた。コミュ強であることの副作用のようなものがこの世にはいくつか存在する。それははたから見れば「贅沢な悩み」かもしれないが、贅沢だろうがなんだろうがつらいもんはつらい。今日はここで言うコミュ強の副作用のひとつについて書き記したい。

本題に入る前に、筆者と話したことのない人のためにわたしがどのくらいのコミュ強である(と自認している)かを示しておきたい。

大学の偏差値で例えるなら、わたしのコミュ力は総合するとMARCHくらいかなと思っている。最も自信があるのは中学生〜30代後半くらいまでの1on1で、これについてはギリギリ東大には入れる。大人数の場面になると早慶かMARCHくらい、最も苦手なのはかっちりした丁寧語が求められる商談のような場面で、たぶんこれは日東駒専くらい。トータルするとMARCHかなと。

親しい友人にこれを話したら「きみは早慶くらいでは」と言われたものの、そういう他者評価より自己評価がいささか低いのは、兄と姉の影響がある。わたしの兄と姉は「しゃべりと人当たりがすべて」であるようなあらゆる職場で、ことごとく素晴らしい成績を出してきた。コミュ力に関して上2人には一生敵わないといまなお思っている。東大に余裕のA判定で合格しました、みたいな人間をずっと見てくるとさすがに自己評価も下がる。上には上がいる。

「お前のコミュ力もうちょっと低いだろ」と思われる友人の方いらっしゃいましたらご一報ください。猛省します。

あと念のため言っておくと大学を例に出したのはわかりやすい指標にしただけです。個人的な恨みとかないですよ。私怨があるのは神田外語大くらいです(言うなよ)。

本題に入る。

結論を言ってしまうと、コミュ強の副作用のひとつは「架空の誰かの代理的憤り」を感じてしまうことだ、と考えている。これだけではわかりづらいと思うので、具体例を交えながら説明していく。

先にそもそも論を話すと、コミュ強にも大きく分けて2種類の人種がいると思っている。ひとつは満足度(快)を100%、200%にすることを志向する、リーダータイプのコミュ強。いわゆる「話がまじでおもしろい奴」である。多少ミスるリスクも抱えながら、彼らは200%を叩き出そうとする。大人数の場であればより彼らの魅力は輝くであろう。

もうひとつは、コミュニケーション上の不快さを0%にすることを志向している、フォロワータイプのコミュ強である。先のタイプと対比させるなら、こちらは1on1の方がおそらく強い。もっと言えば、このタイプの究極的な形は話した相手側のおもしろさを引き出せることだ。ツッコミなどの相槌に絶対に不快さを生まないことを目指す。

リーダーとフォロワーと言ったが、リーダーシップにはある種のフォロワーシップが、フォロワーシップにはある種のリーダーシップが求められるように、上記のタイプは完全に切り分けられるものではない。リーダータイプも不快さを生まない気配りはしているだろうし、フォロワータイプもときに200%を叩き出す。この区分はあくまで何を志向しているか、どこをコミュニケーションにおいて最重視しそこからスタートしているかというだけの話だ。

わたしはフォロワータイプである。とにかく不快さ0%のコミュニケーションにしたい。極端な話ゼロサムゲームであるとさえ思っていて、相手に不快さを1%でも生んでしまったらそれはもう20%や50%と大した差はない。猛省対象である。

さて、不快さ0%を志向する上で普段コミュニケーションの中で何をなしているかと言うと、相手が「不快になる場合」をとにかく想定し続けることである。こういう言い方はきっと嫌がる、これを言わなければ相手は引っかかってしまうであろう、といったことを常に考え続け、それを避け続ける。

少し余談かもしれないが、コミュニケーションには「エクスキューズ」というものがある。わたしと同じくフォロワータイプのコミュ強である同居人との会話はかなりのエクスキューズで溢れている。いちばんわかりやすく頻出なもので言えば「いまちょっと話せる?」だ。どれだけ相手が暇そうに見えても、相手に話す気構えがなければ、いきなり話し出すのは不快になりうる。「これは愚痴なんですが、」あたりもよく言う。愚痴というのは聞く相手にとっては幾分かの気力を要するものであるからだ。なお、こういったエクスキューズは、コミュ強のテクニックと言うよりはメンヘラの作法かもしれない。メンヘラとメンヘラがうまく生活をやっていくためには、相手のジャストなうのメンタルを常に思いやることが必要である。

このように、常に「相手の不快さ」を想定し続けると何が起こるか。それは、自分でない第三者同士の会話に混ざっているとき、「その発話は相手を傷つけうるだろう」と感じてしまうと、勝手に怒りを覚えてしまうということだ。

具体例を話そう。AとBとわたし3人で話していたとする。AがBに向けて放った一言が、Bという人間を侮辱していると感じられるものだったとする。わたしはまったく関係ないにも関わらず、勝手にBの気持ちになって憤ってしまう。実際にBがその発言をまったく気にしていなかったとしても、だ。「Bがどれだけ苦労してどれだけ大変なことがあってここまできたと思ってるんだ?」などと、顔には出さずとも内心怒り狂ってしまう。わたしの中の「仮想世界のB」がひどく傷ついていることを想像してつらくなってしまう。

おかしな話である。実際にその後Bと2人になって、「さすがにさっきのAの発言はどうよ?」みたいな話になって、Bが「さほど気にしてないよ」と言ったとしても、わたしの中のつらさは残り続ける。

これがフォロワータイプのコミュ強の副作用その1だ。不快さの想定をし続けるということは、「仮想世界の不快がってしまう人々」に共感し続けることとも言える。それはときに行きすぎた共感である。A-Bの二者間ではとりたてて問題でなかったはずのコミュニケーションに、無関係なわたしが勝手につらくなる。

少し違った話も出そう。

「一言言ってくれればそれでよかったのに」問題だ。

コミュ強というものは、特にフォロワータイプであればいっそう、言葉というものを大事に思っている。たった一言で人間が救われることも、たった一言ですべてがだめになってしまうことも知っている。だからこそほんのちょっとした言い回しにまで気を配るし、それ以前に「言う/言わない」の精査を確実になしている。

「言う/言わない」の精査がなされるというのは、言うにせよ言わないにせよそこに意図があるということだ。「なんとなく言った」「なんとなく言わなかった」は、基本的にわたしの中ではありえない。(なお、いまさら注釈をつけるほどでもないかもしれないが、「親しさがかなり強固に確立されている相手に、いわゆる『マックの女子高生』ばりに文脈もなくとにかく思いついたことを吐露しているだけでいい」場合のコミュニケーションはここでは含んでいない。同居人レベルになるとなんの気なしに話したりもする。まぁそれでも「全然関係ないけど思いついたから話すんだけどさ」とエクスキューズは出してしまうが。)

この精査を基本常備していると、相手が「言わなかった」ことをことさら重く受け取ってしまう。自分が「言わない」ときにはいつも意図があるのだから、相手が「言わなかった」ことにも意図があるように感じてしまう。相手は「なんとなく言わなかった」だけかもしれないのに、「言ってくれなかったということは……」と邪推してしまう。その邪推はときに、「言うほどでもない相手だとみなされていた」と、自分が軽んじられているような気になって、つらくなってしまう。

だからしばしば、「一言言ってくれればよかったのに」と思ってしまう。「一言ねぎらいの言葉をもらえたらそれでよかったのに」とか、「一言『我慢してくれ』って言われればそれでこらえられたのに」とか。

つい先日もそういうことがあった。相手に「言えなかった」事情があることは頭ではじゅうぶんわかっていた。相手には全幅の信頼があったので、きっと相手には相手の都合と意図があり、それはやんごとなきものだったのだろうと、頭では、よくよくわかっていた。それでも心が追いつかなかった。「一言言ってくれればそれでよかったのに」。軽んじられたような気がした。

しかし、同居人に指摘された。「きみはきっと本当に軽んじられたとは思ってないよね」。それは真だったと思う。わたしは、わたし自身が不快がっていたというより、「仮想世界のわたしが不快がっている可能性」について、結局はつらくなっているだけだった。

おわかりいただけるだろうか。自分でもおかしなことを言っているとは思う。「頭ではじゅうぶんわかっていた」というのは、その時点で「わたし自身」の折り合いは一定ついているのだ。それでもつらがってしまうのは、「軽んじられたと感じうる仮想世界のわたしがつらそう」という、いわば並行世界のわたし<誰か>のつらさの代弁なのである。可能性世界へのつらみ。結局は先の話と同じところに帰結したのだ。

不快さ0%のコミュニケーションを志向し、わたしは結果的に「コミュ強」と呼ばれうる人間になった。不遜ながらコミュ強は一定にモテる。恋愛でも仕事でもそれなりに得をしてきたことも多いと思う。うらやましがられたりしても何も言えない程度のいい思いもきっとしてきた。

それでも言わせてくれ、副作用というものは存在する。「架空の誰かの代理的憤り」なんて、不毛もいいところである。不毛すぎるつらさにしばしば苦しんでしまう。苦しむのをやめようとすると、もう不快さ0%のコミュニケーションは諦めなければならない。それもまたできない。性質的に。こういう運用のコミュ強を、もう抜け出せないほどには続けてきてしまった。

ひとつ言い訳めいたことを追記すると、これは別の次元で語るなら「実際はすべて『自分自身の憤り』であるものを、架空の誰かのものとして処理しているだけでは?」という議論もあるのだが、それについては整理しきれていないのと、あまりにも話題がとっ散らかってしまうので、ここではあるひとつの次元の話として処理してもらえると嬉しい。


ブログなんて言いたいこと言ってればいいはずなのに、やっぱりいささか「これを読んで不快がってしまう誰か」への想定はしてしまう。そして読者の反応が見えない以上それは確認できず、ちょっとゲロ吐きそうな気持ちで記事をリリースすることにもなる。ブログ向いてないだろ。それでも書くことがすきだし、まぁもっと言えば話すことも好きなんだから、困ったものである。

メインの作用に比べたら副作用なんてささいに感じられるかもしれない。それでも、それでも言わせてくれ、「コミュ強もつらいよ」。


*追記

「一言言ってくれればよかったのに」問題に関連して。基本的にわたしは世のディスコミュニケーションの多くは「こう言ってもらいたかったのに言ってもらえなかった」だと思っていて、これは恋人のすれ違いあるあるでもある。「慰めてくれればよかっただけなのに慰めなしに具体的なアドバイスしてくる男に女が『そうじゃなくて』ってなる」みたいな。わたしはこれは「事前にそう伝えなかった」側の甘えだと思っている。以心伝心なんてものは幻想である。人は言わなきゃわからない。だからわたしは確実に慰めてほしいときは「これは慰めてほしい話です!」とか先に言ってしまう。それで慰めてくれない奴とはそもそも友達じゃないので付き合ってない。「これはえらい話なんですけどね」とか話し出して、「えらい!」って言ってもらえたらそれでよくないですか?わたしはそれでいいです。

今回の問題で言えば、「一言言ってもらえるようにこちら側から事前に働きかける」が対処としてありうるのだけれど、やっぱそれにも限界があるよね、という。以心伝心はないとは言え、言ってもらえると思ってる相手に「言ってくれないかもしれない」と疑い続けるなんて、基本すきな人間に全幅の信頼を置きながら生きてる身としてはそれもつらいじゃん。ねえ。ふええ。


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