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京都で考えたこと

秋の初め、何処ででも仕事ができるようになったので、京都で仕事をしてみようと思い京都でしばらく仕事をしてみていました。
行くまでは、わたしは京都のことがすきなんだなあ、と思っていたけれど、過ごしてみて、もっと正確には、わたしのことを知らない街に、街のことを知らないわたしがいる状態がすきなのだと気が付きました。夢の中で生活をしているみたいな主格不在の空間が心地よく、東京でほとんどずっと過ごしているからこそ憧れてしまっている部分なのかもしれないな、と思いました。

ちがう街での生活は、月並みですが、考える時間が増えました。知っていることによって街に奪われることのない時間と気持ち、知っていることによって奪わなくて済む安心感。知ろうとしているわけでもない不在な滞在だからこそ、“ただ在る”に近い状態で過ごせるからこそ、“在り方”にまでこころが届く。

何かを遂行するときに、太陽的アプローチを行う太陽寄りの在り方のヒト。北風的アプローチを行う北風寄りの在り方なヒト。

太陽寄りの在り方は、ぽかぽかだから脱ごうというポジティブな響きで隠れてしまっているが、究極的にはすごく横柄なことなのではないか、選択肢を委ねているようで一番帰結を求めているのではないか、そんなことを考えていました。
近頃、良心や良識、良いとされること、美しいとされること、徳や愛について疑問が増えてきています。伝えること、つくること、関わることに恐ろしさを感じるときもあります。そして、呪文のように唱えていた“強く美しく在りたい”とは思わなくなってきています。

なるべく多数決をしないで生活をしていきたいな、など考えているうちに夜が更けることが増え、2020年は歳をとった気分のする1年だったな、などと思うのですが、それはまた別の機会に。

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