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終戦のとき

※数年前、まだ祖母が健在だった時に書いたnote。祖母は今年の6月、90歳で亡くなりました。

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戦後73年。キジマ家で戦争を知っているのは母方の祖母だけになった。当時は15歳だったという。岡山空襲の日(1945年6月29日の午前2時)は赤磐の山の上にいて、岡山市街が真っ赤に燃えるのを見ていたそうだ。

まさか、こんな田舎の山は爆撃されないだろうという思い。それは岡山のような小さな街でさえアメリカからやってきた爆撃機によって焼き尽くされた、という事実を目の当たりにして吹っ飛んでしまった。その日は段々畑の横側を掘ってこしらえた簡易防空壕で過ごしたという。この時、はっきりと「日本は負ける」と思ったそうだ。

「生きているだけでありがたい」が口癖の祖母は当時の家族の事を話してくれた。父である曾祖父や、まだ出会う前の祖父の事だ。

曽祖父はこの時30代半ばだった。大工を生業としていたが「戦争には行きたくない」とわざと高い所から落ちて足を骨折し、招集を免れたという(その後遺症で、ずっと左足を引き摺っていた)。醤油を一気飲みして寝込み、戦争を回避した人の話を聞いた事がある。そういう人は少なくなかったのではないかと思う。

しかし周囲の目はどうだっただろう。その辺りの突っ込んだ話は聞く事が出来なかった。曽祖父は典型的な昔気質の保守人で、亡くなるまでずっと「朝鮮人」や「被差別者」を忌み嫌うレイシストでもあった。

どこかで戦争に対して腰が引けたというコンプレックスを持っていたのかもしれないし、戦前の価値観というものを考えると「日本はアジアの頂点である」という驕りがあったのかもしれない。母はそんな曽祖父を嫌っていたという(飼っていたインコの羽を切ってしまって猫に食べられた恨みもあっての事だろう)。

一方で、曽祖父は近所に暮らす風呂釜のない貧しい家の者を自宅に招き入れて入浴させたり、自家用車でドライブに連れて行ったり、面倒見のいい所もあったという(農地改革で政府に大半の土地を没収されたものの、それでも地主であり、その土地では裕福だった)。

洋ガラシとバターを食パンに塗ってトーストし、ハムとレタスをのせて食べるという朝食を戦後すぐに取り入れたハイカラな人でもあったようで、多様な食文化を取り入れるという伝統は今のキジマ家にも受け継がれている。

母は嫌っていたが、俺は曾祖父の事が好きだった。大抵の人がそうであるように、曾孫には優しい、ひたすら優しいだけのジジイだった。工作や手芸が得意で、マールボロの箱やスーパーのチラシで傘や手毬などを作ってくれた。いまでも俺は形見としてそれを持っている。だから曾祖父が死んだ時は涙を流した。確か10歳の時だったと思う。俺はそれ以来、誰の葬式でも涙を流した事はない。

祖父は当時16歳。5人兄弟の末っ子であったが、国鉄で働いており年齢も若かったことから招集は免れた。4人の兄は「適齢期」であったが誰一人として招集される事はなかったという。実家が町会議員をやっている名家(祖父は婿養子でキジマ家に来た)であり、その事が少なからず影響していたのではないか、と母が言っていた。

だからなのか、祖父が戦争の事について語る事はなかった。殊更に日本軍の勇猛さやカミカゼの儚さ、美しさを語る事もなければ、当時の政府を痛烈に批難したりすることもなかった。信仰もなかった。貧しくなってしまったキジマ家の、つまり足が悪く働けなくなり、遊び人になった曾祖父の代わりに大黒柱としてただ働いて、農作物を作り、二人の娘を育てた。

そんな真面目一徹の祖父だった。誰に聞いても「忍さんは本当にいい人だった」としか言われない人だった。もちろん、俺に対しても優しく、気のいいジジイだった。一緒に風呂に入った時、筋肉のごつさに驚いた。戦後を肉体労働で生き抜いた男の体だった。但し手先は器用ではなかったのでモノづくりをするという趣味はなく、俺は祖父が作った何かを形見として手にする事は出来なかった。

親戚が誰も戦争に行かなかったというのはいい話ではあるけれども、心中は複雑だ。代わりの誰かが行った、という事だからだ。戦争に駆り出されるのはいつも若者と貧乏人、そして権力を持たぬ者だ。

以上が、俺が受け継いだ戦争体験だ。キジマ家は誰一人として戦争に行っていないし、空襲で死者を出してもいない。しかし、だからこそいまの俺があるとも言える。子供にはまだ早いが、この話はいつか必ずしようと思う。

岡山市に対する爆撃は「不意打ちの無差別爆撃」だった。空襲警報を鳴らす間もなく多くの死者を出した。いまの天満屋があるあたりの被害が最も大きかったようだ。もともとこの空襲は陸軍兵舎や鉄道操車場などの軍事拠点を狙ったものだった。

しかし、実際には一般市民が多く集まる場所に焼夷弾を落としたのだ。その真意はわからないが、アメリカ軍の所業は悪辣としか言いようがない。戦争において非戦闘員である一般市民を攻撃して死に至らしめるのは、明確なハーグ陸戦条約違反だ。しかし、彼らはそれをやった。狂気だ。戦争にルールはない。人を殺していいとなったら、なんでもありなんだ。結局そうなるという事だ。

そして1945年8月15日、終戦。広島・長崎への原爆投下は戦争終結を早めたというが、本土が無差別に爆撃された時点で勝負はもう決していたのではないか。原子爆弾投下は新兵器の威力と影響を計る「いい実験体」だったのではないかという思いは強くなるばかりだ。

アメリカというのは本当に恐ろしい国だと思う。彼らは勝ち続けてルールを作ってきたし、ルールを破ったりもした。我々が世界の警察だ、と。共産主義を殲滅して、民主主義の世界を作ると。それは後に朝鮮戦争やベトナム戦争へとリンクしていった。俺はそういうアメリカの国家としての傲慢さが嫌いだ。

しかし、そんな無法行為を繰り返す中で内側から生じた歪みがボブ・ディランやリズム&ブルース、ヒップホップ、それにアメリカン・ニューシネマという文化を生んだというのは皮肉な話だ。それが世界を変えたかどうかはわからない。たぶん変えてはいないだろう。けれども、俺はそんなアメリカの音楽や映画、それを許容する自由さが好きだ。

あるラッパーは「ヒップホップは差別や抑圧や戦争がなければ生まれていなかった。けれども、それがなくなるならヒップホップなんかなくてもいいと思っている」と言っていた。その言葉はとても重い。音楽という文化がどのような背景で生まれ、ポピュラー化してきたか。俺はその歴史を学んできた。戦争がなければ生まれない音楽は確かにあっただろう。そして、アメリカが未だにあらゆる文化の中心であるというのは、そういう事なんだろう。

終戦記念日は「そういう事」について深く考える日となった。ただ一つ言えるのは、世の中の歪みに気が付くのはいつも弱者だという事だ。そして表現は弱者の武器となるものだった。そこに肌の色や出自や言語は関係ない。だからこそ表現は易々と国境を超えるのだと思う。それが理解できなかったり信じられなかったりする人たちが、国家や国籍というつまらんものを盾にして、つまらん争いを起こしているんじゃないか、と言ったら少し青臭すぎるか。

俺の曽祖父は、身内には優しい人だった。けれども、そうでない人を排斥しようとする一面も持っていた。家族とその仲間という狭いコミュニティを幸せにする一方で、知らない誰かや立場の弱い者を深く傷つけていた事だろう。戦争を「ズル休み」しても愛国心を持ち続け、86年の生涯を全うした。終戦のとき、そして不自由な足で過ごしたその後の長い余生。どんな気持ちで生きていたのか、わかりたい。

そんな事を思いながら墓を掃除していた。

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