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本を買うまでのはなし

 読んだ本のことを人は多弁に話す。一方で、本を選んでいるそのときや、本屋に足を向けるときのことを話す人は多くない。私にしか分からないことも含まれていると思うが、池袋のジュンク堂で本を選んでいたときのこと、ジュンク堂に行くまでの左右左を話したい。

  東京の新刊書店といえば新宿の紀伊國屋本店というのが、大学生のころから一昨年くらいまでの私の頭の中だった。紀伊國屋だけで満足する、というか大体そこでどんな本でも揃っていると思っていたから、神保町や池袋にも書店はあるのを知ってはいたが、足を運ばなかった。

 中央線の沿線に住んでいた学生の頃には池袋は、新宿でまた乗り換えないと行けないから、近くて遠い場所だった。中東への旅を終えて、東京に仕事を得た私が住んだのは駒込だったが、駒込に住まなければ池袋はずっと微妙な位置に居続けただろうと思う。私にとっては、新宿紀伊國屋より、池袋のジュンク堂の方が居心地がいいということも知らずじまいだっただろう。今朝起きてから、今日はどこの古本屋、本屋、喫茶店に行こうかと思案をする。私の中では、古本屋と本屋は別腹である。本屋とは、新刊書店を指す。古本屋で、あれよあれよという間に散々本を買ったとしても、本屋に行くとむくむくと本に手を伸ばす。雨が降っているから、走りには出れないな、じゃあ着替えてすぐ本屋に出かけるか。思い浮かんだのは、新宿紀伊國屋と池袋ジュンク堂。駅から少しだけ歩きたいとき、新宿まで行く気分ではないときは後者を選び、今日はその後者にした。

 9時30分、ジュンク堂の前に着く。開店は10時で、行こうと思っていたジュンク堂のなかの喫茶スペースは、1時間遅れて11時始まりとの掲示を店頭で見た。隣にあったスタバというカフェで持ってきた本を読む。昨日、バイト先の古本屋で買った画家の本(※1)と、尊敬する作家の読んでいた本(※2)、あとは比喩に満ちていて、あらゆる描写が予感に思えてしまう本 (※3)を読む。

※1 「四百字のデッサン」野見山暁治。岡崎さんというつい最近まで知らなかったが書評界のすごい人と、角田光代の「古本道場」のなかで、角田光代が言っていた。画を書く人の文章は上手いらしい。そういえば私は、文章を書く人の文章、作家の文章ばかり読んできた。少し視点をひねりたくて、昨日の夜、バイト終わりに買った。

※2 「マルテの手記」リルケ。買ってみて扉にあった著者の写真を見るまでは女性だと思っていた。ひが覚えはもう一つ。マリア・ライナー・リルケだと思っていたら順番が違っていてライナー・マリア・リルケというらしい。外国の人の名前は覚えにくい。

※3 「豊饒の海」三島由紀夫。先日、部長に辞めますと言ったその日に、駒込の商店街の本屋で買った。全4巻で、4巻とも揃っていたが、大人買いするよりは、読み終わるたびに本屋に行って、次の巻を買い求める方が気楽で、1巻ずつ買っている。今は2巻目の奔馬。

 読むのに飽きたのは12時半ころだった。近くの吉野家で腹ごしらえをしてからいざ、ジュンク堂。いきなり自分の趣味全開の棚に行くのも、何か気が引けるし、興味関心の外にあるものも見ようかと思い、1階の人の頭が多いスペースの本を見る。以前まで、以前といってもいつくらいだろう、ああそうだ去年の夏くらいだ。それまでは50人が選ぶ本、とか、この時代のあなたへ送る20冊というような選書フェアを好んだし、雑誌でこの夏に読みたいブックリストなんて特集があれば、好んで買い求めたが、去年のPOPEYEでその糸はふっつりと切れたように思う。次から次へと、これおすすめですよ、と言われると食傷気味になる。自分に本を見る目はないと思っているし、これからも備わることはないだろうが、自分で棚と棚の間を歩いてフェアではない、ところから本を選びたいと思っている。というわけで、一階を抜けてエスカレーターに乗り、2階、3階へ。けどもそこで待ったがかかる。「現代思想」が目に入る。そもそも手に取ろうかを迷う。なぜなら少し今の自分の財布には高いから。しかしテーマが自分にとって大事なものだったから、そこの自分にとっての重要さゆえに手を伸ばす。「〈恋愛〉の現在」か、十代や二十代前半の頃には疑問を持たなかった恋愛というものに、何となくの違和感を覚え始めている。買いたい、が、1階で買い始めると今日は何千円コースになるのかと怯えて、戻す。表紙の真ん中より少し下に「変わりゆく親密さのかたち」、親密さも時代によって変わっていっていいんだ、と肩を押されてもう一度手に取る、いやでもレジ近くだし、また後でもここを通り、その時の気分で買いたかったら買えばいいと、エスカレーターを上がる。

 人から勧められた本は読みたくなくなる。だから勧められた本は買わないものリストという形で、本屋にいる私の頭の中にある。勧められることが嫌なのではなくて、読まないといけないと私の中で捻れてしまって読まずじまいなのだ。本屋は、読まないといけない、読みたい、買っても多分読まない、またいつか買えばいいやと思いが交錯する。本屋にいると落ち着くときは確かにあるのだが、交錯してくると段々苦しくなってくる。私にとって、本屋とは楽しさ一色の遊園地ではない。本屋を否定したいのではない、しかし楽しさや落ち着くということばかり強調されるのには違和感を覚えているだけだ。勧められた本は読みたくない、と言っていたのに私は勧められた本に向かって歩いている、角川文庫の棚の位置を館内地図で確かめてそこへ向かう。天邪鬼を起こしたのは何故にだろうか。その著者の生い立ちに興味が向いたからだった。共産党幹部の娘として生まれ、父が赴任した先のプラハで共産党幹部の子弟専用の学校に通ったという。その学校は、ソ連外務省が直接運営しているという。彼女の名は米原万里といい、本は「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」、それを買った。ここでたんまりと買っては、手提げバックの紐が切れそうで怖いから、1階のレジに戻る。そして、やはり「現代思想」を買った。最新号だから、古本屋で手に入るのはまだ先のことだろうし、今の自分にとっての問題であるテーマを扱っていて、今日手に取らなかったらついぞ読まない気がしたから買ったのだった。

 2冊買って、上野の奏楽堂でチェンバロのコンサートを聞く。この秋、引っ越すことにして、物件の重要事項の説明が17時からオンラインであったから、コンサートの後は藝大美術館には寄らずに、アトレのなかの明正堂書店に寄った。描かれている人物の目が好きで「A子さんの恋人」を買う。家に戻る電車のなかで面白くて、マスクの下のえくぼが少し深くなる。笑っていることを誰にも悟られたくない。

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