働く

働きたくない。本当に働きたくない。

二〇二〇年が終わるころ、ようやく内定をもらった。長かった苦しみがやっと終わったと思った。今まで一生懸命ではないけれど、それなりに真面目に生きてきた二十年と少しの自分がようやく肯定されたと思った。これでずっと安心だと思った。

でもその気持ちはずっとは続かなかった。内定先から送りつけられる資格本や新卒向けの啓発本、着々と進む引っ越しなど。このまま留まっていたいと思う気持ちとは裏腹に、独り立ちに向けて必要な諸々の準備が段取り良く進んでゆく。

働くこと、一人で暮らしてゆくことへの期待など少しも湧いてこない。寧ろ怠惰な生活ができなくなることへの名残惜しさと、働くことに対する漠然とした不安が募るばかりである。これから先もずっと母の美味しいご飯を食べたいし、何かと娘に弱い父に甘えたい。

文句垂れているが内定を蹴る度胸など毛頭ないので、他の二十二歳と同様、四月から働き始める。ひとはいつから大人になるんだろう。十六からは結婚することができるし、十八から好きな政治家を選ぶこともできるし、二十になると酒とタバコを嗜むこともできる。

日本国民は皆、そのような権利を持っているらしい。でも実際、十六の頃の私は学校に通っていい加減に勉強した。十八の頃は政治家なんか一人も知らず、もちろん選挙に行ったことはない。二十になっても、酒もタバコもしなかった。大学ではきちんと単位を取り、学生団体に入ったりもした。人並みに過ごして、周りの二十二と同じような二十二になった。優等生でも劣等生でもなかった。

そうしてこの世に産まれて二十二と数ヶ月後、大人とも子供ともつかない曖昧な女はついに社会人になる。なってしまう。社会人にならないという選択すらできなかった人間がきちんと働くことができるのだろうか。大きな夢を持つことも、目標に向かってがむしゃらに頑張ることもなかった、ただ産まれてきたから生きているだけの私が。

どうしても辛かったらすぐに辞めてやる。期待なんてしなてやらない。毎日頑張ってやる。私が私の生活を守るために、私がたまに喫茶店に行ったり欲しいものを買うために、私が私のことを今よりも少しでも好きになるために、全部私のために働いてやる。そして私のために頑張ってきたことが、結果的に他の人のためになれば少しだけ嬉しい。二十二歳、今の私が考える働く意味。三年、五年、十年後の私はどう考えているのだろう。少しだけ楽しみでもある。


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