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SAIKAI

Sゲームブッカー

 未希を誰よりも愛していた。初めての彼女だった。雪の降る道で、足をくじいてうずくまっていたところを真っ先に駆け寄って、「大丈夫?」と声をかけたのがきっかけだ。初々しいセーラー服姿に長い黒髪、大きくて潤んだ瞳に胸がときめいた。付き合い始めてそろそろ1年が過ぎようとしており、記念日にはどこか旅行にでも行こうと2人で話していた。それなのに……。

 記念日まであと数日という日の朝、未希は女子高の登校中に突然飛び出してきた車にはねられてしまう。すぐに近くの病院へ運ばれたが、打ち所が悪かったらしく助からなかった。未希のお母さんから涙声で電話があり、病室に無我夢中で駆けつけた時、未希は顔に白布をかけられてベッドに横たわっていた。白布をめくる俺の手は絶望で震えた。色白で愛らしい顔には傷ひとつなく、それがせめてもの救いだった……。

 アパートに戻っても何もする気になれず、誕生日に貰った未希の手編みのセーターを抱き締めて、部屋の片隅に座り込んでずっと泣いていた。腕時計を見ると、夜の7時が少し過ぎている。10時間も泣いていたのか。さすがに泣き疲れて、気晴らしにテレビをつける。体外離脱の特集番組をやっている。体外離脱体験者が、亡くなった祖母に会って話をしたと真剣な表情で語る。

 これだ!

 思わず画面に釘付けになる。意識が肉体を離れて空を飛んだり、遠く離れた土地を訪れることができるという体外離脱に興味を持ち、本などを読んで何度か試したりしていたが、1度も成功したことはなかった。簡単な離脱法が紹介される。これならいけるかもしれないと思えた。未希は今、どんな気持ちでいるのか知りたい。どうしても、再び会って話がしたかった。

 さっそくパジャマに着替え、その上にセーターも着る。離脱成功への力を貰えそうな、そんな気がしたからだ。カーテンを閉め、部屋の明かりを消し、腕時計を外してテーブルの上に置いてからテレビも消す。ベッドに仰向けに寝て、両腕は体から少し離し、手のひらを上に向ける。ヨガの休息のポーズというやつだ。ゆっくり深呼吸しながら全身の筋肉を脱力させ、肉体の感覚がなくなるまでリラックスさせる。眠りに落ちるギリギリまで意識し続け、まどろみ状態を維持する。

 ひたすら意識を保つことに集中し続けていると、徐々に体が細かく振動し始めた! これは初めての体験だ! 体は金縛り状態になっているようで、思うように動かすことができない。しばらくすると、闇の中にぼんやりと未希の顔が浮かんできた! 微笑んでいるようにも、悲しそうな表情をしているようにも見える。少しの間見つめ合っていると、徐々に未希の顔が遠ざかり始めた。

 待ってくれ!

 心の中でそう叫び、動かない右腕を意識的に伸ばす。消えてゆく未希の顔。懸命に右腕を伸ばし続けていると、ずるりと体と体が離れる感覚がした!

 浮遊感を感じてゆっくり目を開ける。ベッドに寝ている自分を2メートルほどの高さから見下ろすように浮かんでいた。ついに体から抜け出ることに成功したようだ!

 この体に戻れるだろうか? 

 そんな不安がよぎった瞬間、背中から強い力で引き戻されそうになる。背後を見ると、背中から透明なへその緒のようなものが伸びていて、寝ている自分の心臓の辺りから伸びる緒とつながっていた! これが肉体と抜け出た意識体をつなぐ「魂の緒」と呼ばれているものなのだろう。とっさに、戻れなくてもいいんだ!と強く念じると、引く力がフッと緩まった。

 その隙に空中を漂い、ベランダへ続く窓を開ける。外は薄暗く、離脱前と同じような時間帯のようだ。空中を漂ったままベランダへ出ると、見慣れない町並みが広がっていた。振り返ると、アパートがあると思っていた場所には何もなく、魂の緒がゆらゆらと夜空に向かって伸びていた!

 慌てて手足をバタつかせて夜空を飛行するが、慣れないせいか、すぐにバランスを崩してゆらゆらと地面に落下してしまう。強く尻餅をついても、不思議なことに痛みは感じない。きっと抜け出した体だからだろう。

 立ち上がって砂のついた手を払っていると、離脱後は最初に自分の両手のひらを見ると本に書かれていたことを思い出した。それは抜け出た意識体の感覚をつかむためらしい。両手のひらをまじまじと見る。指紋まではっきりとしたいつもの手だ。服装は離脱前と同じで、パジャマの上下にセーターを着ている。ズボンのポケットに手を突っ込んでみるが、何も入っていない。足元はやはり裸足だが、何も感じないからこのままでいいだろう。

 辺りを見回すと、ここはどこかの住宅街のようだ。落下したのは家々が建ち並ぶ十字路のちょうど真ん中だった。明かりのついた家は少ないが、今は何時頃なのだろう? 辺りは静まり返り、人や車が通る気配は今のところない。

 十字路から延びる道の先はどれも薄暗くてよく見通せないが、街灯や月明かりがぼんやりと道を照らしてくれてはいる。月が出ている方を東として、まずはどの方向へ進もうか。東の道は少し先で途切れ、西の道は住宅街の間をかなり先までまっすぐに続き、南の道は先の方で折れているように見える。北の道の先には左手に高い建物が見える。まずはどちらへ進むべきか迷っていたその時だった。

《信治なのね》

 聞き覚えのある声が脳内に響いた! 未希の声だ! どうやら未希と同じ世界に離脱できたようだ。

「未希か! 今どこにいるんだ?」

 思わず叫んで辺りを見回す。

《町のね、どこかに……》

 どこか遠くから聞こえてくる気がする。どうやらテレパシーを使っているようだ。

「どうした? 町のどこかにいるのか?」

《今は言えないの》

 未希の予想外の返答に戸惑う。

「何で言えないんだよ!?」

 それきりテレパシーは途絶えてしまった。未希に何かあったのかもしれない。町を歩き回って探すしかなさそうだが、何かの拍子に肉体に引き戻されてしまう可能性もある。その前に何としても未希を探し出そう。まずは南へ歩き出す。

 住宅街に挟まれた道を進んでいると、前方で何やら移動する明かりが見えた。その直後、明かりを追いかけるようにして自転車が右から左へ横切った。移動する明かりは自転車のライトだったようだ。道は丁字路にぶつかる。未希を見かけたか尋ねてみようと角を曲がって自転車を追いかけたが、すでに走り去っていた後だった。

 東へしばらく進むと十字路に差し掛かり、左手に公園が見えてくる。入り口は北へ進んだ途中にある。北へ進むと、右手に公園の入り口がある。未希がベンチにでも腰掛けているのを期待して入る。

 公園は生垣に囲まれ、北側には薄暗い公衆トイレがある。東側の遊び場では1人用のブランコ、滑り台、子供用の鉄棒が月明かりに照らされて静かに佇み、子供たちの訪れを待ち続けているかのようだ。南側にはベンチもある。カップルが愛を語り合うのには良い場所かもしれない。

 遊び場に行ってみると、ブランコに人が座っている。未希かと思ったが、どうも雰囲気が違う。さらに近づくと、どうやらお婆さんのようだ。白髪混じりの髪はクシャクシャに乱れ、古びた服を着た体はやせ細り、何やらボソボソ呟いているのが少し離れたここからでも聞こえる。俺は未希を見かけなかったか尋ねてみようとお婆さんに近づく。

「若い男とセーラー服姿の……」

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

 すると、お婆さんはゆっくり顔をこちらに向けた。

「そんな子は見てないね。この辺りにはいないと思うよ」

 どうやらこの公園にはいないようだ。お婆さんに礼を言い、その場を立ち去る。

 北側の公衆トイレに入る。中は薄暗く、天井の裸電球1つで照らされている。未希に会う前に身だしなみを整えておこうと思い、洗面台の前に立つ。

「……!」

 自分が映るはずの鏡に見知らぬ男が映っている! 男は俺を見てニヤリと笑う。あまりの光景に転びそうになりながら外へと逃げ出す。

 離脱後の世界では、俺はあんな風に見えるのだろうか? だが、鏡に映った男は服を着ていなかったような気がする。夜の公衆トイレに対する恐怖心が見せた幻だったのだろうか? これからは夜の公衆トイレには入らないことにしよう。

 念のために女子トイレも調べておこうと入り口の前に立つ。中を覗くと、男子トイレと同じように天井の裸電球1つで照らされていて薄暗い。離脱後の世界とはいえ、やはり入るのはためらわれる。3つある個室に向かって小声で「誰かいますか?」と問いかけてみたが反応はない。小声では気づかないだろうな。

 公園を出て、北へ進み続けると道は東へ折れる。角を曲がって東へしばらく進むと、突き当たりに自動販売機があり、道は南へ折れる。自動販売機の前に何か落ちている。しゃがんでよく見ると、それは10円玉だった。ひとまずポケットにねじ込む。

 南へしばらく進み続けると丁字路にぶつかり、東へ続く道の左脇に白いタクシーが停まっている。すると、運転手がぬっと顔を出し、

「よろしかったらお乗りになりませんか? 今日は無料となっておりますよ」と声をかけてきた。真面目そうな中年の男だ。無料だなんて珍しい。

 タクシーに近づくと、後部座席のドアが開いた。乗り込むと、運転手がグイッとこちらを振り向き、「ご乗車ありがとうございます。どちらまで行かれますか?」と笑顔で言う。いつの間にかメガネをかけている。

「この辺りはあまりよく知らないんです。ところで、長い髪の高校生ぐらいの女の子を乗せたり見かけたりしていませんか?」

 その問いに運転手は少し考え込んで、「いえ、残念ながら。では、団地前、コンビニ前、遊園地前からお選びいただけますが」と言う。

「遊園地前でお願いします」

「かしこまりました」

 運転手はアクセルを踏み込んで右へ曲がり、ぬっとこちらを向いて片手でバックし始める。運転手の目が俺の顔をじっと見ているようで気になる。バックしながら右へ曲がると運転手は前を向く。そこからアクセルを踏み込んで東へ発進させ、突き当たりを左、次の突き当たりを右、左と曲がり、さらに走って校門前を左へ曲がる。遊園地前までは結構遠いようだ。気になっていたことを尋ねてみよう。

「今日は何で無料なんですか?」

「娘の誕生日でしてね。毎年無料の日にしているんですよ」

 そう言いながら右へ曲がる。きっと運転手さんにとっては1番嬉しかった日なのだろう。未希もお父さんから愛されていたに違いない。もちろんお母さんからもだ。今日、涙声で電話があった時のことを思い出していた。

「遊園地前でございます」と運転手が告げる。

 そんなことを思い出している間に到着していた。お礼を言ってタクシーを降りると、右手にレストラン、左手には広い駐車場の奥に遊園地の入り口がある。道はその間を東と西へ続いている。

 遊園地の入り口へ向かうと広い駐車場には見渡す限り、車が1台も停まっていない。奥の入り口へと向かうが、ゲートは閉ざされ、まるで住宅街と遊園地を隔てる壁のようだ。入園券売り場のカーテンも閉められている。ゲートの前で園内を覗き込むが、人の姿が見当たらず、闇と静けさに包まれている。遠くには明かりの消えた観覧車やジェットコースターが見える。

「未希ーーっ!」

 園内に向かって叫んでみる。だが、返事はない。未希なら入り口付近で待っていてくれるだろう。道に戻ってレストランに向かうことにする。

 レストランの壁はお洒落な茶色のタイル張りで、店内の明かりは消えている。駐車場には1台も車が停まっておらず、入り口のドアの取っ手に「閉店」の札がかけられている。窓から店内を覗いてみるが、薄暗くて中の様子はよく見えない。道に戻ろう。東へしばらく進むと道は南へ折れる。角を曲がって南へかなりの距離を進むと、東と南へ続く分かれ道に差し掛かる。南の道はすぐ丁字路にぶつかるようだ。

 南へ少し進むと左手に交番があり、道は丁字路にぶつかる。交番の前でお巡りさんらしき男が背を向けて立っている。どうやら夜空を見上げている最中のようだ。傍らには自転車が停めてある。
「何を見ているんですか?」

 その問いにお巡りさんは背を向けたまま、「月ですよ」と答えた。

「綺麗じゃないですか、とっても」

 俺は、「まあ、確かに」としか言いようがなかった。

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

 その問いにお巡りさんは背を向けたまま、「ゲームセンター付近で見かけた気がするなぁ」と答える。

「さて、本官はこれからまた巡回に行かねばなりません」

 そう言うと、ちらりと俺の顔を見てから自転車に乗って東の方へ颯爽と走り去っていく。

 東へ進む途中で、左手に学校が見えてくる。さらに進むと東と南へ続く分かれ道に差し掛かり、東へ続く道を挟んで学校の正面にデパートが見えてくる。南へ続く道の正面には校門がある。校門は夜なのに開いている。夜の学校は何やら得体の知れないものが現れそうな雰囲気だ。

 校門の前で敷地内を覗き込んで未希の姿を探していると、闇の中から人影が歩いてくるのが見えた。現れたのは、10歳くらいの坊ちゃん刈りの少年だった。どうやらこの学校は小学校のようだ。少年は上着の裾を半ズボンからはみ出させ、半分に切ったスイカを両手に持って、こちらへ近づいてくる。まるで出迎えたかのように。よく見ると、少年の口は異様に大きい!
「き、君はこの学校の、生徒かい?」

 口が怖い……。

「おう。でも、生徒会じゃないぞ」

「はは、そうなんだ。ところで、長い髪の高校生ぐらいのお姉さんを見なかったかな?」

「遭難したのか? 高校生はめったに出入りしないぞ」

 少年は大きな口でスイカをむしゃむしゃ食べ始める。時折、種をペッと吐き出す。それを見ているうちに妙に食べてみたくなった。

「それ、少し分けてもらえない?」

 少年はスイカをむしゃむしゃ食べながら、「いいぞ。じゃんけんで勝ったらな」と答える。にっこにこの笑顔なのだが……。少年は左手で器用にスイカを持ち、右手をグーにして構える。

「じゃあ、いくぞ」と少年。俺もグーにして構える。

「じゃんけんぽん!」とかけ声を合わす。少年はグー、俺はパーを出した。

「やった!」と思わずピースする。

「じゃんけんはもう終わったぞ」

 自分でも不思議なほど喜んでしまった。少年は負けてもにこにこ顔だ。

「ほら食え」

 有り難いことに食い散らかされていないところを割ってくれた。

「いただきます!」

 スイカはとても甘くて美味しい。半分食べたところで、「カチッ」と何か硬いものが歯に当たった。見ると、果肉に銀色のコインのような物が挟まっている。つまみ出してみると、それは100円玉だった。

「君の勝ち」

 少年はそう言うと、校門を閉めて、学校の敷地内へ戻っていく。100円玉をポケットにねじ込んでスイカを食べ終える。どこかで使えるかもしれない。

 住宅街に挟まれた道を南へしばらく進む。南へ進んでいる途中、右手にある家の玄関のドアが半開きになり、中から明かりが漏れているのに気がついた。半開きのドアから中を覗き込むが、人の気配は感じられない。玄関のドアをそっと閉める。すぐ左に部屋のドア、右に2階へ続く階段があり、その左にトイレがある。玄関からまっすぐ廊下を進んだ先はキッチンのようだ。

 左のドアを開けると、部屋の明かりは消えている。差し込む光で部屋の中央にダブルベッドがあり、枕も2つあるのがわかる。どうやら寝室のようだ。俺は不意に眠気を感じ、少しの間だけとベッドに横になる。だが、離脱前に眠りに抵抗し続けていた反動で、ベッドに横たわるとすぐに眠りに落ちていった……。

 どこかを目指して、光のない闇を飛んでいる。とても大切な存在から離れていくような気持ち。できることなら戻りたいと願っているのが感じられる。不意に前方に小さな光が見えてきた。穏やかで幸せに満ちた世界がこの先に待っている、と感じたその時だった。ある町に、失った大切な存在が現れたのを感じた。自分のために来てくれたことが強く伝わってくる。

「信治が体外離脱してきてくれたんだ! 嬉しい……」

 ん? 信治とは俺のことじゃないか? すると、どこかの静かな夜の住宅街の上空へ瞬間的に移動した感覚があった。2階建てのアパートのベランダの窓が開き、人影が空中を漂い出てくるのが見える。

「信治だ! 誕生日にプレゼントしたセーター着てくれてる」

 未希の手編みのセーターは俺の宝物だからな。人影はいかにも不慣れな様子で手足をバタつかせ、夜空を飛行し始める。だが、すぐにゆらゆらと地面に落下して尻餅をついているのが見える。 

「きゃっ! 大丈夫かな?」

 人影は平気な様子で立ち上がる。

「良かった。怪我はなかったみたい」

 次に両手のひらをまじまじと見始める。

「手を怪我したのかな?」

 ズボンのポケットに手を突っ込んだりしている。しばらくすると、辺りを見回してどちらへ進もうか迷っている様子が感じられた。

「信治なのね」

 その声にハッと目が覚め、ガバッと上体を起こして辺りを見回す。……夢だったのか。それにしても不思議な夢だった。俺は夢の中で未希の意識とつながっていたような気がする。どうしてあんな夢を見たのかは謎だが、実は未希の方が離脱した場所を察知して移動してくれたのではないかと思い、未希に会いたい気持ちがさらに強くなった。すぐに寝室を出てドアを閉める。

 廊下を進み、キッチンに向かう。入って左にコンロと流し台、正面に食器棚、中央にテーブルがあり、右奥にはドアがある。テーブルの上にカレーがある。スプーンの柄は女の子が使いそうなピンク色だ。

 右奥のドアを開けると中は洗面所で、奥に洗濯機も置かれている。右は風呂場になっていて明かりはついてはいるが、人が入っている気配はない。覗いてみようかと思ったが、その必要はないだろう。未希が人の家でのんびり風呂に入っているとは思えない。そう言えば、未希はいつもシャンプーのさわやかな香りをさらさらの長い黒髪から漂わせていたっけ。俺はもう1度、あの香りを嗅ぐことができるだろうか。

 洗面所を出てドアを閉める。廊下に戻ると、玄関の外で人影が動いたような気がした。

 階段を上がって2階へ。すぐ左に部屋のドアがあり、「ノックしてね」の札がかけられ、廊下はさらに突き当たりから左へ続いている。ノックしてドアを開ける。ドアを開けるとほのかに良い香りが漂ってくる。どうやら女の子の部屋のようで、ピンク色のベッドはたくさんのぬいぐるみで占領されている。勉強机の上にノートが開かれたまま置いてあり、机の棚には教科書類が丁寧に並べられている。

今日は、いつものゲーセンに行って格闘魂の対戦で5連勝した。やっぱダイガンは強い! 棍棒が特に強力だ。まさに鬼に金棒。また明日の夜にやりに行こう。強い対戦相手がいるといいな。 

 どうやら日記のようだ。棍棒を持った筋骨隆々の怪物めいた男のイラストも描かれている。部屋を出る。

 廊下を左へ曲がると、突き当たりに部屋のドアがある。
「ピシッ!」

 ドアを開けたとたん、何かが飛んできてドアに当たって跳ね返る! 部屋の中に目を向けると、タンクトップとジャージ姿の高校生ぐらいの少年がこちらに銃口を向けて立っていた。跳ね返った弾の感じからするとエアガンだろう。

「あ、あんた誰だ!?」

 少年は怒りと恐怖の混ざったような表情で俺をにらむ。

「お父さんの友達です」

 平気で嘘をつく自分に少し戸惑う。

「そうなんですか。すみません、撃ってしまって」

 少年は申し訳なさそうにエアガンを下ろす。

「ところで何の御用でしょうか? 今は僕以外留守にしているんですが……」

「では、また来ます」

 そそくさと部屋を出てドアを閉め、廊下を戻る。ふう、勝手に侵入したことがばれなくて良かった。階段を下り、玄関から外に出て、ドアを閉める。

 東へしばらく進むと道は北へ折れる。角を曲がって北へしばらく進むと、右手に大きな屋敷が見えてくる。月明かりに照らされて、屋敷の屋根の上に人が立っているのが見えた。未希だろうか? 人影はすぐにこちらの存在に気づいた様子で、瞬く間に飛行してくると目の前に着地した!
「こんなところで何をしておる?」

 頭の天辺がはげた寝巻き姿のお爺さんで、茶色い子犬を抱きかかえている。空を飛べるのだから、普通の人間ではなさそうだ。月明かりに照らされたのか、頭頂部がキラリと光を放つ。

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を探しています」

「ほほう、それは難儀なことじゃ。……ん? お前さんも体外離脱者なのか!」

 背後から伸びる魂の緒に気づいたらしい。

「では、あなたも?」

「まあ、今は違うがのう」

 今は違うとはどういうことだろう? 確かにお爺さんの背後から魂の緒は伸びていない。

「そうそう、こいつに食べさせてやれるものがなくて困っておったところなんじゃよ。お前さん、何か食い物を持っておらんかのう?」と子犬を撫でながら尋ねてくる。今は何も持っていない。

「手に入れたら持って来ます」

「すまんのう。次に来る時は門扉を叩きなされ。礼はするでのう」

 お爺さんはくるりと背を向けると、子犬を抱きかかえたまま飛び上がり、石造りの塀を越えて屋敷の屋根の上に戻っていく。

 北へしばらく進むと、西と北へ続く分かれ道に差し掛かる。西の道の先には左右に高い建物が見える。北へしばらく進むと、西と北へ続く分かれ道に差し掛かる。

 北へ進み始めて間もなく、前方から野球帽を深々とかぶった少年が走ってきて、

「ターッチ! お兄さんが鬼だよ」

 左肩に触れて、横を走り抜けていく。振り向くと、さっきの分かれ道を右へ曲がるのが見えた。すぐに後を追いかけると、遠くにフェンスをよじ登る少年の姿が見えた。

 なんて足が速いんだ!

 その後を追ってフェンス越しに中を覗くと、学校のプールサイドで人影が動いた。フェンスをよじ登り、静かに着地する。プールサイドに目を向けると、少年は体育座りして水面を見つめている。走り疲れて休んでいるようだ。気づかれないようにこっそり背後へ近づく。

「ターッチ!」

 肩に触れると、少年にしては柔らかかった。

「何ですか?」

 振り向いたのはあの少年ではなかった。水泳帽をかぶり、スクール水着に身を包んだ12歳くらいの少女だった。この学校の生徒だろうか。

「あれ? 野球帽をかぶった少年は見なかったかな?」

「いいえ、見てません」

「そう。どこ行ったんだろう」

 辺りを見渡しても少年の姿はすでにどこにも見当たらない。

「ところでお兄さん、この町に住んでる人?」

「俺は……」

 どう答えようか迷っていたその時、よじ登ってきたフェンスの向こう側を通る人影が見えた。未希かもしれない。確認しに行こうとする俺の左腕を少女はつかんだ。

「待って! もう少しお話ししたい」

 すがるような目で俺を見つめる。少しの間だけならと少女と話すことにする。

「違う町に住んでいるよ」

 そう答えながら少女の隣に座る。

「そうなんだ。私はこの学校の近くに住んでるの」

 話ができると思ってなのか、何だか嬉しそうだ。

「ここで何をしていたの?」

「泳ぎの練習よ。苦手だから」

 水面に視線を移して呟くように言う。

「水は冷たくない?」

「大丈夫だよ」

 少女はそう言うが、気になって水面に手を入れてみる。確かに水は冷たくないが、温かくもない。少女の隣に座り直し、もう1つ気になっていたことを尋ねる。

「こんな時間に怖くはないの?」

 少女は首を横に振る。

「誰かに見られたら恥ずかしいもん。それに夜は好きなの。静かで、月や星が綺麗だから」

 2人で夜空を見上げる。その時、少女が俺の背中に視線を移すのを感じた。

「この透明な紐みたいなのは何?」

「これは、もう1人の自分につながっているんだよ」と正直に答える。

「触ってもいい?」

「いいよ」

 少女は魂の緒にそっと触れる。背中が何やらもぞもぞした。

「何かピンと張っているみたい。もう1人のお兄さんはどこにいるの?」

「現実世界で寝ているよ。そして俺は、抜け出した方の体なんだ。だから、ここは存在しない世界なのかもね」

「え? じゃあ、私は?」

 不安そうな顔で俺の答えを待っている。

「俺の見ている幻みたいな存在かなぁ」

「そんな……」

 少女はうつむいて、膝を抱えて身を縮める。また正直に答えてしまった! 少女のまっすぐな眼差しを見ていると、不思議と嘘をつくことができなかった。

「でも、君は存在しているよ。俺が確かに感じているから」

 慌ててそう言って微笑みかける。

「ありがとう。お兄さんに会えて良かった」

 明るい表情に戻ってホッとした。

「ひょっとして、誰かを探していたんじゃない? 引き止めてしまってごめんなさい。もう行っていいよ。お話ししてくれて嬉しかった」とにっこり微笑む。

「君も練習頑張って」

「うん!」

 そう言うと、少女はプールに飛び込んだ。月明かりを反射してキラキラと水しぶきが舞う。月夜に浮かぶ少女の泳ぎは、まるで人魚のように美しい。君は泳ぎが苦手なんじゃない。向上心が高いだけなんだ。フェンスをよじ登って道に戻る。道は少年を追いかけてきた東と、フェンスと住宅街の間を南と北へ続いている。

 南へしばらく進むと、十字路に差し掛かる手前の左に電話ボックスがあり、西へ続く道を挟んで学校の正面にデパートが見えてくる。デパートの明かりはほとんど消えている。南へ進み続けると右に入り口があったが、すでに閉まっているようだ。

 公園の入り口前まで戻り、南へ進むと十字路に差し掛かる。南へ進み続けると、背後から軽快な足音が近づいてくる。振り向くと、フード付きのサウナスーツに身を包んだ人影が走ってくるのが見える。未希を見かけたか尋ねようと思い、

「あの……」と呼び止めると、サウナスーツの人は静かに立ち止まった。顔はフードで隠れ、男か女かはわからない。

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

 サウナスーツの人はその問いに何も答えず、ギラギラと血走った目でこちらをじっと見つめ、口元からは絶えずシューシューと風船から空気が漏れるような息遣いが聞こえてくる! どうやら見かけていない。

「も、もういいです」

 何やら怖くなってそう言うと、サウナスーツの人は何事もなかったかのように再び南へ向かって走り出し、軽快な足音を響かせながら闇に消えた。夜道では出会いたくないタイプの人だ。さらに進むと、堤防にぶつかって道は西へ折れる。角を曲がって堤防沿いを西へ進むと、左に堤防の階段がある。

 階段を下りて砂浜へ。素足にひんやりとした砂が心地良い。砂浜は東と西へ続き、前方には黒い海が果てしなく広がっている。真新しい靴跡がまっすぐ西の方へ続いているのに気がついた。未希の靴跡だろうか? 未希の靴跡かもしれない。俺の足と比べてみると、さらに大きくて27センチはありそうだ。未希の靴のサイズは22センチだから明らかに違う。それにしても、走っただけにしてはかなり深くまで沈み込んでいる……! 

 砂浜を西へしばらく進むと、階段でもなければ戻れないようなところまで来てしまっていた。その時、波打ち際から人の呻き声が聞こえたような気がした。波打ち際に向かうとダウンジャケットを着込んだ人がうつ伏せになって倒れていた。その背中からは、離脱直後に見たのと同じような半透明の緒が夜空に向かって伸びている! この人も体外離脱者なのだろうか? 背後を見ると、まだ魂の緒がつながっていて同じように夜空に向かって伸びているが、その方向は違った。

 駆け寄って助け起こし、「大丈夫ですか?」と声をかける。彫りの深い顔立ちをした35歳前後に見える金髪の男だ。

「ウウ……」

 男は朦朧とした目で俺を見る。月明かりに照らされた瞳が青い。どうやら外国人のようだ。

「アナタ、ニポンジン?」

「はい。どうしたんですか?」

 男はふらつきながら立ち上がる。額や頬に砂がついたままだ。

「ワカナイネ。デモ、ナニタベタ」

「食べた?」

 男はうなずく。

「ソウ。アト、オモイデナイ」

 どうやら記憶を失っているようだ。

「あなたも体外離脱者なのですか?」

「オウ! キミモソウ? ワタシ、タイガイリダツケンキュシャネ。デモ、ココハジマテ」

 困った顔をして言う。

「そうなんですか」

 俺が持っている本は、彼が書いたものかもしれないな。

「デハ、ソロソロカエリマ。サヨナラ」と彼は手を上げる。

「さようなら」

「I want to return to the body」

 すると、彼は何事かを呟いた。その瞬間、凄い勢いで魂の緒に引っ張られるように夜空へ消えていった。おそらく肉体を残した世界へ帰ったのだろう。俺が帰る世界に未希はいない。

 砂浜を西へしばらく進むと、右に町へ戻れそうな階段がある。前方は高い岩場になっていて進めない。階段を上がると、道は堤防沿いを東と西へ続いている。西へ進むと道は北へ折れる。角を曲がって北へしばらく進むと、川が流れていて橋が架かっている。

 橋の左側の土手で、膝を抱えて座り込んでいる人影が見える。未希だろうか? 人影に近づいてみると、パジャマ姿の若い男だった。こんな時間に土手に座って何をやっているのだろう?

 横に立って未希を見かけたか尋ねようとしたその時、あることに気がついた。男の横顔が俺にそっくりなのだ! よく見ると、髪形や着ているパジャマも、背格好も同じに見える。裸足なのも同じで、違うのは背中に魂の緒はなく、セーターを着ていないことぐらいだ。まさか、ドッペルゲンガーというやつか!? 俺にそっくりな男はこちらの存在に気づいていない様子で、膝を抱えて川の流れをじっと見つめている。

「あの」と声をかけても、やはり反応はない。どこか悲しげで、今にも泣き出しそうな表情をしている。これ以上関わるのは危険かもしれない。男をそっとしておいて土手を離れる。

 川に架かる橋を渡り、北へしばらく進むと道は東へ折れる。東へ進む途中、南側の塀の前でぽっちゃりした30歳前後に見える女性が、悲鳴を上げながらもがいているところに出くわす。どうやら塀の穴に腕を突っ込んで抜けなくなったようだ。女性は間もなくこちらの存在に気づくと、

「助けてください! 抜けなくて困っています!」と懇願する。この先はすぐ一軒家にぶつかる。

「どうしてこうなったのですか?」

 よく見ると、塀の穴は黒ずんでいて普通の穴ではなさそうだ。

「昼寝から目が覚めたら、こんなことになっていたんです。大声を出しても、この辺りには人がほとんど住んでいなくて。それに、だんだん腕が吸い込まれているんです!」

 女性は恐怖のあまり涙ぐんでいる。

「わかりました。引っ張ってみます」

 腰に手を回してみるが、太くて両手を組むことができない。すでに女性は肩の辺りまで吸い込まれ始めている! 徐々に力を込め、最後に渾身の力で腰を引っ張る! 額に血管が浮き出てくるのを感じた瞬間、ポンッと気の抜けた音を発して女性がこちらにドッと倒れ込み、お尻が腹にのしかかる。

「あら、ごめんなさい」

 慌てて腹の上から離れる。女性は気が利く人で、手を差し伸べて立ち上がらせてくれた。ふと見た爪には赤いマニキュアを塗っている。

「本当にありがとうございました!」

 女性は何度も深々と頭を下げる。恐怖の涙から嬉し涙に変わったようだった。俺は女性が落ち着いてきたところで未希を見かけなかったか尋ねてみる。

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

「いいえ、後ろを振り向く余裕もない状態だったので」

 確かにそうだろう。女性は最後にもう1度深々と頭を下げてから、突き当たりの一軒家に入っていく。

 堤防まで戻り、東へ進むと東と北東へ続く分かれ道に差し掛かる。北東の道は細い路地になっている。東の方にはぼんやり明かりが見える。東へしばらく進むと左手にコンビニがあり、中華まんののぼりが風もないのに揺れている。道は東と、コンビニの手前から北へ続く。

 明かりに誘われるようにコンビニへ向かう。自動ドアが開いて店内に入る。

「いらっしゃいませ」

 若い男の店員が少し眠そうに言う。 

 店内を見渡すが、他に客はいないようだ。

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

 未希は毎日のようにコンビニに行くと言っていたから、もしかしたらと思ったのだ。

「じゃあ、あなたが信治さんですか?」

 驚いたことに俺の名前を知っている!

「そうですが、なぜ名前を!?」

「それらしい子がかなりの美少女だったので、アドレス聞こうとしたら彼氏いますって断られてしまいました。その時に名前は信治で、優しくてかっこいいんですよって嬉しそうに言っていたので」

 未希は俺のことをまだ彼氏だと思ってくれているのか。

「どこへ行くとかは言ってなかったですか?」

「いいえ。でも、あなたが探している子ではないかもしれませんよ?」

 その時、俺は閃いた。

「防犯カメラの映像を見せてもらえませんか?」

「いいですよ。こちらへ」

 店員に連れられて、テレビとビデオデッキの置かれた奥の控え室に通された。録画されていた映像を巻き戻して見せてもらっていると、長い髪のセーラー服姿の見覚えのある女の子が自動ドアを通って店内に入ってきた。

「未希だ!」

 その後、熱心に雑誌を立ち読みする姿、無邪気にアイスを選んでいる姿、レジにアイスを持っていって帰り際に店員と少し会話をしている姿、コンビニを出るところまでが映っていた。少なくとも、今はここを出た場所にいる。店員に礼を言い、店内に戻る。

 雑誌コーナーには漫画、ゲーム、ファッション雑誌などが棚に並べられている。ふと下の段を見ると地図帳があった。この町の地図はないかとパラパラとめくる。そもそもこの町の名前は何というのだろうと思ったその時だった。何やら視線を感じてレジの方を見ると、店員が目を細めてこちらをじっと見ているのに気がついた。どうやら立ち読みは禁止らしい。慌てて地図帳を元に戻す。レジの横に箱に詰められたガムがある。10円で買えそうなのはこれぐらいだ。ガムを1個レジに出す。

「10円になります」

 ポケットから10円玉を取り出して店員に渡す。

「ありがとうございました」

 ガムを受け取り、ポケットにねじ込む。ひとまず食べずに残しておこう。お菓子コーナーに向かうと、格闘魂のキャラクターフィギュア付きのスナック菓子が目に留まる。値段は100円だ。スナック菓子を一袋取ってレジに向かう。

「100円になります」

 ポケットから100円玉を取り出して店員に渡す。

「ありがとうございました」

 スナック菓子を受け取る。何やらワクワクしている自分に気づく。

 自動ドアを通ってコンビニを出る。道は東と西、コンビニの左横から北へ続いている。どの方向に未希がいるのか見当もつかない。コンビニの前でフィギュアの入っている袋を開けてみる。 中には、ヌンチャクを脇に挟んだ女格闘家のフィギュアが入っていた。おまけの割には精巧に作られている。フィギュアをそっとポケットにねじ込む。スナック菓子はひとまず食べずに残しておこう。

 堤防沿いを東へしばらく進むと、東と北へ続く分かれ道に差し掛かる。北へ進むと高い塀で行き止まりになった。ふと目を向けた塀の前の地面に白いチョークで何やら落書きがしてあるのに気がついた。しゃがんで月明かりを頼りに落書きを見る。

南、東、北、西、西、南西に宝

 と書かれている。どうやら宝の場所を記したもののようだ。そうでないなら子供のいたずらだろうが、宝が何なのかは気になる。

 塀の前で垂直に80センチほどジャンプして、天辺を両手でつかむ。生身の体なら高くて届かなかっただろう。くぼみに右足の指をかけてグイッとよじ登り、天辺にまたがって周囲を見渡す。遠くに高い建物がいくつか見える。道は東と西へ続き、東の道は少し進んだところで、東と北へ続く分かれ道に差し掛かっている。下の安全を確認して着地する。

 北へしばらく進むと、見覚えのある十字路に差し掛かる。北の道の先には左手に高い建物が見える。西へ少し進むと空き地に突き当たる。道は南と北へ続き、どちらも西へ折れている。南へ少し進み、角を曲がって西へ進むと、右手にシャッターの閉まった本屋が見えてくる。通り過ぎたところで道が北へ折れると、前方に点滅する明かりが見える。

 その明かりを目指して進むと、東と北へ続く分かれ道に差し掛かり、東へ続く道を挟んで本屋の隣にゲームセンターが見えてくる。北の道の先には右手に高い建物が見える。照明が客を誘うようにチカチカと点滅を繰り返している。

 外壁に貼られた格闘ゲームのらしきポスターを見ながら入り口に近づくと、自動ドアが開いた。店内を見回すと、数人の客がスロットやクレーンゲームを楽しんでいる。制服姿の若い男の店員がスロット台の拭き掃除をしている。未希を見かけたか尋ねてみようと店員に歩み寄る。

「長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

 店員は掃除を続けながらこちらに顔を向け、

「今日は見かけてないですね」

 と教えてくれた。未希を探して店内を歩いていると、高校生らしきセーラー服姿の女の子がこちらに背を向けて筐体でゲームをプレイしているのが見えてハッと立ち止まる。後姿の雰囲気が未希に似ている! 傍らには、未希が欲しがっていたのとよく似たパンダのぬいぐるみが置いてある。駆け寄って顔を覗き込む。

「何だ?」

 未希ではなかった。よく見たら髪型はショートだし、制服も違う。

「人違いでした」

 しかも、髪を部分的に紫色に染めている。早とちりというやつか。

「ちょうど良かった。おごるからさ、対戦相手になってくんない?」

 画面に目を向けると、いつの間にか女の子が使っていたキャラクターが負けてしまっていた。ゲームのデモ画面にヌンチャクを華麗に振り回す女格闘家と、両手をだらりと下げた俊敏な老人の激しい闘いの映像が映し出されている。

「少しだけなら」

 そう答えると、女の子は初めて笑顔になった。

「よし、決まりだな。このゲームは格闘魂ってんだ。やったことあるだろ?」

「ないよ。でも、大丈夫だと思う」

 格闘ゲームには多少自信があった。女の子はコインを2人分投入して、

「じゃあ、反対側に座ってくれ」

 と促す。回り込んで反対側の椅子に座ると、スタートボタンを押してキャラ選択画面にする。全部で10人使えるが、主人公らしき上半身裸の空手家風の男にカーソルを合わせる。女の子は迷うことなく棍棒を持った筋骨隆々の怪物めいた男にカーソルを合わせ、ボタンを押す。巨人のような風貌で強そうだが、やってみるしかない。技表を確認する。

正拳疾風突き

 素早く踏み込んでの正拳突き。

ブン回し蹴り

 豪快に振り抜く蹴り。

杭打ち蹴り
 ケンカキックの要領で蹴る。 

地砕き

 拳を地に打ちつけるようにして追い打ち。

独楽蹴り

 軸足を支点に独楽の要領で1回転、くるぶしを打ちつける。

回転鎌蹴り

 脚をくの字に曲げながら1回転してのかかと蹴り。

まさかり蹴り

 軽い左の前蹴りから体重をのせたかかと落としの要領で蹴る。

しなり蹴り

 脚を鞭のようにしならせて蹴る。

落雷蹴り

 縦蹴りの要領で足の甲を上から下へ叩きつける。

正拳天空突き

 正拳を斜め上に突き上げる。

跳びかかと蹴り

 跳び上がってからのかかと蹴り。

寸爆
 全身の力を右拳頭に集め、5センチの距離で正拳を放つ。

「まだか?」

 技表をじっくり確認していると、反対側の女の子から尋ねられて慌ててボタンを押す。画面の左に巨人、右に空手家が映し出される。双方共に微塵も隙を見せまいと身構えている。体力メーターはどちらも100だ。

「カーーン!」

 高らかにゴングが打ち鳴らされて、最初に動いたのは巨人だった。猛然と突進してくなり棍棒を振り上げる! 棍棒の一撃をバックステップでギリギリかわす。体勢を立て直される前に巨人へ向かって跳び上がり、頭部へ跳びかかと蹴り! しかし、わずかに側頭部をかすめた。巨人の体力90。着地した足元に棍棒を突き出され、左脛にヒット! 空手家の体力80。体勢を立て直す。

 右脚をくの字に曲げながら1回転して中段回転鎌蹴り! 引き締まった右脇腹にかかとがめり込む! 巨人の体力60。しかし、背後に回り込まれて、太い両腕で首を絞められる! 空手家の体力50。回転鎌蹴りがめり込んだ右脇腹へ肘打ちを連発すると、巨人はたまらず首から両腕を離す。巨人の体力55。

 軸足を支点に独楽の要領で1回転、右くるぶしを打ちつけて中段独楽蹴り! 1発目はフェイント、さらに1回転して2発目はヒット! まるで竜巻に弾かれた巨人のように弾く! 巨人の体力35。

 すり足で数歩間合いを詰めると、巨人は大きな拳を振り上げて猛然と突進!

 今だ!

 全身の力を右拳頭に集め、あと5センチの距離で寸爆を放つ! 絶妙な距離感。凄まじい破裂音とともに、巨体はその強烈な打撃を受け、煙をともなって数メートル吹っ飛ぶ! 背中から地面に激しく落下して、厚い胸板からは煙が立ち上っている。

「ああ、ダイガンが……」

 女の子の悔しそうな声が響く。

「俺の負けだ」

 こちらを覗き込んで感心したように言う。

「今日はあんたのお陰で満足した。対戦に感謝するよ。これはお礼だ」

 そう言って傍らに置いていたパンダのぬいぐるみを差し出す。

「さっきここでゲットしたんだ」

 女の子は笑顔でゲームセンターを出ていく。

 店内を見渡すと、他の客は1人もいなくなっていた。クレーンゲームの方に行ってみると、未希が欲しがっていたのとよく似たパンダのぬいぐるみがあるのを見つけた。だが、さっきの女の子から貰っている。俺はあの格闘ゲームが強そうな女の子に勝ったことが誇らしかった。そろそろ外に出ることにしよう。

 北へ進むと、東と北へ続く分かれ道に差し掛かり、東へ続く道幅が広い道を挟んでゲームセンターの隣に団地が見えてくる。入り口は東へ進んだ方にあるようだ。東へしばらく進むと道は南へ折れ、左に団地の入り口がある。南の道はこの先で東へ折れているようだ。

 団地の敷地内に入る。敷地内には2棟しかなく、右側の棟にはちらほら明かりがついているが、左側の棟は誰も住んでいないようで明かりがついていない。右側の棟の入り口近くの街灯の下で少女が何かを蹴って遊んでいる。こんな時間にボール遊びだろうか? 近づいてよく見ると、何かのぬいぐるみを蹴っている。奇妙に思えた。しかも、頭が取れている。声をかけようか迷っていると、少女は見られているのに気づいた様子で顔をこちらに向けた。

「お兄ちゃん、どこから来たの?」

 9歳くらいの可愛らしい少女だ。お下げ髪と横縞のTシャツがよく似合っている。その問いに別の世界からと言いかけるが、説明が面倒になりそうで、

「あっちの方」

 と指差してごまかす。

「ふ~ん、そうなんだぁ」

 少女は楽しそうにぬいぐるみを蹴っている。

「この辺りで長い髪の高校生ぐらいのお姉さんを見かけなかったかな?」

「ううん。見てないよ」

 そう言いながら、少女はぬいぐるみを拾い上げる。蹴られてあちこち汚れてしまっている。

「何でぬいぐるみ蹴って遊んでるの? かわいそうじゃん」

 すると、少女は急に怖い顔をした。

「頭、なくなっちゃったの……」

 答えになっていない気がした。少女はぬいぐるみをこちらに向ける。見ると、ちぎれたような跡がある。

「君が蹴るからどこかへ飛んでいったんじゃないの?」

「あはは、お兄ちゃん面白いこと言うね。名前はさなえだよ」

 無邪気な笑顔に戻ってホッとした。

「このクマのぬいぐるみ、サンタさんにもらったの。だから、サンタっていうの」

 サンタさんとは、お父さんのことだろうか。

「クマなのにサンタか?」

「あはっ、また面白いこと言ったね」

 笑い方が未希に少し似ていた。

「そうだ! お兄ちゃん、サンタの頭を見つけて来てくれない?」

 さなえちゃんの瞳が月明かりに照らされて輝いた。

「じゃあ、一緒に行かない?」

 さなえちゃんはサンタを抱いたままもじもじして、

「行きたいけど、お母さんから1人で団地の外に出ないようにって言われてるから」と言う。

「俺がいるから1人じゃないよ。それに、途中で落とした場所を思い出すかもしれないじゃん」

「でも……」

 だんだんさなえちゃんの顔が引きつってきた! このままだと、また怖い顔をするに違いない。

「見つけたら持ってくるよ」

「やったぁ! 約束だからね」

 さなえちゃんは小さな小指を突き出した。かがんで小指を絡める。

「指切げんまん、嘘ついたら怖い顔す~るよ、指切った。じゃあ、サンタの頭見つけたら305号室に持って来てね」

「わ、わかった。でも、期待しないでね」

 さなえちゃんはまた怖い顔をする。

「バイバイ」

 小さな手を振りながら団地の階段を駆け上がっていく。頭の取れたぬいぐるみを大事そうに抱えて。ついでに捜してあげるか。そろそろ敷地内を出ようかと思ったが、蹴った拍子にちぎれてどこかに転がっているかもしれない。さなえちゃんが遊んでいた街灯の周辺の飛んで行きそうな範囲を捜すが、どこにも見当たらない。どうやらこの辺りにはないようだ。敷地内を出ると、道は西と南へ続いている。

 交番の前まで戻ると停めてあった自転車がない。横の道を少し進むと、東と北へ続く分かれ道に差し掛かる。東へ進むと、学校にぶつかって道は北へ折れる。角を曲がって北へかなりの距離を進むと、東と北へ続く分かれ道に差し掛かる。

 北へ進むと踏切が見えてくる。遮断機は下りているが、警報機は点滅していない。左右を確認しても電車が近づいてくる気配はない。遮断機をくぐろうとしたその時だった。

《そっちは危ない!》

 未希のただならぬ声が脳内に響く! 未希はどこかで俺を見守っていてくれたようだ。前方を見渡しても特に危険はないようなのだが、踏切から離れることにする。南へ進むと東と南へ続く分かれ道に差し掛かる。東へしばらく進み続けると道は南へ折れる。角を曲がって南へしばらく進むと、東と南へ続く分かれ道に差し掛かる。

 東へ進んでいると、前方から人影が歩いてくるのが見える。薄暗がりの中、横顔が街灯に照らし出される。小学生ぐらいの少女だ。まっすぐこちらへ歩いてくると目の前で立ち止まった。顔をよく見ると学校のプールサイドで出会ったあの少女だ。髪が肩まであり、制服に着替えていたからすぐには気づかなかった。背中には赤いランドセルを背負っている。

「また会ったね。学校の帰りかな?」

 すると、少女は真剣な表情になって、

「お願いがあるの。お兄さんの世界へ一緒に連れて行って欲しいの」

 と懇願する。

「それはできないよ。君にも家族がいるんだろう?」

「お父さんとお母さんがいるよ。でも、いいの。お兄さんも言ったよね。この町は、現実とは違う世界だって」

 俺は少女の言葉に思わず怯む。このまま少女を連れて肉体に戻ったら、未希と会わずに帰ることになる。

「ごめん。この世界でどうしても会わなくちゃならない人がいるんだ。肉体に戻ってしまったら、もう会うことが出来ないかもしれない……」

 すると少女は、

「やっぱり誰かを探していたんだね。わかった。その人に会えるといいね」

 と微笑みながらも寂しそうに言うと、くるりと背を向けて来た道を走って引き返していく。ランドセルを上下に揺らしながら闇に消えていく後姿を見つめているとやるせない気持ちになる。さらに進むと丁字路にぶつかる。少女の姿はすでに見当たらなくなっている。

 北へしばらく進むと踏切が見えてくる。遮断機は上がったままだ。左右を確認しながら渡ると、前方に駅が見えてくる。

 OL風の女性が駅から出てくるのが見える。どうやら酔っているようで、こちらの方へ千鳥足で歩いてくる。制服の胸元は大きく開かれ、おまけにミニスカートをはいている。あんな大胆な格好で夜道を歩いて大丈夫なのだろうか? 女性は近くの電柱に寄りかかって一息ついている。心配して声をかけようとすると、

「あら、男前」

 と言いながら俺に抱きついてきた! 2つの柔らかなものを押しつけてくる。

「あたしをアパートまでぇ、送ってくれなぁい?」

 上目遣いで囁く。

「このままだとぉ、1人でぇ、帰れそうにないのぉ」

 女性はさらに体を密着させてくる。酒の匂いに混じって、香水の甘い香りが俺を惑わせる。

「いいですよ」

 やはり放ってはおけなかった。

「ありがとぉ! じゃあ、案内するわねぇ」

 お姉さんに肩を貸すと歩き始める。左右を確認して踏切を渡る。

「ところでぇ、どこかぁ、行くところだったのぉ?」

「この辺りで人を探しているんです」

「彼女でしょう?」

 俺は思わず立ち止まる。

「何でわかったんですか?」

「女の勘はぁ、鋭いんだからぁ」

「そうだ! 長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけませんでしたか?」

 お姉さんは首を横に振る。

「見てないとぉ、思うわ。でもぉ、大事にしなさいよ」

「はい!」

 いつまでもそうしたかったさ……。

「そこを、右にねぇ」

 しばらく2人で歩く。正直、お姉さんから漂ってくる大人の色気で胸がドキドキしていた。

「あら、電話ボックスがあるわねぇ」

 闇に佇むその姿はどこか寂しげだ。

「ねえ、小銭持ってぇ、ないかしら?」

「ないですね」

 すでにコンビニで使ってしまっていた。

「そう。ならぁ、アパートまでぇ、お願いね。そこを左よぉ」

 デパートと住宅街に挟まれた道を2人でしばらく歩く。お姉さんは歩きながら眠ってしまいそうな様子だ。デパートの前を通り過ぎ、さらに歩くと丁字路にぶつかる。

「右よ。もう少しだから」

 お姉さんの酔いが徐々にさめてきたようだ。肩を貸してしばらく歩く。

「このアパートよ」

 右手の真新しい2階建ての建物を指差す。

「お礼したいからさ、ちょっとここで待っててね」

「いいですよ、お礼なんて」

 お姉さんは俺の肩から離れると、

「ダメよ」

 と言ってアパートの階段を駆け上がっていく。ほのかに香水の残り香がする。ピッタリくっついていたからセーターに染み付いているかもしれない。未希と会うまでに消えなかったらどうしよう。

 5分ほど待っていると、お姉さんはコートらしきものを持って階段を下りてきた。

「良かったらこれ使って。男物だからもう要らないの」

 黒い皮のコートを俺に渡す。

「今夜は寒くなるから。じゃあ、本当にありがとう。彼女に会えるといいわね」 

 お姉さんはウインクすると、再び階段を駆け上がっていく。コートは重みがあり、羽織っておくことにする。道はここからだと、すぐに丁字路にぶつかる。

 北へしばらく進むと正面に校門が見えてくる。校門はすでに閉まっている。朝になるまで開くことはないだろう。駅まで戻ってみることにする。

 駅に入って改札口を通る。駅員さんの姿は見当たらない。離脱後の世界なのだから、切符がなくても大丈夫だろう。そう思ってホームに出てみると、電車を待つ人の姿もない。奥のホームに1両編成の電車が停車している。時刻表を確認すると、間もなく発車するところだ。階段を上って渡り通路を進み、階段を下りて奥のホームへ向かう。

 電車に乗り込むと、正面右の4人掛けの縦座席を半分も占領してオーバーオールをパンパンに膨らませた異様に太った男が座っている。男はクラッカーをバリバリ食べている最中だ。粉が膝にポロポロ落ちても気にしていない。ドアが閉まり、電車は静かに動き出す。車内を見渡すが、他に乗客はいないようだ。

「それ、美味しそうですね。少し貰えませんか?」

 男はクラッカーを食べる手をピタリと止めた。

「……尻相撲で勝ったらね」

 体に似合わぬ小声でそう言うと、ニッと微笑む。体重は俺の3倍以上ありそうだが……。電車がトンネルに入る。

「挑戦します」

 男はその言葉を聞いてゆっくり立ち上がる。身長は俺より高く、180センチ以上はありそうだ。俺と男は尻を突き合わせて構える。男は異様な大尻を突き出してきた。俺は気づかれないようにこっそり後ろを見て、それを紙一重でかわす。大尻が引っ込んだのを見計らって渾身の力で尻を突き出す。その瞬間、俺の両足は浮いた。たまらず男は前のめりに倒れる。

 勝った!

 男はいかにも悔しそうな表情でクラッカーを一袋差し出す。その時、電車は駅に到着した。男は手首をいたわりながら電車を降りていく。受け取った貴重なクラッカーをポケットにねじ込む。ひとまず食べずに残しておこう。

 男に続いて電車を降りる。どうやらこの先に線路はなく、ここで終点のようだ。ぼんやりと明かりの灯る小さな木造の駅がひっそりと佇んでいる。
 無人の改札口を通って駅を出たとたん、駐車場に黒いスーツ姿の男が立っているのに気がついた。男は音もなくスーッとこちらへ近づいてくる。

「あなたは体外離脱者ですね?」

 背後の魂の緒を確認することなく、何者であるかを言い当てたように感じた。

「そうですが、あなたは?」

「ある使いの者です。体外離脱してくる者に危険を冒す前に肉体に戻るよう促すのが私の役目」

 使いの者だって?

「俺は大切な人と会うためにこの世界に来たのです」

「それは知っています」

 男はすべてを知っているかのような面持ちで言う。

「……未希の居場所も知っているようですね」

 男は小さくうなずいた。

「もちろん。ですが、その場所をあなたに教えることを彼女は望んではいません」

「それはどういうことですか!?」

 予想外の言葉に、俺は思わず詰め寄る。

「それは彼女に会うことができたらわかるでしょう。しかし、この世界に長居すれば、肉体に2度と戻れなくなる可能性もあります」

 今までよりも強い口調で言う。

「それは覚悟しています」

 真剣な眼差しでそう言うと、男の表情も少し変わったように見えた。

「一刻も早く、あなたの世界に帰るのです」

 そう言い残して、男は目の前でパッと姿を消した! やはり普通の人間ではなかったようだ。たとえ未希がそれを望んでいるとしても、ここまで来て帰ることはできない。駅からは、木々に挟まれた薄暗い山道が北へ続いている。山道をしばらく進むと、木々の生い茂る森が目の前に迫ってくる。奥の方でカラスに似た鳴き声が聞こえた。山道が東と西へ続いているが、道を照らしてくれるのは月明かりのみ。

 西へしばらく進むと、山道は緩やかに北へ曲がる。北の方にぼんやり明かりが見える。

 道なりに少し進むと、左手にカラオケボックスがある。なぜこんな場所にカラオケボックスがあるのだろう? 入り口のドアを開けて中に入る。正面の受付に店員の姿はない。左手の通路に個室が並んでいる。その時、1番手前の個室から、

「未希姉ちゃん。次、これ歌って」

 と女の子の声がした! 思わず駆け出して、小窓のガラス越しに中を覗く。中学生と20歳くらいの女の子2人がカラオケを楽しんでいる。

 偶然同じ名前だったようだ。他の個室も覗いてみるが、客は入っていなかった。外に出よう。北へ少し進むと、山道は緩やかに東へ曲がる。

 目の前の藪の間にお地蔵様が佇んでいるのを見つけた。奇妙なことに、お地蔵様に頭はなく、クマのぬいぐるみの頭が代わりに置かれ、風に吹かれて小刻みに揺れている。これ、もしかしたらサンタの頭じゃないだろうか。大きさも、あのぬいぐるみの体に合う気がする。拾った人が、頭の取れていたお地蔵様を不憫に思って代わりに置いたのかもしれない。もしそうなら、ユーモアのセンスのある人だ。でも、なぜこんな山奥に? さなえちゃんがこの辺りに遊びに来て、ちぎれて落としたのに気づかずに帰ってしまったのだろうか? ひとまず頭を持っていこう。

 薄暗い山道を東へ進んでいると、前方から手をつないだ男女がうつむきながら歩いてくるのが見えた。距離が縮まるにつれ、2人の体が透けていることに気づいて驚く! 男女は俺に構うことなく、スーッとこちらへ近づいてくる。

「うわっ!」

 ぶつかると思った瞬間、体を通り抜けていった! 振り返ると、すでに男女の姿は消えていた! 今のは幻だったのか、それとも……。足早で山道を進むと、丁字路になっている場所に出た。北へ続く道はなだらかな下り坂になっている。

 なだらかな下り坂をしばらく進むと、道が開けてキャンプ場のような場所に出た。この辺りまで来ると、月明かりもあまり届かなくなってくる。迷ってしまう前に引き返そうとしたその時、前方にゆらめく明かりが見えた。

 何かあるのかと明かりに近づいていくと、テントが2張あり、その前で焚き火が燃えていた。闇に慣れた目には眩しい。火は徐々に小さくなっているようだ。テントの中の人に未希を見かけたか尋ねてみようかと思ったその時、左のテントから話し声が聞こえてきた。

「お昼はおにぎりがいいな」

「了解」

「やったぁ!」

 どうやらお母さんらしき人と小さな女の子が中にいるようだ。

「じゃあ、もう寝なさい」

「はーい、おやすみなさい」

「おやすみ」

 ちょうど寝るところのようだ。

「ポキッ」

 動いた拍子に木の枝を踏んでしまった!

「あら、外で何か音がしたわよね?」

「お化けかな? 怖いよう」

 釣られてテントに頭をぐーっと押しつける。

「ぎゃーーっ! 何よこれ?」

「いやぁ! お化けが入って来ようとしてる!」

「ギギギ」

 続いてテントを爪で引っ掻く。 

「な、何の音よ?」

「お母さん、逃げよう!」

 女の子とお母さんは慌ててテントから飛び出して、どこかへ逃げ去った。未希を見かけたか尋ねそこねてしまったな。焚き火の明かりを頼りにテントの中を覗くと、急いで抜け出た形跡のある大小の寝袋と、片隅に衣服がきちんとたたまれて置かれている。

 右のテントに近づくと、中からかすかにいびきが聞こえてくる。焚き火の明かりを頼りにテントの中を覗くと、お父さんらしき人と子供が寝袋に包って眠っている。それにしても酷いいびきだ。お父さんらしき人の方へ歩み寄る。子供が寝ているのが不思議なほどの凄いいびきだ。一体どんな夢を見ているのだろう?

「すみません」と寝袋を揺すってみる。子供は、どうやら男の子は起こさないように小声で。さらに激しく揺すってみても、まったく起きる気配がない。諦めて男の子の方へ歩み寄る。

「ちょっと起きて」と寝袋を揺すってみる。

「ん? お兄さんは誰?」

 やはり眠りが浅かったようですぐに起きてくれた。

「この辺りで長い髪の高校生ぐらいのお姉さんを見なかったかな?」

 男の子は首を横に振る。

「見てないです」

「お父さんも?」

 男の子は首を縦に振る。

「はい。ずっと一緒だったので。……あっ! リンリーだ!」

 男の子はポケットから少し顔を覗かせていたフィギュアを見て叫び、寝袋から抜け出してくる。

「お兄さん、良かったらそれ売ってくれませんか?」

「これ?」

 ヌンチャクを脇に挟んだ女格闘家のフィギュアをポケットから取り出す。

「はい! リンリーは格闘魂ってゲームで1番人気があるキャラクターなんです。そのフィギュアはスナック菓子を30個買って、出るか出ないかのレアものなんですよ! 9体までは集まったんですが、リンリーだけ持ってないんです」と瞳を輝かせて熱く語る。

「そんなに欲しいなら」とフィギュアを渡す。

「やったぁ! お兄さん、どうもありがとう!」

「フィギュアと交換でも」

「わかりました」

 男の子はそう言うと、寝ているお父さんの頭をはたいた。そうして、お父さんの寝袋に手を突っ込み、左の胸ポケットの辺りをゴソゴソとやって何やら取り出す。

「ダブってるの、今はダイガンしかないんです」

 寝ているか確認したようだ……。

「い、いいよ」

 それにしても、なぜお父さんの胸ポケットの中に? 棍棒を高々と掲げた筋骨隆々な怪物めいた男のフィギュアを受け取り、ポケットにねじ込む。お父さんが起きてしまう前に、男の子に別れを告げてテントから出る。

 なだらかな上り坂をしばらく進むと、西と南へ続く分かれ道に差し掛かる。西へ進んでいると、左の森の木々に隠れるように小さな掘っ立て小屋が建っているのに気がついた。

 木のドアをコンコン、コンコンと小屋の中からノックする音がかすかに聞こえる。外から鍵をかけられて閉じ込められているのだろうか? 木のドアに近づくと、鍵穴らしきものは見当たらない。不審に思いながらも木の取っ手をつかんで引いたとたん、白い顔が突然目の前に現れる!

「うわーーっ!」

 小屋に入りかけていたから余計に近く、驚きのあまり腰を抜かしそうになる。すると、小屋の奥から子供のいたずらっぽい笑い声がした。よく見ると、白い顔の正体は頭髪のない女のマネキンだった。それは次の瞬間、独りでに動いた! あられもない姿のマネキンがぎこちない動きで横に移動すると、奥の方で油まみれの作業服姿の少年が木の椅子に座り、ラジコンの送信機のようなものを両手で操作している。

「ビックリさせてごめんね。君の驚いたリアクション、最高だったよ」

 少年は椅子から立ち上がると、

「お詫びに中に入らせてあげるよ」

 と招き入れる。小屋の中に入ってみると、左奥にマネキンの手足が詰め込まれた大きな木の箱があり、少年の座っていた木の椅子の後ろには「実験室」と札のかけられた木のドアがある。

「そこに立っているマネコンは僕が作ったんだよ」

 マネキンのラジコン、略してマネコンか。それにしても、どんな仕組みになっているのだろう?

「この辺りで長い髪の高校生ぐらいのお姉さんを見かけなかったかな?」

「見かけたかもしれないし、見かけてないかもしれない。僕は実験のことで頭がいっぱいだから、他の情報を排除してしまうんだ」

 少年はドアの横に佇むマネコンを見つめながら嬉しそうに言う。

「君は隣町から来たの?」

 少年が尋ねる。

「まあ、そうだよ」

 現実世界から来たと言っても信じてはもらえないだろう。

「実は隣町に1体だけマネコンを試験的に置いてあるんだ。壊したりしちゃダメだよ」

「壊さないよ。ところで、これはどんな仕組みになっているの?」とマネコンの方を見る。

「そ、それは秘密だよ。さて、実験の続きをしなくちゃ」

 少年は急に慌てた様子で実験室のドアを開け、中に入るとドアを閉める。すぐに中から鍵をかけたような音がした。見られてはまずい実験でもしているのだろうか? 小屋から出て振り返ると、マネコンがぎこちなく手を振っている。

 西へ進むと、山道は緩やかに南へ曲がる。南の方にぼんやり明かりが見える。道なりに少し進むと、右手にカラオケボックスがある。入るとやはり受付に店員の姿はない。個室を確認しておこう。

 まずは手前の個室を覗いてみると、あの異様に太った男が、粉を飛び散らせてクラッカーを食べながらマイクを握っている。歌は意外に上手いようだ。中に入るのに苦労した様子が目に浮かぶ。他の個室も覗いてみるが、客は入っていなかった。外に出よう。

 南へ少し進むと、山道は緩やかに東へ曲がる。道なりにしばらく進むと、東と南へ続く分かれ道に差し掛かる。南には小さな無人駅の明かりが見える。

 無人駅に戻るとホームに乗ってきた電車が停車したままだった。最初の駅に戻ろう。電車に乗り込むとドアが閉まり、静かに動き出す。すぐに降りられるように近くの縦座席に座る。

 窓から目まぐるしく変わる景色を眺めていると、10分ほどで駅に到着した。電車を降り、無人の改札口を通って駅を出る。左右を確認しながら踏切を渡る。さなえちゃんにこのぬいぐるみの頭を持っていこう。

 団地の敷地内に入る。ちらほらついていた明かりが少なくなっている。この団地にはさなえちゃんの他にどんな人たちが住んでいるのだろう?

 これがサンタの頭であってほしいと願いながら階段を上がり、さなえちゃんの住む3階の305号室に向かう。

「305、ここだな」

 さなえちゃんの名前もある。ドアの前に立ち、チャイムを押す。

「はーい」

 中から声がしてドアが開くと、さなえちゃんが顔を覗かせる。

「お兄ちゃんだ! サンタの頭は見つかったの?」

「これ、違うかな?」

 後ろに隠していたぬいぐるみの頭を見せる。さなえちゃんは頭を受け取ると匂いを嗅ぐ。

「サンタだ! お兄ちゃんありがとう!」

 特別な匂いでもするのだろうか? 瞳を輝かせながらお礼を言う。

「もう蹴ったりしちゃダメだよ」

「うん! でも、どこにあったの?」

「お地蔵様の頭の代わりに置いてあったんだよ」とお地蔵様のジェスチャーをしてみせる。

「そうなんだ。なんでそんなところに……。まあ、いいや。お母さーん、お兄ちゃんがサンタの頭見つけて来てくれたよ」

 すると、奥から黄色いワンピース姿の若くて優しそうな女性が姿を現すと、さなえちゃんと手をつなぐ。

「この子のためにありがとうございました。さなえにとってサンタは大切なぬいぐるみだったので、頭をなくしてからはすっかり落ち込んでいたんです」

 俺はふと、さなえちゃんが頭の取れたサンタを蹴って遊んでいたことをお母さんは知っていたのだろうかと思った。

「これはほんのお礼です。コンビニで使えるんですよ」と何かの券を差し出す。受け取ってよく見ると、中華まんの引換券だ。

「ありがとうございます。では、俺はこれで」

「今度は遊びに来てね」

 さなえちゃんは外に出て、ずっと手を振って見送ってくれた。あんなに喜んでくれて苦労した甲斐があった。引換券をポケットにねじ込みながら階段を下りる。コンビニで引換券を使おう。

 自動ドアが開いて店内に入る。

「いらっしゃいませ」

 若い男の店員が少し眠そうに言う。

「彼女さんに会えましたか?」

 店員は俺だと気づくと声をかけてきた。

「いえ、まだです」

 首を横に振る。

「そうですか。今度は引き止めておきますね」

 人気商品コーナーの棚に中華まんが山積みにされている。

 中華まんを一袋取ってレジに向かい、ポケットから引換券を取り出して店員に渡す。

「クシャクシャですね。ポケットにねじ込んでいましたね」

 店員は苦笑いを浮かべている。

「温めますか?」

「お願いします」

 コンビニを出たら温められる機会はもうないだろうと思い、そう答える。

 約1分後、レンジから袋が少し膨れた中華まんが出てくる。

「開封しなければ温かさは長持ちしますよ」

 中華まんの入ったコンビニ袋を受け取る。これは未希と会うまで食べないでおこう。

 ゲームセンター前まで戻り、北へしばらく進むと丁字路にぶつかる。西の方には橋が架かっているのが見える。西へ少し進んで橋を渡ると、すぐに西と北へ続く分かれ道に差し掛かる。西の方には工場が見える。

 工場に向かって西へ進むと、少し開いた工場の門の前に白っぽい服を着た人影が立っている。守衛さんだろうか? 近づいてみると、それは頭髪のない女のマネキンだった。あられもない姿で佇んでいる。なぜ工場の門の前にマネキンが置かれているのだろう? 門の隙間から敷地内の様子を覗き込んでいると、マネキンがかすかに動いたような気がした。

「守衛さんですか?」

 それはないだろうと思いながらも尋ねてみる。

「……」

 やはりしゃべらない。すると、マネキンの膝から下だけが動き出し、歩み寄ってきた! 軽く突き飛ばしたつもりだったが、マネキンは2メートルほど吹っ飛んでバラバラになった。頭がゴロンとこちらへ転がってくる。

 敷地内に侵入。駐車場にはトラックが数台あるが、運転席を覗いてみても人は乗っていない。金属加工の工場らしく、鉄板や鉄パイプが山積みにされている一角があった。人に出会うことなく1周したところで門に戻ると、マネキンがバラバラになって地面に転がっていた。東へしばらく進むと、橋の手前で東と北へ続く分かれ道に差し掛かる。北へしばらく進むと道は西へ折れる。住宅街に挟まれた道を西へ進む。

 辺りを見回しながら道を進んでいると、三輪車に乗った赤ん坊が右手の家の敷地内から道に出てくるところと鉢合わせする。赤ん坊にはまだ三輪車は大きいようだが、まるでバイクに乗っているかのようにふんぞり返っている。赤ん坊は人懐っこい笑顔を向けると、人差し指と中指でタバコを吸うジェスチャーをしながら、

「あんちゃん、タバコ持ってねえか?」と話しかけてきた! しかも、中年の男の声で……。

「も、持ってないよ」と苦笑いしながら答える。

「じゃあ、ビールでもいい」

「ビールもないよ。それに君にはまだ早過ぎる」

「俺はもう大人だぜ」

 何やら謎めいた笑みを浮かべている。ふと、赤ん坊の手首に巻かれている物に目が留まる。未希が使っていたハンカチの柄に似ているようだ。

「その手首に巻いてるの、見せてもらってもいい?」

「これか?」

 するりと解いて俺に渡す。広げてみると、やはり未希が使っていたのと同じ柄のハンカチだ。裏返して右下を見ると、相合傘の両側に信治と未希が書かれている! これは間違いなく未希のハンカチだ! 未希と初めて出会った数日後の付き合うと決まった日に未希が書いたものだ。

「このハンカチどうしたの!?」

「さっき拾ったんだ。家の前でな」

 未希がこの辺りを通ったようだ。

「そうなんだ。この辺りで長い髪の高校生ぐらいの女の子を見かけなかったかな?」

 赤ん坊は首を横に振る。

「いや、見かけていたらナンパしてるさ」

 赤ん坊がナンパする時代になったのか。

「これ、貰えない?」

 赤ん坊は少し悩むような素振りを見せて、

「ぬいぐるみかフィギュアと交換ならいい」と言う。中年の男の声で言われると、思わず笑ってしまいそうだった。男の子と交換したフィギュアを取り出して赤ん坊に差し出す。すると、

「かっこいいねぇ!」と急に赤ん坊の声に変わり、嬉しそうに受け取る。赤ん坊はフィギュアを握り締めたまま、三輪車をこいで上機嫌で家に戻っていく。

 赤ん坊と別れ、住宅街に挟まれた道を西へ進む。しばらく進むと一軒家にぶつかる。来た道を引き返し、曲がり角を南へ進む。南へしばらく進むと丁字路にぶつかる。東の方には川に架かる橋、西の方には工場が見える。

 橋を渡っていると、前方から動物らしき影が近づいてくる。橋の中ほどで出会ったのは中型の黒い犬だった。首輪はしていないが、野良犬にしては綺麗な毛並みをしている。犬は握り締めていた未希のハンカチに興味を示したようで、しきりに匂いを嗅いでくる。

 そうだ!

 鼻に近づけて匂いをしっかり嗅がせる。すると、犬は俺が歩いて来た方へ走り出した! 犬が向かう先に未希がいることを期待して後を追う。犬は橋を渡りきると、分かれ道を北へ向かって走る。引き離されないように後を追う。犬は曲がり角で立ち止まり、こちらを振り返ってから西へ向かって再び走る。

 赤ん坊とまた鉢合わせするのではないかと思いながら後を追うと、前方に一軒家が見えてきた。確かこの前で引き返したことがある。犬は家の前をうろうろしていたが、やがて一声吠えると、来た道を戻るように走り去っていった。この家の中に未希がいるのか? 犬はもっと遠くに向かって吠えたような気もしたが。

 家の敷地内に入り、周りを回って中を覗こうとしていると、窓が数センチ開いている明かりのついた場所を見つけた。窓に近づくと、中からシャワーを浴びているような音が聞こえてくる。未希がこの家の風呂に入っているのだろうか? 窓は俺の顔の高さと同じぐらいのところにある。未希がこの家でシャワーを浴びている理由など考えなかった。窓の隙間から中を覗こうとしたまさにその時だった。

「これは許されざる行為だ」

 背後で何者かの声がした。振り向くと、そこにはあのお巡りさんが立っていた。

「君だったのか。ちょっと……」

 お巡りさんが言い終わらないうちに俺は逃げ出し、住宅街の闇に紛れ込んだ。どこをどう走ったか覚えていないが、俺はあの屋敷の前で足を止めていた。屋敷の明かりはついている。門扉を叩く。

 すると、すぐに門扉が少し開いてお爺さんが顔を覗かせた! 飛行してきたのかと思うほどの早業だ!

「何か持って来てくれたかの?」

 お爺さんの足元で子犬もちょこんと顔を覗かせている。ポケットからガムを取り出してお爺さんに渡す。

「なかなか面白いのう、お前さん。ガムは食わんじゃろう。これはわしがいただいておくよ」

 お爺さんはガムを包みから取り出して口に放り込む。

「では、わしについて話してやるとしよう。3年ほど前じゃったか、寝たきり中にたまたまこの町に体外離脱してな。体が自由に動くんで、嬉しくて仕方がなかったよ。静かで平和なところが気に入って、空き家だったこの屋敷に住み着いたんじゃ。そうしたら次の日に、黒いスーツ姿の男が屋敷を訪ねてきて、そろそろあなたの世界に帰りなさい、なんて言うもんだから、わしはこの町が気に入ったんじゃ、放っておいてくれと言ったら、呆れたように帰っていったよ。あいつは何者だったんじゃろうか? それから2、3日したら、背中の緒が消えとった。元の体はどうなったかのう……」

 そんなことを話してくれた。ポケットからクラッカーを取り出してお爺さんに渡す。

「おお! こいつの大好物じゃ。ほれ」

 クラッカーを袋から取り出し、子犬に食べさせ始める。子犬は尻尾を振りながら喜んで食べている。

「この恩に報いねばならん」

 お爺さんはそう呟くと、まるで手品師のように両手のひらをこすり合わせ、手のひらを出すようにとジェスチャーする。右手のひらを差し出すと、まるで将棋を指すかのように100円玉を置いた。持っていたスナック菓子をお爺さんに渡す。

「ビーフ味か、ほれ」

 スナック菓子を開けて子犬に食べさせ始める。子犬は尻尾を振りながら元気に食べている。

「そう言えば、わしとこいつが縁側で日向ぼっこをしていたら、セーラー服姿の女の子がアイスを食べながら屋敷の前を通ったのう」

「髪は長かったですか?」

 お爺さんは自分のつるつる頭をさすりながら、

「確か長い黒髪じゃった」と答える。未希の可能性は高い!

「どっちへ行きましたか?」

 お爺さんは中華まんをほお張りながら北へ続く道を指差す。

「あっちじゃ」

 これは今までにない有力な情報かもしれない! 早々に別れを告げ、急ぎ足で北へ向かう。

 北へ進む途中、電話ボックスが近くにあったのを思い出し、お爺さんから貰った100円で未希の携帯に電話してみようと電話ボックスに入る。100円玉をポケットから取り出してコイン投入口に入れ、未希の携帯番号を押す。受話器に耳を当て、5秒ほど待つ。

『え? 誰ですか!?』

 未希の声だ!

「俺だよ。今どこにいるんだ?」

『それは、今は言えないの』

「どうして?」

『会ったら訳を話すから』

「そうか。必ず見つけるから、そこで待っているんだぞ」

『うん。でも、無理しないでね』

「わかった」

『ところで、お金あったんだね』

「それがさ、ふふ」

 その時、電話が切れてしまった。

 道を戻り、北へ進むと駅が見えてきた。ホームで未希が待っていてくれるのを期待しつつ駅に入って改札口を通る。奥のホームに電車が1両停車しているが、未希の姿は見当たらない。

 その時、右から2両編成の電車が手前のホームに進入してきた。これが上りだろう。時刻表を確認すると、どちらも間もなく発車するところだ。後ろの車両から乗り込み、前の車両まで座席を見て回るが、他に乗客はいないようだ。ホーム側の横座席に座って発車を待っていると、いつの間にか車掌さんが横に立っていた。切符を確認するのかと焦る。

「ご乗車ありがとうございます。あなたが本日最後のお客様です。この電車は駅を出ますと戻ることはできません。心残りはございませんか?」と帽子のつばをつまみながら尋ねる。

「どうして戻れないんですか?」

 車掌さんはそれには答えず、ただ笑顔でこちらを見ている。

「心残りありません」

 俺はひとまずそう答えた。

「では、発車します」

 車掌さんはそう告げると、乗務員室の方へ消えた。

 ドアが閉まると、電車は静かに動き出す。窓から顔を出して振り返ると、町がだんだん小さくなっていく。町でのさまざまな出来事を思い出していたその時、向い合わせの座席の座面に木の棒のようなものが無造作に置かれていることに気がついた。手に取って裏返してみると、「当たり」の焼印が押されたアイスの棒だった。きっと誰かが置き忘れたのだろう。俺は当たりのアイスの棒を座面に戻す。

 窓を開けたまま20分ほど電車に揺られていると、前方に駅が見えてきた。電車が近づくにつれ、ホームに人影が見えた。窓から顔を出して目を凝らす。髪の長いセーラー服姿の女の子が手を振っている。

「未希だ!!」

 思わず大声で叫んでいた。窓から身を乗り出し、大きく手を振り返す。未希は俺が電車に乗ってくるのがわかっていたようだ。到着が待ちきれずにドアの前まで駆け出す。間もなく電車が静かに停まり、ドアがゆっくり開く。目の前に探し求めた未希が立っている! 手を上げて、俺を見てにっこり微笑む。

 目には少し涙をにじませているようだ。はやる気持ちを抑え、電車を降りる。

「待たせたね」

「ううん。いろいろと大変だったでしょう?」

「未希のためなら平気だよ。また会えて本当に良かった」

 満面の笑みでそう答える。

「私もまた会えるなんて思っていなかったから嬉しいよ」

 未希も本当に喜んでいるのが伝わってくる。

「そのセーター、私が誕生日にあげたやつだね」

「ああ、このセーターのお陰でここまで来れたような気がするんだ」とセーターをつまむ。

「そうかなぁ。でも、気に入ってくれてたみたいで良かった。その、手に持っているの何?」

 そう言われて、未希のハンカチをずっと握り締めていたことに気がついた。

「これ、落ちてたよ」

 とハンカチを差し出す。

「あっ!」

 未希はスカートのポケットの中に手を入れる。

「ありがとう。いつの間に落としたんだろう?」

 そう言いながらハンカチを受け取り、ポケットにしまう。ふと、未希が俺の足元に視線を移した。

「ふふ、裸足だなんて信治らしいね」

「そのままの格好で離脱したみたいでさ」

 少し恥ずかしくなりながら言う。

「ねえ、最後のデートしない?」

 そうか、最後になるんだな……。

「もちろん」

 悲しくなるのを押し隠して即答する。

「良かったぁ! じゃあ、遊園地、デパートの屋上、公園、レストラン、海ならどこに行きたい?」

 「遊園地に行こう」

「じゃあ、目を閉じてね」

 言われるままに目を閉じる。未希が両手で俺の両手を握った瞬間、体がフッと浮いた。

 しばらくして足が地に着く感覚がした。

「目を開けてもいいよ」

 ゆっくり目を開けると、遊園地の園内に2人で立っていた。どうやら瞬間移動したようだ。不思議なことに、近くの観覧車だけがライトアップされている。

「観覧車に乗ろう」

 そう言って未希は俺の手を引く。階段を上がり、1番下で待機していたゴンドラに乗り込む。2人で観覧車に乗るのは初めてだ。向かい合って座ると、ドアが独りでに閉まった。自動なのだろうと思いつつも少し驚いていると、未希がくすっと笑う。すると、ゴンドラがゆっくりと動き始めた。コンビニ袋から中華まんを取り出す。

「これ、食う?」

 幸いまだ温かい。

「いいの? じゃあ、半分こしようね」

 未希は開封すると、2つに割ってくれる。

「はい、あーん」

 初めてのことで、少し照れながらも大きく口を開ける。

「美味いよ!」

 いつもより美味い気がするのは、未希が食べさせてくれたからに違いない。未希は女の子らしくほんの少しかじる。

「2人で食べると美味しいね」

 と微笑む。未希のために残しておいて本当に良かった。ゴンドラが頂上付近に差し掛かるのを見計らって、パンダのぬいぐるみを差し出す。

「これ、あげる」

「わぁ、可愛い!」

 そう言ってぬいぐるみを抱き締める。

「信治って、ゲーム上手いんだね」

「え? 見てたの?」

「うん。かっこ良かったよ」

 未希はぬいぐるみを膝に置いた。

「私の居場所、秘密にしていてごめんね」

「いや、何で秘密に?」

 やっとその理由が聞ける。

「実は、信治が離脱してくる町を昼間に歩いていたら、私を呼ぶテレパシーが隣町の方から聞こえて、導かれるように瞬間移動したら駅の入り口の前だったの。そこには黒いスーツ姿の男の人が立っていて、『彼は戻れなくてもいいと思ってこの世界にやって来ます。あなたに対する深い愛情という意味では尊いのですが、彼にはまだあの世界で成すべきことが残っています。彼が途中で諦めて肉体に戻るようにひとまずこの駅のホームで待っているのです。彼のあなたに会いたいという気持ちが本物なら、電車に乗ってこの駅に来るでしょう』と言われて。私はその言葉に納得して、ずっとホームで待っていたの」

「じゃあ、あの時の町のどこかにと言ったのは、駅があるから、その電車に乗ってということだったのか?」

「そうよ。途中であの男の人の言葉を思い出してね。本当は私もすぐにでも会いたかったのだけど」

 そうだったのか。ようやく謎が解けた。

「やっぱり信治は思っていた通りの人だった。誰かのために一生懸命になれる人。秘密にしていたことを責めたりしなかったし、本当に優しいよ」

「未希のためじゃなきゃ、途中で諦めていたと思うよ。ここは慣れない世界だから」

 その時、1周したゴンドラが止まり、独りでにドアが開いた。未希を先に俺たちはゴンドラから降り、階段を下りる。

 2人で静かな園内を歩いていると、空から白いものが降ってきた。

「あ、雪よ」

「俺たちが初めて出会った時も雪が降っていたよな」

 ……約1年前、今年最初の雪が降る道を1人で歩いていた。

「あっ!」

 目の前でセーラー服姿の高校生らしき女の子が、足を滑らせて地面にうずくまる。雪が氷のようになった道を革靴で歩いたからだろう。うずくまったままの女の子に駆け寄り、

「大丈夫?」

 と声をかけて助け起こす。初々しいセーラー服姿に腰まで伸びた黒髪、潤んだ大きな瞳に一瞬で胸がときめくのを感じた。

「ありがとうございます。い、痛い!」

 右膝に手を当て、痛そうにしている。滑った拍子に強く打ったようだ。

「この先に病院があるから一緒に行こう」

 と肩を貸して歩き出す。

「すみません。本当にありがとう」

 そう言って俺に微笑む。膝の痛みを押し隠して微笑む姿に、何か特別なものを感じていた……。

「あの時、凄く嬉しかったんだよ。他の人は見て見ぬふりしてたのに信治だけは駆け寄ってきてくれた」

 気づくと、未希の髪や肩に雪が積もりかけていた。

「ちょっと寒くなってきたかも」

 吐く息も白くなってきている。羽織っていたコートを未希の肩にかける。やはり男物のコートは未希には大きい。

「いいよ。信治が寒くなっちゃう」

「俺は大丈夫。未希がそばにいるだけで温かいんだ」

「ふふ、強いんだね」

 雪の降る中を2人で歩いていると、未希が口を開く。

「……のじょ、作ってもいいよ」

「ん?」

「彼女作ってもいいから」

 未希は少しうつむいて、寂しげな表情をしている。

「いや、作らないと思う。未希は俺の最初で最後の彼女だから」

「そんなに私が好き?」

 嬉しそうに俺の横顔を見る。

「うん! 最高に」

 そう言うと、未希は俺の肩に頭を寄せてくる。いつものシャンプーの良い香りが漂ってくる。未希の横顔を見ると、一筋の涙が頬を伝い、こぼれ落ちた。月明かりに照らされて、それはしんしんと降る雪よりも美しかった。

 髪や肩に積もる雪を払い合いながらしばらく寄り添っていると、徐々に雪がやんできた。

「これ、ありがとう」

 未希は羽織っていたコートを俺の肩にかけてくれる。その時、未希の体が何やら輝き始めた!

「行きたくないけど、行かなきゃいけないみたい」

 思わず未希の腕をつかむ。

「俺も行く!」

「ダメよ! 信治を待っている人たちを悲しませることになるわ!」

 初めて見た、未希のこんなにも真剣な眼差しを。

「……」

 俺は何も言えなかった。

「また会えるよ。何十年後かにきっと」

 それは俺が現世を離れる時だろう。

「わかった。じゃあ、最後まで見送らせてくれないか?」

 そう言うと、未希は微笑んだ。

「いいよ。また目を閉じて」

 目を閉じると、未希はまた両手で俺の両手を握る。すると、体がフッと浮いた。

 次の瞬間、足が地に着く感覚がした。またどこかへ瞬間移動したようだ。

「もう開けていいよ」

 目を開けると、辺り一面に色鮮やかな花々が咲き乱れる場所に2人で立っていた。近くにはキラキラと輝く川が流れ、そこには古風な木の橋も架かっている。

「ここは?」

「三途の川と呼ばれているところよ」

 橋の方を見つめて言う。そうか、ここが三途の川なのか……。未希は俺の手を優しく握ると、橋の方へ歩き始める、花を踏みつけないようにして。いよいよ別れが近づいているのを感じていた。この橋を渡ったら、未希と永遠に会えなくなる。このまま2人でどこかへ逃げ出したい、そんな気持ちでいっぱいだった。

 見た目よりしっかりした橋の中ほどまで来て、未希は俺に向き直る。少し赤らんだ頬には、すでに幾筋も涙が伝っている。

「信治さん」

 未希は初めて俺をさん付けで呼んだ。

「足をくじいていたところを真っ先に駆け寄って、病院まで連れて行ってくれたこと。体外離脱してまで会いに来てくれたこと。本当に感謝しています」

 未希の涙をそっと親指で拭う。

「俺は未希と出会えた、ただそれだけで幸せだった」

「私もだよ」

 未希は涙をこぼしながら微笑む。

「それから、お父さんとお母さんに悲しまないで、私の人生は幸せだったからと伝えて欲しいの」

 俺は大きくうなずく。

「ああ、必ず伝えるよ」

 その言葉を聞いて安心したのか、未希は俺に抱きついた。さまざまな苦労があったけど、未希と会うことができて本当に良かった。

 未希の温かくて柔らかな唇が、俺の唇と重なり合う。俺は離したくない気持ちがいっぱいになって未希を強く抱き締める。
「離れたくない」

 未希はそうささやくと、俺の腕から離れる。

「私の最後の彼氏が信治で良かった」

 俺の目をじっと見つめて言う。その言葉を聞いた瞬間、心が震え、今までの苦労はすべて報われたのを感じた。

「もう1度抱き締めて」

 俺は未希の匂いと感触、そして温かさを永遠に忘れないようにしっかりと抱き締める。

「私が彼女で良かった?」

 未希は抱き締められたまま俺に尋ねる。

「もちろん。未希はこれからも俺の彼女だ」

 その言葉に満足したように未希は微笑みながら俺の腕からゆっくりと離れ、背を向けて橋を渡り始める。1人で橋を渡る未希の後姿が小さくなっていく。渡り切ったところでこちらを振り向いた。

「今まで本当にありがとう! 信治のこと、大好きだからね!」

 最後にそう叫ぶと、胸の前で両手でハートを形作った。そして、名残惜しそうに背を向けて歩き出す。きっと永遠の愛を表現したかったんだろう。未希とたくさんの思い出を作れたことに心から満足していた。

 その後姿が完全に見えなくなるまで見つめ続けた。見えなくなったとたん、俺の目には自然と涙が溢れ、幾筋も頬を伝って流れ落ちる。涙が止まらないのは、今までずっと我慢していたからだろう。次から次へと溢れ出てくる。涙は頬から首にまで伝い落ち、セーターに染み込んだ。
 名残惜しくて、未希が見えなくなった場所をいつまでも見つめていると、不意に背中の魂の緒に引っ張られるような感覚が襲った! そろそろ自分の世界に帰る時が来たようだ。確かこうだったはず。

「肉体に戻りたい」

 その瞬間、魂の緒の強い力で引っ張られ、次第に意識が遠退く。そして、光に包まれた……。


 気がつくと、ベッドに仰向けに寝ていた。やけに目の辺りが濡れている。ゆっくり上体を起こすと、涙が頬を伝って流れ落ちた。泣いていたようだ。枕元の目覚まし時計を見ると、5時がいくらか過ぎている。

 夢でも見ていたのか……。

 その時、どこからともなく未希のシャンプーの香りが漂ってくるのを感じた! 未希が近くにいるのかと部屋を見回すが、霊感のない俺には何も見えない。だけど、今までの出来事は夢じゃなかったんだ!と確信して、セーターをいつまでも見つめていた……。

 体外離脱して未希と会ったあの日から数日後。今日で未希と初めて出会ってから1年経った。窓から外を見ると、あの日と同じように雪が降っている。深々と降る雪を眺めていると、最後にデートした時のことを思い出す。あの時未希は、髪や肩に雪を積もらせ、息を白くして、潤んだ大きな瞳で俺を見つめていた。未希をいつまでも守ってやりたかった。ずっと一緒にいられると思っていた。もう2度と未希の声を聞いたり、手や頬に触れることはできないんだと思うと、また何時間でも泣いてしまいそうになる。でも、もう泣いたりしない。未希のことを思い出す時は笑顔でいようと決めたから。

 未希は俺に、恋することの喜び、愛することの素晴らしさを教えてくれた。俺は未希を忘れない。いつも心の中にいるから忘れられない。未希は俺の美しい思い出の中でこれからも存在し続ける。

END


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