秩父、定林寺でのアンケート調査結果。

2019年、10月14日(月)にて秩父にある17番所 定林寺にてアンケート調査を行った。

以下が、その調査におけるアンケートの内容だ。

Google フォームを利用して、計10名の方にご回答頂いた。

Google フォームを利用して、計10名の方にご回答頂いた。

以上が回答の全てである。

母数が少ないため、客観的根拠となり得るかどうかは微妙なところである。

しかし、これだけでも、アニメ聖地巡礼という行為のもつ社会的文脈を理解するヒントになり得るだろう。

このアンケート調査結果についての考察はまた後日書こうと思う。

そこで、今回は私がこうした調査をしていく理由・目的について書くことにする。

私の調査は”社会学”に依拠する。簡単に言うと、

『とある限定された領域を対象とし、そこから社会システム全体の働きを見る』

これが私の調査の根幹にある考えだ。

何も、どこぞの聖地で、どんな活動が行われ、どういった人間が訪れるのか、を調べる訳ではない。

それはどちらかと言うと、文化人類学に当たる。

あくまでも、社会全体をみることが最終目標である。

ではどうして、限定された領域から、社会システムが見えてくるのか。

これは、社会全体の流動性が高まった(偶発性が増した)ことに由来する。

アニメ聖地巡礼者は社会の一部に過ぎないことは疑いないが、”特殊”ではない。

”「一部」ではあっても「特殊」でないことを「偶然」と言う” (宮台真司『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者たちの行方』1997,朝日新聞社)

その昔は、百姓は代々百姓であり、百姓を見ることで鍛冶屋を見ることは出来なかった。しかし、今や、我々は鍛冶屋にも百姓にも、はたまた売春することもできる、という(同上書:宮台真司氏はテレクラやブルセラといった、いわば”女子高生の性”について多くのフィールドワークを行なっている)。

すなわち、我々は現代において多くの選択肢にさらされ、また、多くの”顔”を持って生きることができる。

将来への自明性が担保されない(流動性・偶発性!)世の中であるからこそ、こうした社会学的な特異なフィールドワークの役割が担保される。

そうした中で、アニメというサブカルチャーの波及効果であるアニメ聖地巡礼は興味深い。

例えば、

 作中そのままだった

 アニメと一緒だ!!

 再現度がよかった

という質問14の答えは、我々がさらされているメディア社会との関係性を忠実に再現しているのではないか?

何も、現実と虚構の区別がない、という80年代を中心とした勘違いなオタク批判ではなく、リアリティの問題だ。

いわゆる、現実と虚構のどちらに基準点が寄っているのか、という話である。

これは作品性にも由来するため、アニメ聖地を語る上でも、サブカルの知識は欠かせない。

また、アニメ聖地において、秩父を含め、息の長い聖地は基本的に地方である。

特に、鷲宮・大洗・秩父(私はこの3地域がアニメ聖地のビッグ3だと考えている)は東京周りの地域である。

ここで浮かび上がるのが”郊外論”である。

共同体の喪失・ショッピングモールの乱立・集合住宅、、、。

日本の郊外化もまたアニメ聖地を語る上では欠かせない。

すなわち、私は『アニメ聖地・アニメ聖地巡礼から、日本社会の辿ってきた変遷・システムを探る』のである。

今後も考察を続けていきたい。

ご協力いただいた皆さまへ。

丁寧なご回答、誠に有難うございます。

この場をお借りして感謝申し上げます。



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