【ライム】君の笑顔、姉さんの幸せ

小分けにされている大量の飴玉を、紙袋いっぱいに詰め込んでやってくる君は、いつも満面の笑みを私に向ける。
その笑みは他の人に向けられるべきで、その飴玉も私なんかにあげるよりも他の人にあげた方が良いだろうに。

洗濯機が洗濯を終えた音を鳴らした時に、君はいつもやってくる。私はどうも生活のリズムを変えることができないようで、毎日同じ時間に洗濯機を回している。だから、何時ごろ洗濯が終わるのか、君はわかっているのかもしれない。
私は縁側に腰をかけ、遠くに聞こえた洗濯機のピーピーという音を聞きながら、庭に置いてある物干し竿をぼんやりと眺めていた。ステンレス製の物干し竿が太陽に当てられ光っている様は、見ているだけでじりじりとした暑さを感じる。
少しでも涼しさを感じたくて、私は目を閉じた。しばらくの間そうしていると、風鈴がチリンと涼しげに鳴った。
すると、風鈴の音をかき消すほどの足音が家の中から聞こえ、隣に誰かが座った気配がした。
「お疲れさんです、姉さん」
聞き慣れた声に私は目を開けて、隣を見た。
思っていた通り、私のことを勝手に姉さんと呼ぶ君がいた。いつも持ってきている紙袋を抱えて、今日はコンビニの袋も持っていて、ただそこに座っていた。
「今日も、来てくれたの」
「そりゃあ、洗濯物を干さないといけないっすからね」
そう言うと君は立ち上がり、紙袋とコンビニの袋を座っていたところに置いて家の中に戻っていった。
私も何かしなければと思い立ち上がろうとしたが、一切動けなかった。どうしてもこの時間帯は、縁側から動けなくなってしまう。いつからそうだったかは覚えていない。気付いた時にはそうだったけれど、その時間には決まって君が来てくれているから特に問題はない。

「姉さん、ちょっと待ってて」
家の奥から戻ってきた君の手には、洗濯物が入れられているカゴがあった。洗濯物の上にはプラスチックのハンガーがいくつもあった。
縁側の下には君専用のサンダルが置かれている。君はそれを引っ張り出して、縁側から外に出た。地面にカゴを置いて、物干し竿に洗濯物を干していく君は、母親のようだ。
私は母親のことは覚えていない。そもそも、両親の記憶は何もない。私の記憶は、君が洗濯物を干しに来てくれるようになってから始まっていて、それ以前は私の中では無かったことになっているのかもしれない。
それでも、母親のようだと思った。君は男の子だからどちらかと言うと父親なのかもしれないけれど、その後ろ姿はとても優しくて温かいものだと思った。
「すっかり大きくなっちゃって」
「男ってのは、すぐに身長伸びるんすよ」
私がぼそりと呟いた声に、君は敏感に反応した。ちょうど洗濯物を干し終わったところで、君は空になったカゴを持って家の中にまた戻っていった。
今度はカゴを置きに行っただけだから、君はすぐに戻ってきて私の隣に座り直した。

「姉さん、はいこれ」
コンビニの袋から透明な飲み物が入ったペットボトルを取り出して、私に差し出した。受け取ったペットボトルは、縁側に置いていたからかまだほんのりと冷たくて、気持ち良い。
「いっつも烏龍茶ばかりっしょ。それも良いっすけど、サイダーもさっぱりするっすよ」
君に促されて、私は慎重にキャップを開けた。開けた途端、炭酸がシュッと音を立てた。その後聞こえたシュワリとした音は、聞き覚えのある音だった。
口をつけてペットボトルを傾けると、口の中いっぱいに爽やかな甘みが広がった。シュワシュワと喉を通る涼しさ。サイダーなんて飲んだことがないはずなのに、何だか懐かしい。
「サイダー…久しぶりに飲んだの、かな」
私がそう言うと、君はふにゃりと笑った。
「なんか曖昧っすね」
君はこんなことで私に笑顔を向ける。私はその笑顔にどうすればいいかわからず、もう一口サイダーを飲んだ。そうして私が時間を潰していると、君は紙袋の中を覗き手を突っ込んだ。
飴玉の入った小さな袋同士がぶつかりガサガサと音を立て、君は時折「いてっ」と小さな声で言った。そして君は紙袋の中から、小分けにされている小さな飴玉を3つ、私の膝の上に置いた。
「はい、今日のおすすめ」
そう言った後に君は、紙袋の中からもう一つ飴を取り出した。大きなその手で小さな袋を開けて、ポンと口に放り込んだ。
私は膝に置かれた橙色、黄色、緑色の飴の中から、橙色の飴を選んで袋を開けた。私は袋から飴を取り出して、少しの間食べずに見ていた。
「それ、みかん味なんすよ。今日の3つはさっぱり系。みかんと、レモンと、ミント」
どれもこれも、食べたことのない飴の味だ。私は手に持っていたみかん味の飴を口に入れた。
「うん、美味しい」
「そっか、そりゃよかった」
君はそう言って、また笑った。

思い出せそうなかけらはたくさん散らばっているのに、私は何も思い出せない。思い出したいとも、思えない。
君の笑顔に見覚えがあるのはどうしてなのか。サイダーの味に覚えがあったのはどうしてなのか。
君はどうして洗濯物が干せない私の代わりに来てくれるのか。毎日来ては飴をくれるのはどうしてなのか。
どうして君は私に笑いかけてくれるのか。
いつか、思い出せる時はくるのかな。


俺は知っている。姉さんは、洗濯機は回すがハンガーにそれらをかけることができない。それはただ不可能だということではなくて、精神的に不可能だということだ。
姉さんの母親が自殺したという話は、近所で噂になっていた。具体的な話は聞いていないが、姉さんの様子を見ればどうだったのかはわかる。
姉さんの母親が亡くなってから1週間。俺は姉さんの家を訪ねてみた。その家は母親と仲良く暮らしていた家で、俺も何度か縁側でスイカを食べさせてもらったりしていた。
俺が行ったのは昼過ぎ。姉さんは縁側に1人、寂しそうに座っていた。
俺はそれを見た瞬間に、姉さんの家に通うことを決めた。何度か行くと、姉さんの生活リズムがわかるようになった。決まった時間に洗濯機を回し、洗濯物は干すことができずにそのまま放置する。それを俺が干していた。そして、姉さんは母親が自殺した以前の記憶を一切なくしていて、母親がいたことすら覚えていないということを知った。
今のこの人は、空っぽになっていた。だが時々、何かに反応を示すことはある。
最初の頃は針金ハンガーを見ただけでパニックを起こしていたから、俺は全てプラスチックのハンガーに変えた。
きっと、母親の自殺に関係していたのだろう。それから俺は、少しでも姉さんがパニックを起こしそうになる物は全て遠ざけた。
この姉さんという呼び方もそうだ。俺は近所のガキってだけだから、下の名前にお姉ちゃんをつけて呼んでいた。だが、この呼び方で辛いことを思い出してほしくなくて、姉さんと呼ぶことにした。話口調も変えた。俺だと気付かれないように、最新の注意を払っている。
だが、俺の行動は矛盾している。
毎日飴をあげるのは、姉さんが昔俺にそうしてくれていたから。「今日のおすすめはこれ」と言って、いつも違う味の飴を3つくれていた。
今日サイダーを持っていったのは、お祭りの日に姉さんが買ってくれたラムネを2人で飲んだことがあったから。姉さんは「初めて買ったけれどラムネって美味しいね」と、とても嬉しそうに言っていた。今日は記念日だとまで言っていたから、サイダーの味は覚えているんじゃないかと思った。
そして、俺は姉さんに笑いかけるようにしている。姉さんが「その笑った顔、好き。何だか元気が出てくる」と言っていたのを俺は忘れられない。俺なんかの笑顔が姉さんの元気に少しでもなるなら、それは良いことだと思った。
辛いことは思い出してほしくないが、元気ではいてほしい。幸せでいてほしい。

だから俺は今日も、飴とサイダーを持って行き、プラスチックのハンガーに洗濯物を干すのだろう。

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