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本のガイド「イリアス-トロイアで戦った英雄たちの物語」

 古典に現代の言葉で出会う。書名からして遠ざけている書物は数多くある。たとえば「曽根崎心中」を私は遠ざけていた。日本文学の全集に載っていても、題名が古めかしくて、いかに心中という劇的な最後を描いたとしても、遠く江戸の、しかも上方の色恋沙汰だから、理解が及ばぬと書名を目にすると苦々しく目を背けていた。しかし、今年の春のこと、本郷三丁目の古本屋が閉まると聞き、そこに足を運んだところ、白い顔がぬっと出ている恐ろしげな本、角田光代訳の「曽根崎心中」を、その表紙が気になって買ったのだった。遠ざけていた本を読み、目をみはる度に食わず嫌いはせでおこうと思うのだが、曽根崎心中もその例に漏れなかった。暁の町を、橋を越えて駆けていき、最後は藪の中で果てる二人、そして女のなかに心中の際になって生じる男への疑念。しかし女はそんな疑念さえ愛しく思い死んでいく。食わず嫌いしている本の話をしていたのだった。たとえば、長編の叙事詩「イリアス」などがそうだ。しかし、これも現代語訳に出会うまでの話で、現代イタリアの著述家アレッサンドロ・バリッコの筆になる「イリアス トロイアで戦った英雄たちの物語」を読んでからは、平明な現代語訳だけでなく背伸びをして岩波文庫の訳を読もうとすらしている。

 ホメロスによって作られたと伝えられている叙事詩である「イリアス」の舞台は、小アジアのトロイアである。その地の王プリアモスの子・パリスに妻ヘレネーを奪われたメネラオスは、アカイア人の軍勢を率いてトロイアの城を攻めるが、大いに攻めあぐね双方に犠牲を出しながら9年が経ち、戦争が10年目に差し掛かったときに物語は始まる。そもそも、なぜバリッコは長大な叙事詩「イリアス」を現代語訳したのだろうか。その発想の源は、彼が著述と同時に行っている演劇にある。彼は劇場でこの叙事詩を朗読することを構想したが、全文を読むとなると40時間にも及び、およそ常人の理解できる範疇を越えている。そこで、朗読に適するようにテキストを編集したのだった。その編集の際に、彼はいくつかの改変を行った。たとえば、神々の出てくる場面は削除されている。現代人の感覚では理解し難い神々の造作が入っていては、現代の人びとの聞くリズム、読むリズムには合致しないだろうというのが彼の判断だ。たしかに、ホメロスの傑作に手を入れるばかりか、神々を省略したことへの拒否反応は強くあったが、彼の現代語訳によって読み手の我々にとっては選択肢が増えたといえる。ただ、読む側は、彼の訳はいくつもある訳の一つであり、見逃されている部分もあることは知っておくべきだろう。残念ながら、私は不明にして他の訳を知らないから、バリッコが省略したのか分からない。

 本書には訳のほかに、バリッコのメッセージが「もうひとつの美 - 戦争についての覚書」という名で付されている。彼はこのメッセージの中で「イリアス」は戦争の物語であり、戦争そのものにどのような意義を私たちは与えるのかと問うている。バリッコは、戦争の「美しさ」以外の美を見出さねば、ふたたび惨禍が訪れるという。戦争の美しさは人を高揚させ、自らの生は生きるに値する生と人の心を震わせるからだという。私はこの主張には戸惑いを覚える。美という言葉を持ってきて、話を有耶無耶にしてはいないだろうかと。たしかにイリアスの中での戦いを、誰かに表現しようとするなら最初に口をつくのは「美しい」という言葉なのかもしれない。

「両軍が衝突すると、盾に槍があたって、ものすごい音がした。青銅の鎧の中で、それぞれの兵士の興奮は最高潮に達した。ふくらみを帯びた革楯がぶつかりあい、死者たちと生存者たちの歓喜と苦痛が交錯した叫びが湧き上がった。すべてが大地を濡らす血にまみれ、混ざり合って、ひとかたまりの轟音の世界に包まれた」

 たしかに美しいが、美しいとばかり言っていられるのだろうか。夜の帳が下りれば、戦闘が中断されるイリアスの太古とは異なり、昼夜の別は現代の戦争にはない。バリッコのメッセージには肯ぜない部分もあるが、この現代語訳の労作には賛意を表する。

 古典の現代語訳、というところから、春先の曽根崎心中、この盛夏での「イリアス」に筆が及んだ。来週は、一度後に戻って、「曽根崎心中」角田光代をガイドする。

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