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【警告無視】大杉谷遭難事故【裁判】

※サンプル記事です

今回は大杉谷吊り橋遭難事故について解説します。

1979年9月
三重県の大杉谷(おおすぎだに)で起きた遭難事故です。
大阪の登山サークル52人が大台ヶ原から大杉谷登山口まで
一泊二日で下る計画を立てました。

大杉谷は吉野熊野国立公園にあります。
宮川上流の急峻な渓谷で天然記念物に指定されました。
全長約16km、高低差1415mの険しい地形で原生林と数多くの滝があり近畿の秘境として知られています。
登山の初心者向けのコースではありません。
中級者以上向けの厳しい登山コースです。

大杉谷の途中には「桃の木山の家」という山小屋があります。この山小屋でも時間と体力に余裕を持った計画を呼びかけています。

大阪の登山サークルの参加メンバーは大半が登山初心者でした。大杉谷を一泊二日で下る計画には無理があったのです。

また大阪の登山サークルには
リーダーの指示に参加メンバーが異議を唱えにくい状況がありました。

サークル役員会の実質的な責任者は
「山と自然はみんなのもの。
決意を強くもてば、誰でもどこでも行ける」との信念を述べています。

役員会は参加メンバーに対して
「どんなことがあってもパーティに遅れない決意が大事。
行動中団結を乱し、参加者に動揺をもたらす発言と行動は許さない。
意見、発言等は、リーダーと役員会に休憩時に出す。
緊急時はその限りではない。
リーダー、役員会、班長に団結するのが基本」としていました。
このため参加メンバーはリーダーの指示に従って行動したのです。

事故の当日


1979年9月15日土曜日
大阪の登山サークル一行は朝に大阪を出発。
電車とバスを乗り継いで
正午前に大台ヶ原の山上駐車場に着きました。
そして大杉谷を下り、夕方には桃の木山の家に着く予定でした。

しかしこの計画は無謀です。
大台ヶ原の山上駐車場から桃の木山の家までは6時間から7時間かかります。
大半が初心者の52人ものメンバーには困難な計画でした。
初日は大台ヶ原の宿舎で一泊すべきだったのです。

しかも9月15日土曜日は敬老の日で祝日でした。
大阪の登山サークル以外にも
多くの登山者が大杉谷に入山していました。
登山道の吊り橋が混雑して時間がかかることは予想できたはずです。

大杉谷登山道には吊り橋がいくつもかけられています。
そのうち堂倉滝には全長46mの吊り橋がかかっていました。
堂倉滝の吊り橋は建設後約20年の老朽化した橋です。
そのため吊り橋には以下のような警告板がありました。
「通行制限。一人ずつゆすらないで静かに渡って下さい。
三重県・宮川村・大台警察署」

大阪の登山サークル役員会は
警告板の通行制限を知っていました。
それにもかかわらず「一人ずつ」の吊り橋は3人で渡ると事前に決めてしまいます。

大阪の登山サークル一行が堂倉滝の吊り橋に着いたとき
吊り橋の前には40人ほどの登山者が順番待ちをしていました。他の登山者たちは通行制限を守っていたのです。

これを見て登山サークルのリーダーたちは
警告板では「一人ずつ」の吊り橋を8人ずつ渡ることを決めてしまいます。
夜になる前に桃の木山の家へ急ぐことを優先したのです。
あまりにも無謀な決定でした。
そして登山サークルのメンバーはこの決定に従います。

吊り橋には先行の登山者が2人いました。
登山サークルのメンバーは
そのまま8人ずつ渡りはじめます。
「一人ずつ」の吊り橋に10人が乗っている状態です。

吊り橋は10人の重さによって揺れはじめました。
先行の登山者2人は制止します。
しかし後続のメンバー8人は強引に渡ろうとしました。

そのとき吊り橋のメインワイヤー2本のうち川上側の1本が切れました。
老朽化した吊り橋が10人の重さに耐えきれなくなったのです。
橋板が45度に傾き、メンバーの1人Aさんがワイヤーにぶらさがりました。

Aさんは少しのあいだ耐えていましたが
2分後に約20m下の河原に墜落します。
Aさんはそのまま露岩に激突して亡くなりました。
Aさんのザックには、途中の河原で拾った岩が入っていました。
また他のメンバーBさんがワイヤーに跳ねられて重症を負いました。

裁判の経過


亡くなったAさんの遺族は国家賠償法に基づき
三重県に対して吊り橋の設置、管理の瑕疵責任を
国に対しては設置管理費用負担者としての責任を問い
連帯して6900万円の損害賠償を請求する訴訟を神戸地裁に起こしました。

第一審の神戸地裁判決は
三重県は腐食したメインワイヤーの交換
通行禁止または監視員の配置などによって確実性のある具体的危険防止措置をとるべきであったとしました。

また、国には吊り橋の設置管理費用の負担者としての責任があるとした上で亡くなったAさんは通過制限の立看板を無視して多数で渡った過失があるとして3割を相殺し、国と三重県は連帯して4316万円を支払うよう命じました。

しかし神戸地裁判決には重大な事実誤認があったのです。

神戸地裁は大杉谷について
「一泊二日の登山コースとしては比較的楽な、登山というよりはハイキングというべきコースであり、スカートやヒール靴をはいたままの登山者もある」と認定しました。

大杉谷は中級者以上向けの険しい登山コースです。
裁判官が実地検証をすればすぐにわかるはずでした。
ところが三重県と国が要求した実地検証は行われませんでした。

さらに神戸地裁は誤った判断をします。
「通行制限の表示は、登山者の間では必ずしも遵守されず、多人数の渡橋が日常化していた」
「この事実から、吊り橋のメインワイヤーが荷重により切断することは夢にも思わぬ出来事であり、到底予見することのできないものであった」
「会としては、事前に吊り橋の渡橋方法について、通行制限が1人のところは3人で、2人のところは5人で渡橋するように打ち合わせていた。その理由は、吊り橋を渡る時の心理的恐怖心を考慮して、むしろ複数名による渡橋のほうがかえって安全であると考えたからであり、右の考えには合理性がある」と判断しました。

警告板では「一人ずつ」の吊り橋に10人が乗ったために事故は起きました。
それにもかかわらず「複数名による渡橋のほうがかえって安全である」と神戸地裁は判断したのです。

この判決に三重県と国は控訴しました。
亡くなったAさんの遺族も認容額を不服として付帯控訴しました。

1983年、第二審の大阪高裁では
三重県と国が以下のように主張します。
「本件事故の原因は、人数制限を無視して同時に多人数が渡橋したことにある。
事故当日、事故が発生するまでに100名以上の登山者が渡橋して事故は起きていない。
本件事故は自損事故に等しい。
吊り橋の管理瑕疵に基因するものではない」

三重県と国の主張は一部認められました。
亡くなったAさん側の過失相殺の割合が3割から4割に増やされ国と三重県がAさんの遺族に支払う賠償金は
4316万円から3676万円に減額されました。
しかし三重県と国はこれを不服として上告します。

1988年の最高裁判決は
三重県に対して上告棄却の判断を下しました。
他方、1989年の最高裁判決では
国に対して「原判決を破棄し、第一審判決を取り消す。
被上告人らの請求を棄却する」と判断します。
三重県には責任を認めながら国に責任はないとしました。

行政の対応


大杉谷吊り橋遭難事故の判決によって行政は責任回避のために過剰な施設整備を行うようになります。

大杉谷では3億7千万円の多額の税金で7本の吊り橋を撤去しました。天然記念物指定の岸壁をハッパで崩して迂回路を新設します。

他の地域でも行政による過剰整備が行われます。
岐阜県笠ヶ岳クリヤ谷の吊り橋を営林署が撤去。
大台ヶ原の筏場道は通行禁止になりました。
兵庫県の六甲山ではロックガーデンのコンクリート階段化工事が行われました。

こうした過剰整備で大杉谷が安全になったわけではありません。
むしろ観光業者やマスコミの宣伝によって気楽にやってくるようになった高齢者や女性の事故が増えたのです。

事故から学ぶ


山岳遭難事故を減らすために
大杉谷吊り橋遭難事故から学べることは何でしょうか?

1 無理な計画を立てない

今回の大阪の登山サークルの場合
そもそも登山計画に無理がありました。

・目的地の選定
大杉谷は中級者以上向けの険しい登山コースです。
初心者向けの目的地ではありませんでした。
目的地の選定が不適当だったといえます。

・日程の決定
大杉谷を一泊二日で下るのは
不可能ではありませんが厳しい日程です。
せめて二泊三日にしておけば
余裕をもって行動できたでしょう。
吊り橋を急いで無理に渡る必要もなかったはずです。

・人数の決定
登山サークルのメンバー52人は多すぎる人数です。
吊り橋を渡るのも大変ですが
通常の登山道で他の登山者とすれ違うのも困難でしょう。
もっと少ない人数で計画を立てるべきでした。

2 リーダーの判断とメンバーとの関係

・警告板を無視
「一人ずつ」の警告板があったのに
リーダーは警告を無視しました。
「一人ずつ」のところを3人ずつ渡ると事前に決めたうえ
現地では8人ずつ渡ると決めてしまいます。
この判断ミスは今回の事故の大きな要因でしょう。

・メンバーの服従
今回の大阪の登山サークルでは
役員会が参加メンバーに「団結」を強調しています。
メンバーがリーダーと役員会に意見をしにくい状況でした。

たしかに団体行動の場合には
メンバーの勝手な行動が危険につながることもあります。
一定の規律は必要でしょう。

しかし今回の吊り橋事故の場合
「一人ずつ」の警告板が設置されていることや
他の登山者が順番待ちをしている状況からみると
吊り橋を8人ずつ渡ることに
疑問を持つメンバーもいたはずです。

仮に今回の大阪の登山サークルが
リーダーに意見しやすい人間関係で
もっと風通しのよいサークルであったとすれば
リーダーに再考を求めることによって
事故を防げた可能性はあります。

3 事後的な裁判と行政の対応

大杉谷吊り橋遭難事故では
その後の裁判所の判断にも問題があります。

特に神戸地裁の事実誤認は重大でした。
上級審でいくらか改善されたものの
神戸地裁の事実誤認が裁判の方向性に影響して
行政の過剰整備につながってしまいました。

神戸地裁の裁判官が実地検証をしていれば
事実誤認も防げたはずです。

また行政の過剰整備も
山岳遭難を減らすためというよりは
行政の責任回避が主な目的だったと考えられます。

多額の税金で吊り橋を撤去したり
天然記念物指定の岸壁をハッパで崩して迂回路を新設することで山岳遭難が減ったわけではありません。

行政の責任回避を優先させて税金で貴重な自然環境を破壊するのは本末転倒ではないでしょうか。

大杉谷吊り橋遭難事故はその後の裁判を含めて
山岳遭難の責任の所在だけでなく
自然と人間のかかわりかたについても
考えさせられる出来事でした。

参考URL:
神戸地方裁判所 昭和55年(ワ)607号 判決 - 大判例
https://daihanrei.minorusan.net/l/神戸地方裁判所 昭和55年(ワ)607号 判決

大阪高等裁判所 昭和58年(ネ)2584号 判決 - 大判例
https://daihanrei.minorusan.net/l/大阪高等裁判所 昭和58年(ネ)2584号 判決


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