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エゴイストを観て想う

※ネタバレしてます。
少し今更感があるが、エゴイストを観てきた。

観終わった後、なんとも処理しきれない感情が渦巻いた。
エンドロールの初めに表示された『エゴイスト』という本作品のタイトルに直感的に違和感があったのだ。エゴイストなどと言われなきゃいけない登場人物はいなかったと思った。それに死に向かう龍太の母の側に居る浩輔の気持ちを(勝手に)引きずってしまっている。
それらが混ざり合い独特の重量感を得て胃の辺りに重くのしかかっており普段わりと不感症の僕はすぐに処理しきれずにいる。

エゴイストというタイトルの違和感については僕はnoteの記事にその答えを求めた。公開自体は2ヶ月程度前なので多くの方の感想が見つかった。便利な世の中である。
どうやらエゴイストというのは主人公の浩輔自身が自分の行為が愛なのかエゴなのか葛藤していることについてという意見が主流のようだ。さらに調べると本作品は高山真さんという原作者の自伝的小説が元になっているということから高山さん=浩輔が自らのことをエゴイストと名付けたことになる。ふむふむと思いながらもまだ違和感があったが自分なりに考えて一定の結論がでた。

作中では、龍太母によって浩輔の行いは愛であると認められており、それが葛藤への答えになっているように描かれてはいた。
だが相手に認められたからと言って自分自身が真に納得出来るはまた別問題なのだろう。

特に龍太母へのお世話は龍太母ではなく龍太への愛の延長線なのか、早くに亡くなった自分の母親への愛の代償行為なのか、そもそも龍太への愛も龍太を通した母親への愛情の代償行為だったのか。
どこまで葛藤があったのかは浩輔本人じゃないと分からないことだと思うが、多分この手の葛藤は考えたら負けの類でゼロヒャクではないにしろ少しでもそう言った気持ちがあったり、きっかけがそのような気持ちであればたとえ真に相手を愛するようになっていたとしても心に暗い影を落としてしまうと思う。

リアリストの浩輔、もとい作者の高山さんは考えてしまう人だったんではないか。そうした愛情の中にあるエゴイストとしての側面をずっと捨てきれなかったんじゃないかな。
そう言った自分への皮肉も込めたタイトルなのかなと思った。個人的にこの皮肉というのがタイトルの理由として1番しっくりきた。

相手が亡くなった後でも葛藤しつづけていたとするととても救いがないが、龍太母の言葉を借りれば、(そんな葛藤なんて)いいの相手が幸せを感じてるのだから。ということが大事で、誰かを幸せにする愛や善意にエゴだの偽善だのと腐すこと自体、自分からであれ他人からであれ跳ね除け、無視することが幸せなのかもしれない。
そういったことを抱えて、飲み込み、受け入れてこその人生とも言えるが。

正解なんてないのだろう。

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