傘と蜂、薔薇の雫

 こんな夢を見た。喉が乾くほどの激しい口づけをしていると階下から私を呼ぶ声が微かに聞こえ、玄関に下げられたウィンドチャイムがけたたましく鳴り続けている。慌てて階段を駆け降りると、母が廊下に小さくうずくまっている。私は倒れた母を跨いで通り越し(視線を下に、罪悪感を感じながら……)、開いた玄関の目の前に立つ大きなカメラとマイクを持った男たちが、選挙と戦争の取材をしている、と言う。
「お宅の庭の花を切って使います」
 一方的に突きつけられた無理な要求に、私は抵抗する。今年こそ薔薇の一番花を切ろうと思っていたのに。切迫した表情を浮かべた男たちを後目に、背丈を超えるほど大きく育ち咲き乱れた薔薇が雨に打たれている。「今からでも遅くないだろうか」と深い後悔の念を抱く。
 母が傘を持ってくる。子どものようにはしゃぐ母に「きれいに咲いたでしょう」と私は誇らしげだ。まだ寒いうちに剪定をして、鉢の土を入れ替えたのだ。力強い枝が何本も出ている。壁面を覆う薔薇に近づき花を切ろうとすると蜂が数匹、大きな羽音を立てて横切り、身を捩った私は傘が薔薇の棘に引っ掛かかり、跳ね上がった枝が雫を撒き散らす。苛立ち、怯える私は既にずぶ濡れだった。
 男たちが隣で話を進めようとしている。誰に話しているのか。再び苛立ちを感じ、私はそれを制止しながら──話が通じないことの不条理さ、徒労感と虚無感に襲われる──はしゃぐ母に焦りを感じる。雨に濡れた傘を持ったまま寝室(小学校に上がるかどうかの頃、母とスーパーマーケットに行った私は大好きなアニメのキーホルダーがついた菓子をいくつも盗み、玄関に入るとその寝室に駆け込んだのだった。訝しんだ母親にすぐに見つかり、自らの行いを瞬時に悟った私はかつてないほど泣き散らし、そのままスーパーマーケットへと戻って返したのだった。しかしすでに封を開け、中身を確認していた──もしかすると泣きわめきながら──その手つきのなんと浅ましいことか)に走り去ってゆく母を追いかけ、奪い取る。弾けそうなほどの笑顔を浮かべていた少女の眉はたちまち下がり、輝きを失った眼と力なく開いたままの口が置き去りにされる。
 どうしたのかと声をかける間もなく、私は母の認知症が悪化していたことに思い至った。自宅まで帰ってくるまでの間に? あまりにも遠く離れていたせいで、薬を飲まずにいたのか? 私は病院の手帳を探しに二階へと駆け上がる。私は母が認知症になったことを知らない振りをしていたのか。薬を飲まないだけでここまで悪くなってしまうのかと、初めて見る母の姿にうろたえながらも、不可解に感じている。そして同時に、初めて見る少女のような姿に、どうしようもない嬉しさと、感じたことのない幸福感をおぼえている。


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