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すきで居続けることについて

長い前置き(12歳)

中学生のころ、メールアドレスを開設するのにあたり、一生自分が好きで居続けられるものについて考えたことがあります。

当時、「すきなアイドル」(嵐ドンピシャ世代の現在24歳なので、ARASHIはたくさん見かけました)や「smile」(なぜ中学生は気軽にsmileって使うんですかね、笑顔が大事とたくさん言われるから誰も傷つけないハッピーワードとして認識しているのでしょうか)やらをメールアドレスにみんなが入れていました。私は、自分の好みが非常に移ろいやすい自覚があったうえに、メールアドレスの変更の手間(自分の元に届くメールアドレス変えましたメールに辟易していた)を考え、絶対に変えなくて済むために、自分がすきで居続けられるものをメールアドレスにしようと決め、“すき”について考え始めました。

変わらないものなどないのではないか、そんな哲学的な迷宮に迷い込みながらも、中学生の私はなんとか「すきなたべものはめっちゃおいしいから絶対にずっとすきじゃん」にたどり着きました。
今思うと、味の好みも変わりゆくので、「学生時代に毎日こってりラーメンを食べているからって一生こってりラーメンが好きではない」は起こり得る話だと思うのですが、当時12歳の私は、か~天才!おいしいは一生おいしいもんね~と意気揚々メールアドレスをすきなたべものにすることに決定しました。

すきなたべもの。なんだ?米か?

KOME@XXXX.co.jp 。登録済み。だめである。同じことを考える人はたくさんいる上に、私がおいしいと思うものをおいしいと思う誰かも必ずいるのです。

もう少し細かく、もっときちんと、まっすぐにすきなたべものについて考えてみよう。どんな米がいちばんすきか。炊き立て。そりゃそうだ。そうではなくて合わせの話だ。そうだな、シチュエーションで考えるか。一番テンションのあがるお弁当(私の中学校はお弁当持参しないといけなかったので、毎日母のお弁当を食べていました)…まちがいない。そぼろごはんだ。

月に何度かやってくる“そぼろごはんDAY”は私にとって最高のたのしみのひとつ。母が二十歳のころに使っていたオールド&キュートで、ぼってりした大きくてとっても重い保温ジャー。そいつにたーっぷり入ったそぼろごはん。マイラブそぼろごはん。決まりです。

でも、SOBOROGOHAN@XXXX.co.jpも登録済みでした。

オーケー。ではそぼろごはんだけでなく、2位と3位も並べてみよう。そぼろごはん以外で好きなもの…お弁当じゃなくて、夜ご飯として今度は考えよう。「今日の夜ごはん○○○○だよ!」「やったー!」うーん…ここに当てはまる可能性のあるもの…うーん…は、ラザニア?ラザニアだな?ラザニアは圧倒的に「やったー!」となる絵が見えるな。ラザニアにしよう。あとは、なんだろう。納豆?いや、でも納豆はあったらうれしいけどなくても平気かな。牛乳?いや、毎日飲んでるけど。あんこ!いやうれしいけども、あーーーーハンバーガー!

そんなこんなで、私の当時のメールアドレスは“すきで居続けられる”ものとしてそぼろごはん・ラザニア・ハンバーガーに決まりました。

さて、この“すきで居続けられるもの”問題に、次のビッグウェーブがやってくるのは、22歳の春。すきなたべものの話をしていたら、知人に「全部挽き肉だね~挽き肉好きなんだね~」と相槌を打たれてしまったのです。その間10年。私の絞りだした(挽き肉だけにネ!)すきで居続けられるものに、非常に大きな共通点が発覚。いかに私が料理をしたことがないかを思い知りました。
今後の人生、メールアドレスを変えることは今のところ予定していないので、これからもずっとsg(そぼろごはん)rzn(ラザニア)hg(ハンバーガー)…(まあ全部挽き肉なんだけどね)…@XXX.co.jpとメールアドレスは打ち続けます。なんなら各種SNS等のIDも全部sgrznhgです。

でもって、メールアドレスを変えるわけではないけれど、24歳、いまの私にとって、すきで居続けられるものってなんなんだろうというのは考えてみようかな、と思い今回noteを書き始めました。(前置きが長い!)

そして、24歳

自分の言葉で何かを綴った記憶をたどると、大学入学時に「この世で一番美しく尊いのは言葉、言葉より美しいものが在るのかについて考えるために大学に進学したい」と志望理由書を書いた事を覚えています場面にたどり着きます。そう考えるようになったのはいつからなのかは思い出せないのですが、いつからか分からない遠い昔から、生きることにおいて、美しさというのは常に私のなかに大きく存在しているように思います。

大学生のころの自己紹介では、「美しく生きる」という中原淳一さんの言葉を引用しながら、徳と気品と教養、無駄を大事に生きていきたいと書いていて、大学卒業時の新卒採用では合言葉みたいに「強く美しく」と唱えていました。

そう言う24歳の私は、大学生のころに思っていたシンプルな強さよりも、しなやかな強さに惹かれています。と、なると、今唱えるのならば、「しなやかに美しく」がいいのかしら。
そういえば、22歳のころに、知人に「すっくとしたひとだね」と言われたことがあり、その時に、か~恋~~~軽率に恋~~~と思った記憶があり、その時から“すっくとし続けたいな”と思い続けているので、「すっくとして美しく」でもいいのかも。

さて。いつからか分からない遠い昔から、生きる上での美しさについては思っていたわけですが、これは、おそらく、母が私に24年間かけて骨の髄まで母流のノブレス・オブリージュを染み込ませたのだと予想しています。私にとっては、しなやかさも、すっくとするのも、全部気品につながっていて、その先に母流のノブレス・オブリージュがあるのです。

母流のノブレス・オブリージュは、「高貴なるものの義務」の“高貴”の範囲が本来の意味合いよりひろい(と思っています)。母は日々、金銭以外の価値を、金銭の価値と同時に教えてくれ、知ることや考えること、表現することに話し合うこと、それらで出来上がっていく生き方それ自体の“高貴”さを説いていたように思います。

だから、私にとっては、多かれ少なかれ自分の周りにある、だいすきなものや大切なものを生むことができた世界、そして自分自身が世界のなかで考えられる状況にあるということ自体に対して、世界に御礼を込めてに還元していくべきだし、還元したいという意志を持つことが、気品をもって生きることです。そして、私にとっては、気品を持たずに生きても美しくなく、美しくなく生きることは死よりも苦しいのです。

で、この、このように生きていきたい、という想いこそが、もしかしたら私にとっての“すきの根源”であって、美しさについて考え続けられること自体が“すきで居続けられるもの”なのではないかな、と思うようになったわけです。
(こうなってくるとここに挽き肉が含まれるのかは分からなくなってきますけどね。不思議!)おわり!



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