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古墳の思い出

地元、堺市の百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録が決定した。やったあ!
関東に越してきてもう20年以上になるけどやっぱり地元でこういうことがあるとうれしいね。

私は中学生のころまで古墳にハマっていた。私の頃はまだ大仙古墳とは呼ばれてなくて、教科書には通称仁徳天皇陵、正式名百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかみのささぎ)と書かれてあった。なぜ古墳に惹かれたのかだけど、ごく身近にその存在があるのと、神秘的な形とかかなあと思う。天皇の墓っていうだけで畏れ多い感じだしね。

堺には古墳が市域に点在している。海に近いほうが大きな古墳が多い。私は小学生までは堺市の東南のほう、中学生~社会人になるまでは和泉市と堺市の市境あたりに住んでいたので、百舌鳥古墳群はちょっと遠い存在だった。小学生の頃は陶器千塚という円墳中心の古墳群の近くに住んでいた。そこは弥生時代のころ須恵器という土器の一大生産地(土地の名前も「陶器」がついている)で、登り窯の遺跡があちこちにあった。丘陵地帯かつ良質の土が採れたかららしい。そこかしこの丘陵の斜面を掘ると土器の破片がたくさん採れた。そしてその丘陵沿いに古墳がたくさん(50基ほど)あったらしい。私はその話を聞いて辺りを巡ってみたが、結構田畑になってしまっていて大半はなくなってしまったらしかった。その中で一番大きな古墳は御坊山古墳という前方後円墳で、これは学校の中に存在しているため破壊を免れ、今も存在しているようだ。下の地図の青緑の屋根の右隣の森がそうだったと思う。何度か自転車で行き、学校の壁ごしに覗き込んだものだった。変わり者ですな(笑)。

もう一つ思い出深いのは黄金塚古墳という和泉市にある古墳である。当時古墳の情報は教科書および副教材でしか得られなかったので、4-5世紀あたりの古墳に関する部分は穴のあくほど読んでいた(笑)。そして副教材の黄金塚古墳の記述の誤り(誤字だったと思う)に気付いて先生に報告したところそれをとても褒められてしまって、その次の授業の時間に先生から記念品(おそらく私物)をもらってしまったという、苦い?思い出がある。なぜ苦い思い出かというとその先生は残念ながら生徒に好かれるタイプの方ではなかったので、好かれると逆にいろいろマズいからであった(笑)。


この古墳は中国から贈り物として授かった銅鏡が出土し、「卑弥呼の墓」ではないかと言われているもの。小高い丘の上にその地形を利用して造られたらしく、墳丘からの景色は結構見晴らしがよかったのを覚えている。

堺市の古墳は戦後の人口増加で宅地造成のために破壊されたものも多いと聞いていた。大塚山古墳というのもその一つで、墳丘の大きさは168mくらいあったらしいんだけど残念なことに宅地造成によって破壊されてしまった。今も道路が墳丘の輪郭を残している。

「いたすけ古墳」は同じように宅地造成のために周濠部に橋を架けられたらしいんだけど、住民の反対運動によって破壊を免れたんだよな。これも世界遺産の登録対象なんだよなあ。

その架けられた橋は今でも残っている。いたすけ古墳には狸が住んでいてときどき姿を現すそうだ。

私がいたすけ古墳を見に行ったころは木はすべて伐採されていて草だけが生えており、墳丘の形がよくわかったのを覚えている。今は木が生えてきて一般的な古墳の感じに戻っているようだ。

堺の古墳は世界遺産になってさらに保全が進むと思うので、登録されてよかったと思う。これで未来に遺しやすくなったよね。。

「ニサンザイ古墳」はこれだけの大きさがありながらなぜ天皇の墓ではないのだろうかと昔から不思議に思っていた。陵墓参考地とされているんだけどね。形も美しいし。

あと履中天皇陵、反正天皇陵、御陵山古墳、永山園あたりをおさえとけば百舌鳥古墳群はよいかと。。陪塚(ばいちょう)もおさえとけばほぼ完ぺき。さすがに私は陪塚までは覚えてないんだけどね。

古市古墳群にまで足を運んだことはないんだけど、応神天皇陵は西名阪自動車道からよく見えるのでよく知っている。

そしてうちの嫁は奈良出身だが、そこにも多数の古墳があって、なかでも箸墓古墳は私にとっては憧れの存在であり、帰省するたびに観に行きたいと思っているのだがまだその願いは成就されてはいない。前方後円墳としては最古のもので、これも「卑弥呼の墓」ではないかといわれている古墳だよね。

2年ほど前に欽明天皇陵と猿石を観に行った。久しぶりに古墳を見て感動したよ。。今度帰省した時には久しぶりに百舌鳥古墳群のうちの一つくらいは見に行こうかなぁと思っている。

しかし前方後円墳ってなんでこんな形になったんだろうな。上空から見るとテルテル坊主みたいな形。人のアイコンに見えなくもない。この形に惹かれたのかもしれんな。。

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