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それは朝だった


長い夢を見た。起きるたびに話は変わって、なんの疑問もなくただ見ていた。朝思い出そうと思っても断片的にしかわからず湯船にはったお湯に肩まで浸かった。

電車に揺られている。久しぶりに馴染みのないところを移動している。
仕事が終わったのが15時、次の待ち合わせは18:30。
ぐるっと一周電車に乗って写真展を見て回る。
意外と移動に時間がかかって小走りで乗り換えた。
今日は朝にベーグルをひとかけらと昼にコーヒーを飲んで、そのまま急いで出てきたからすこし頭がくらくらする。
夜ご飯はハンバーガーだからまたパンになってしまう。

久しぶりに会う人たち、待ち合わせではなくわたしが一方的に訪問する側なのですこし緊張している。
27年生きてきたけど、多分人付き合いは苦手なんだと思う。人に対して興味があるけど、それがピークを過ぎるとちょっとどうでもよくなってしまう。
相手から求められてしまうと、それもそれで興味がなくて、だから長く付き合っていく人は大人数のグループでちょっと距離をとりながらしていくか、わたしの分身みたいなひとが残っていく。
たくさんの人に求められる人はどんな生き方なんだろう。どんな振るまい?

言葉を選びすぎて下手になってしまうし、津波のように来られるとわたしはそれにのまれてしまう。
1人でぼーっとお店の裏に座っている時間が1番好きだ。

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久しぶりに会った人たちは歓迎してくれた。してくれたけど、会わなければよかったとすこし思っている。
みんな年下で、わたしが前にいたところを一生懸命泳いでいるみたいだった。
きっと過去のわたしに同じことを思った人は沢山いたと思う。
「若さ」は武器になるけれど、いずれなくなってしまう魔法のようなものだ。何歳になっても挑戦できることは素晴らしいし、成長を止めない人を尊敬する。
でもそれは、そこまでの階段の上り方は重要だ。
30歳でこれか、と人に思うことは多々ある。わたしも27でふらふらとしていて、人から見ればどうしようもないやつなんだろうけれど。

自分のたからものが人から見ればガラクタなことって沢山あって、それはそれでいいこともあるけど、それではだめな状況。
戦うためには武装しなきゃいけない。その武器が今のわたしには教養なのかと思う。
すべてには歴史があって意味がある。
説明できないことにも意味がある。そう信じていてもいいのかな。
「個人的なこと」を残すのも見るのも好き。
その個人的なことを人に見せるためにはある程度形にしなきゃいけない。
旅先での出会いとか、ただ歩いていた道で見つけたもの、そのすべてに意図が必要になっている。

わたしが好きな写真家は自分で命をたってしまった。その後でわたしは写真集に出会った。
彼女のランドスケープはなんでいいのか、それを考えている。辿っていくと、ドイツの詩人に行き着いた。
言葉には生きた道が隠れている。常に死と隣り合わせにあった詩人の言葉には、ちゃんとそれが描かれていた。
その死と彼女の死には因果があったのだろうか。

学生時代に授業で聞いていた歴史にはこれっぽっちも面白さなんて感じなかった。必要なことだとも当時は思えなかった。
今は辿るべき道が見えている。

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