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本を買うまでのはなし 「青天の古本市」

 走りながら、今日はどこの本屋に行くか迷う。三鷹にいって駅から少し距離のある太宰作品を扱っている本屋か、田園調布にある古本屋か。選択肢にまったくなかったところへ今日は本を見にいった。いくつか並べて比較していると、それ単体で見れば魅力のある本屋も色あせてしまう。今日は古本屋ではなくて、古本市に行った。四方に本が並び、本の匂いのする空間もよいが、晴れの日は青天のもとで本を選びたい。

 その古本市は、元々私が出店を考えていた市だった。出そうとしていたが、本を売るのはバイトで今やっているから少し休みたいなと思って見送った。急いでいては仕損じることもある。電車のなかでは村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ。村上春樹はランニングのエッセイを読んだ程度で小説には意図して手をつけてこなかった。今月、早稲田に村上春樹ライブラリーができたという。そのライブラリーもちらと頭を掠めたが、行ってしまうと他人が彼に対して持つイメージが初読の感覚に影響を与えてしまうのが怖くて、またいつか、村上作品を読んでみてそれでもライブラリーに行きたくなった時に残しておく。

 まだ試みてはいないが、雑誌のブックリストを本を探す着火点にできるのではないかと思っている。リストに載っている本を買う、という仕方ではなく、本屋に行くまえの準備体操として読む、という仕方で。一時期は、ブックリストを読むと圧迫感を覚えていた。これも、あれも面白そうと思うと同時に、それも、あれも読まねばという圧迫感を覚えていた。そうするとリストを読むのは楽しくなくなり、むしろ遠ざけてすらいた。しかし本は無限であり、人間の知れることは有限なんだと体に染み込むにつれ、リストを遠ざけている自分がアホらしくなった。最近はブックリストの載った雑誌を買ってこなかったが、買いたいと思える雑誌がこの数日で出てきた。10月15日号のBRUTUSで村上春樹の特集があり、彼の愛読する51冊のリストがあるそうだ。人間の心はかようにも多くの本に愛着を覚えるのならば、今日いった本屋でもしかしたら私は、今は見知らぬ本を手にとって、それが生涯の枕頭の書となるかもしれない。そうならなかったら、明日に可能性が渡っていく。

 駅から本の売っているところまで歩きたかったというのも、古本市を選んだ理由だ。山手線の駅でありながら、通り過ぎていた駅を降りて歩いた。仏教系の大学や商店街を過ぎて、神社にたどりついた。すぐさまには古本市に行かない。いい本に会えますようにと賽銭を投げる。刻々の心持ちによって同じ本に対しても異なる反応を示すから、心持ちは真澄の鏡のように澄んでいてくださいと賽銭を投げてこうべを垂れる。6店ほどが並んでいて、人の空いている店から見始める。人が少ないと少し遠目から見ていても、本が見れるからよい。離れて見ると、個別の一冊の本ではなく、棚全体の雰囲気に目が向く。全体の感覚から入ったほうが、のちに一冊一冊を見るのだが、それぞれの本を気持ちを落ち着けて開くことができる。いきなり一冊から入ると、次から次へと本が出てくる感覚になってしまい落ち着かず、本来なら琴線の反応するものを逃してしまうような気がする。本屋でも同じことが言えるかも知れない。最初は店を回って、気分が落ち着いたら気になった棚を見る。買う本は、そのときの関心を映している。関心は移っていくから、後から振り返れば何故この本を買ったのか腑に落ちないことがある。今日買った本も、いつかは買った理由は藪の中となるのだろうか。買った本は3冊。

「フーコーの言説〈自分自身であり続けないために〉」慎改康之

今すぐには読まない、読めない。いつになったら読むのか、ひとつの説は哲学関係の本を読んで、すぐに納得しなくなったら。

「まちの本屋 知を編み、血を継ぎ、地を耕す」田口幹人

盛岡の書店で働いていた書店員の人の本。独立系の本屋の記録ではなくて、地方の書店の話。独立系の本屋の物語ばかり読んでいては頭が凝り固まりそうだったから、違うところを見たい。

「魚と日本人  食と職の経済学」濱田武士

既存のサプライチェーンが危殆に瀕しているのは、出版だけではない。ただ、ろくに既存の流通網や、なにが危機なのかをはっきりと語れる人は少ない。好きな刺身はかつお。かつおもいつか食べられなくなってしまうのか。

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