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理解と感覚、知識とセンス

世界に対する解像度を上げたくて私はずっと知識を欲していた。

今日、村上龍のエッセイ、『すべての男は消耗品である。』を読んでいた。その中の「政治とチーズについて」という話が面白かった。ざっくりとまとめると、村上龍はフレンチレストランに行く度に料理に関する説明を受けるのにウンザリしているという話だ。村上は料理の調理法が重要なのではなく、単純にその料理が美味いか美味くないかのみが大切で、それを決めるのは調理法ではなく、村上自信であるから、説明にウンザリしているという話だ。

私はこれに共感した。私はファッションが好きだが、服を着てそれをいちいち説明するのはナンセンスだと思ってしまう。たまに自分もその服がどんな服なのかを説明してしまうが。いくら流行りに基づいたお洒落であっても、自分や周りの目から映るそれがダサいものであれば意味は無い。芸術は語るものでは無い。美は理解できる概念ではなく、美とは感覚するものだな、と思う。

しかし、私はセンスを渇望している。衣服が好きなのは昔からだが、最近センスを獲得するにはより広くより多くのスタイルを見ることが必要なことにようやく気づいた。より多くのスタイルを見て、自分に上手く取り込むことが手っ取り早くセンスを磨く鍵となるであろう。感覚と世間が求めるセンスが合致している人こそ天才であると思うが、私は非凡でセンスを磨くにはファッションについて学習するにほか無い。

私は美とは葛藤や渇望だとも考えている。恋愛に懊悩する女性は美しいのだし、自身の見た目に満足がいかずダイエットをしている女性美しい。美はフラストレーションから生まれるのだとも思う。フラストレーションを抱えたままに死んでいったカート・コバーンは永遠に美しい。そうした意味では、センスを渇望して学習しようとする私も美しいのかもしれないな。


知識の利点には、理解出来なかったものが理解出来るようになることもあるのだと思う。

これは感覚や美の話とは逸れ、自分の道徳の話になるのだが、私は世界に優しくありたいから知識を渇望した。知識がないと、わかってあげられない人の痛みがあるのだと思う。

例えば、病。この世には私の知らない病がいくらでもある。特に精神疾患に関しては、周りの人々が抱えていてもおかしくない病がありながらも実態の知らないものも多い。

私は善悪をその事象のみで簡単に判断してしまう傾向が嫌いだった。例えば凶悪な殺人事件であっても、その殺人鬼が殺人を起こすまでになんらかの原因があるはずだ。例えば、これまで受けてきた教育だとか疾患だとか。バックグラウンドまで目を向けて、事件が起こるまでの実態を調査して、今後二度と同じようなことが起こらないようにするには、我々は何をしていくのかを考えるべきだと考える。悪を悪のまま見過ごしていては、現状は良くならないと考える。

感覚的に美しく生きられたら、それは素晴らしいことだと思う。しかし、非凡で性格の悪い私は知識を渇望し、葛藤しながらセンスを磨いて優しく生きていくにほかないのだ。

自分にはまだ理解できない美もあるのだしな!

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