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歌舞伎町ペーパー・ボーイ:最終話

一枚の写真がある。

オレが心から笑っている数少ない写真の一つ。新宿のタイガーマスク、ダーハラさんとの2ショットだ。新宿タワーレコードの看板にもなった名物おじさんの働く店が、オレの勤める新聞販売店だった。いつも陽気でニコニコして、気前が良かった。休日はローリングストーンに連れて行って貰ったりした。 オレが配達で下手を打って怖い人に呼び出された時も一緒に行ってくれて、事を収めてくれた。 そうそう、オレがアカネちゃんに振られた時も

「彼女はいい女だったな!でも、お前にはもっとふさわしい、いい女が待ってるからな!気にするんじゃないぞ!」

と言ってくれた。そんな言葉のひとつ一つがなんだか嬉しくて、オレはその後も新しい彼女が出来る度にタイガーに紹介した。

「おまえはいつもいい女を連れていて羨ましいよ!」
「でも、俺は新聞配達が恋人みたいなものだからな!」

そして、別れ際にいつも言ってくれる言葉があった。

「おい、キジマ!おまえはいつまでも俺の親友だからな!」

ワハハハと笑うタイガーは、オレのことをいつも親友と言ってくれた。寂しがりやな人だという事はすぐにわかった。酒に酔った時のタイガーはそんな一面も見せた。けれども、オレはタイガーに親友と呼ばれて誇らしかったし、時間が合う時はあの格好のまま一緒に遊びに行った(というか、タイガーはあの格好以外持っていないのだ。本当に)。

新宿で新聞を配って50年。あの奇抜な格好は、ダーハラさん曰く“縁日でタイガーマスクのお面が気に入ったから”だそうだ。目立つことが大好きなタイガー。最初はヤクザに目をつけられたり大変な目にも散々遭ったそうだが、今では名実共に新宿の顔。そっちの世界の人すらも一目置く存在になっている。浄化作戦が施行されるまでの歌舞伎町の集金は、タイガーでなければ数字を達成できなかった。2018年には、なんと「新宿タイガー」というドキュメンタリー映画にもなった。


ボーン・スリッピー

オレは新聞屋を1年早く退店した。

デザイン事務所に就職が決まったのだ。同じ釜のメシを食う仲間にとって、“早く上がる”というのは“イチ抜けた”というのと同じ意味である。当然、みんなも複雑な気持ちだっただろう。それが原因で疎遠になってしまう人も確かにいた。でも、それは仕方のないことだ。オレはもう次の目標を見つけてしまったのだから。

ジュンジはいつも連んでいたし、オレの気持ちも行動も理解してくれていた。それでもやっぱりオレたちはライバルでもあったから、内心は複雑だったみたいだ。でも、男同士ってそういうものだしな。オレが引っ越す時も「だりぃ」って言いながら手伝ってくれたマイメン。いつまでも同じ釜の飯を食った友達だ。

スズキはオレが1年早く「上がり」になった事に驚き、憤慨していた。出し抜かれた気分になったんだろう。夢を持ってここに来た奴ならみんなそうだけど、どんな道に行くにしてもここで燻るよりはマシだと思っていた。

中でもこいつはプライドの高い奴だから、いつも自分が一番だと思っていたし、そうでないと気が済まない性格だった。オレたちもスズキの才能を認めていた。音楽に関してだけは本当にマジメで努力家だったからだ。いつも寮の3階の部屋でアンプにギターを繋いで練習していた。忘れてもらっては困るが、オレ達の部屋の仕切りはベニヤ板一枚だから、その音は隣の隣のマンションまで響いていた。だから住民の皆さんからは大変な怒られが度々発生していたが、オレたちはその音をもっと間近で聴きながら「うるせぇなぁ!」って言いつつ、唯我独尊だけどストイックな奴の姿勢を応援してもいた。

性格は随分難ありだったが、裏表のない気持ちのいい男ではあったから、最後には「おめえ絶対負けんなよ」と言ってくれた。

スズキは後にメタルの超技巧ギタリストとしてプロデビューし、スタジオワークの方面で落ち着いたらしい。その後のことはわからないが、オレが退店した翌年、店の奨学生受け入れは男子のみ採用、学生寮も女人禁制となった。スズキが女の子を連れ込みすぎてトラブルが多発したからだ。

余談だが、スズキがそんな調子なので、他の連中もその騒音をいいことに他の部屋に女の子を連れ込みまくっていた。多少の声はギターの轟音にかきけされて聞こえないだろう、というのがオレたちの考えだったが、結果としては女の子と声とギターの轟音がライブミキシングされるだけ、という地獄絵図ができあがっていた。

ジンナイさんは最後までオレが新聞屋を辞めること……というか、それよりも音楽でメシを食うという道を諦めることに反対していた。5つ上のパイセンは、オレが半年で辞めた学校のギタークラフト科を卒業した後も工房には就職せず、この店で専業をやりながら音楽に対してストイックに向き合い続けてきた人だった。だから、その気持ちは痛いほどよくわかった。

ジンナイさんは新聞屋にいる間、そして辞めてから暫く経ってもオレの兄貴分で、精神的支柱でもあった。音楽についても、音楽に向き合う姿勢も一番影響を受けた。人生唯一のメンターと言ってもいい存在だった。

当時から「オレはミュージシャンだから」と強い意志を持って音楽の道を追求したジンナイさんは、そのまま新聞配達を3年勤めた後、イギリスでそのミキシング・ダブが評価され、シングルを1枚切った。今でも別の仕事をしながら現役で音楽を作ってライヴをしている。あれから20年以上経ち、俺も再び音楽のフィールドで活動するようになった。ジンナイさんとは、いつか一緒にやれる日が来ると思う。

フカツさんはいつもの気が抜けた調子で「へぇ〜。すごいじゃん。みんな何者にもなれずに田舎に帰っちゃうのにねぇ」って言いながら、もそもそと飯を食っていた。1個上だったフカツさんは学校の卒業を控え、オレとほぼ同じタイミングで退店する予定だった。あまり他人に興味のない人だったけど、騒ぎばかり起こすオレら世代の事を「ちょっと羨ましいかな」とポツリ言っていたのを今でも覚えている。

オレは密かにフカツさんがこの店出身第一号のプロ・ミュージシャンになるんじゃないかと思っていたけれど、その後そういう話は聞かない。

オーナーのキョウコさん。俺が新聞屋を辞めてしまうことに最初は反対していたけれど、オレが就職という結果を見せることによって納得してくれた。いつもキレイでシュッとしていたジュンコさん。オレが頑張ってオシャレして出かけようとすると毎度のように

「キジマ君、そんな格好イモっぽいよ!」

と厳しいダメ出しをしてくれた。オシャレしてんのに「イモっぽい」って最低に恥ずかしい言葉だ。バカだから「イモ」っぽくならないようにするにはどうしたらいいか真剣に考えた。社長令嬢のジュンコさんは異質な存在だったけど、何事にも芯があって、一番身近な「セレブ」でもあった。いわゆる「都会っぽくて洗練されてる」ってどういうことかをライフスタイルから教えて貰った。

おかげでオレのファッションセンスは1年でだいぶ都会的になった。店を辞めた後、何度か挨拶に行ったけれど、「キジマ君はいつもオシャレだね!」と言ってくれるようになったのは嬉しかった。いまでも時々「イモっぽい」という言葉を思い出す。それはオシャレだけではなく、生き方がどうかって話かもしれなかった。キョウコさん。今のオレ、イモっぽくないですかね?

ミクニさんはいつもの調子だった。

「あんた、しっかりゴハン食べんといかんがやきー」

わかってますよ。がさつだけど、いつもいつも気を遣ってくれてありがとう。ミクニさんも元気でね。でも、やっぱりパンに「ごはんですよ」は合わないと思うぜ。

オレが働いていた当時からもうお婆ちゃんだったから、その後の話を聞くのは怖い。知っているのは数年後に店を辞めて歌舞伎町の古いマンションの部屋を買い、旦那さんとのんびり暮らしているということだけだ。そのマンションもとっくに取り壊されて、今は新しいビルが建っている。

あー、それとカワグチさん。あれ、オレが辞める時いたっけな…?いわゆる典型的な新聞屋のカタブツ親父で、オレたちとの揉め事が絶えなかった。ホントによく喧嘩したな。特にヤリチンのスズキと折り合いが悪くいつも小競り合いをしていた。女の子をすぐ連れ込む事についてはスズキが悪いと思う。後はカワグチさんが悪い。

でも、ちょっと気の毒なオジサンだったな。オレたちみたいなクソガキがよりによって問題ばかり起こして、周辺住民の方々には怒られっぱなしだった。あんな住宅街のど真ん中でスケボー遊びをして大変な怒られが発生した事については完全にオレが悪かったと思う。

この店が良くも悪くも盛り上がったのはオレらの代だけ、という事だったそうだけど、連中がいなくなってようやく静かになった店にはカワグチさんの居場所もなかったらしい。聞いた話によると、数年後、店のオーナーであるキョウコさんに追い出されたとの事だ。

そして、最後にタイガーマスク。ダーハラさんはオレを気持ちよく送り出してくれた。新聞屋を辞めてしまった後も、新宿に行った時はいつもタイガーマスクの姿を探した。そして何度かはその姿を見つけて、一緒にお茶を飲んだりした。ダーハラさんは携帯電話を持たず、連絡手段はポケベルだけだった。それを鳴らして呼び出すよりも、夕方の新宿3丁目でウロウロした方が早く見つかる気がして、ポケベルを鳴らしたことはない。

10年ぐらい後の話だけど、クラブで一緒に遊んだこともある。ジンナイさんがプレイする日だった。この3人は特に仲がよかった。何年経ってもタイガーはタイガーのままで、親友と言ったオレのことを忘れたりはしなかった。

最後に会った時くれた映画のチケット。ちゃんと2枚。でも結局1枚しか使わなかった。

“人生は山あり谷あり。ライク・ア・ローリング・ストーンってな”
“俺のこと、忘れるなよ。ユー・アー、マイ・フレンド”

ダーハラさん、いつまでもお元気で。

「おまえには才能があるよ。岡本太郎しってるか? 芸術はバクハツだってな。ワハハハハ」

…オレにとっては、タイガーの生き方そのものが芸術ですよ。

ダーハラさんは怪我を乗り越えて、今もライフワークである新聞配達を続けている。

フレッシュネスバーガーで始まった話だから、フレッシュネスバーガーで締めようと思う。当時、6万8千円の月給だったオレとジュンジの楽しみは、月に一度のフレッシュネスバーガーだった。日清パワーステーションの裏手にある緑色の看板。そこに行く時は二人とも割と小綺麗な格好をして、すかした顔でベーコンオムレツバーガーを食った。あの瞬間、オレたち二人は都会人であり、東京人そのものだった。笑っちゃうよな。キョウコさんにイモっぽいと言われても、それがオレたちの当時の精一杯だった。

学校も辞め、ぽっかりと空いた穏やかな午後。 将来の事とか何にも見えてなかったけど、オレの原点ってあそこなんだよなぁって思う。こんな生活から早く抜け出してえなってエネルギーと、こいつらといつまでもつるんでいられたらっていう仲間意識と、色と、恋と。まあ、色も恋もうまくはいかなかったけど。

どんなにいい思い出も、書いておかないと忘れてしまいそうなので。

おわり

歌舞伎町ペーパーボーイ:6

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