ごぼうサラダ

今小沼理さんの「1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい」を読んでる。


コロナ禍の2020年からの日記を書籍化したものなんだけど、僕も久しぶりに日記や今思っていることを書きたいと思った。
(以前は僕の好きなグループ「INI」のフェンファンくんに影響されて久しぶりに書いたけど1本吐き出して終わってしまいましたね…笑)
ちなみにこの本はコロナ禍の自分の気持ちを振り返りながら読めるのも嬉しい。

この本の帯には「日記を書くことは、日本で生きているゲイ男性の1人として『アクティヴィズム』でもあった。」と書かれていて、実際に自分が影響を受けて日記を書く・今後は社会や政治へのもやもやも綴っていけたらと思っているように、確かに『アクティヴィズム』であり、繋がっていくものであると思った。

最近今まで全然遊んだことがなかったけど、Instagram(ストーリーズにあげている見た映画)を見る限りを仲良くなれそうだな〜と思っていた大学時代の友だちと遊ぶ機会があって、おそらく僕が大学時代書いていたブログのことを、文章のことを褒めてくれて嬉しかった。
結構最近で本当に嬉しかったことかも。
自分がカッコいいと思うようなクリエイティブな仕事をしている友だちに…というのも嬉しいポイントだったし、褒められるのが苦手な自分も「書くこと」に関しては素直に喜べる気がした(同時に写真のことも褒めてくれたけど、そちらは技術がなさすぎて恐縮ですぅ…でしかなかった)。
まぁ「書くこと」にも技術もあるんだろうな、全然イメージが湧かないだけで。

自分の文章について他の方の文章と比較して思うのは、圧倒的に「平仮名が多い!」。
読みやすいかもしれないけど、それは自然とそうなっているのは語彙が足りないのか、論理的思考が足りないのか。
こういうのって会社でもテキストコミュニケーションをしていても良くも悪くも個性が出るよなと思う。
難しい言葉を使う=賢いではないから、誰が読んでもわかりやすい文章を書きたいとは常日頃思っているけど、毎回自分の文章を見返してアホっぽいな〜と感じることは多々ある。そして少し自己嫌悪もある。

アホっぽいでいうと、今までのブログのタイトルを見返していて「会いに行く人生に!」的なものを見つけ、1人で赤面してしまった。
今もそう思ってるし、大事にしたい価値観ではあるけど、タイトルにしてしまうと急に陳腐な感じになってしまうのはなぜなんでしょうか…。      
と思って一旦据え置きで今日食べたご飯をタイトルにしようと思って(えぇ、よりアホらしい?!)。
「きのう何食べた?」と聞かれて意外と思い出せないから日記として残す意味を感じられそうだし、「1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい」を読んでいて料理を作らない僕も「その日の気分や政治への違和感」と「夕飯の献立」を並列で語ることの良さを感じたから。

ここまで「書くこと」について書いてきたけど、素直に褒められて嬉しい領域なこと、「書くこと」に苦は感じないことを気づけた最近。
なのでまずは久しぶりに感じていることを言語化する練習も兼ねて、ちょこちょこ日記を書いていこうとかなと思っている所存です。

大学時代に勇気を振り絞って書いたブログほど、身近な人からの反応を得られるものにはならないかもしれないし、ならなくてもいいけど、日々の由無し事を語る日記が僕や誰かの『アクティヴィズム』に繋がる可能性もあるかもしれないしね。

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