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自分を見つめる手帳 / : 2022.1.17~23


「大人になってもさ、子どもの頃したかったことはしていいんだよ」
   

子どもの頃それが出来ていたなら、きっと今の何百倍も楽しかったんだろう。でも、過去は戻らない。だけど、後悔するのは勿体ない。

近頃、連日ゲームに勤しんでいる。仕事より仕事のように励んだポケモンパール、図鑑完成まであと3匹────。( ノズパスとパッチールが永遠に出ません )




「"冷静な自分"というお化け」

生きてるとさ。「あー、全然やりたくないけど、今こうしておいた方が絶対あとで有利だよなー」「マジで楽しくないけど、この会合出ておいた方が人脈になるし…」みたいな、いわゆる打算って出てくるじゃん?

効率的に、生きること。
正解を選んで、近道を選び続けること。


「…はぁ、何のために頑張ってるんだろ、私」

そんな気持ちが出てくるのは、打算っていう小さな「嘘」の積み重ねのせい。自分の意思や欲望じゃなく、「コウシテオイタホウガイイヨ」って、自分の顔を借りた別の誰かの言葉。



コウシテオイタホウガイイヨ、と囁く自分はさ、誰なんだろうね。一体、いつからそこに居たんだろうね。
「生きる」ってことに立ち返ってみるとさ、その言葉がどれだけ虚しく、そして自分という存在を貶めているかが分かると思う。

  

"アナタノ意思ヨリ、正解ノホウガ、価値ガアルヨ。"



「しなくちゃいけない、って思った時点で投げ捨てろ」



というわけだから、最近はこの「私」の顔をして喋る何かを、見つけ次第ぶん殴ることにしてる。本当に、ワニワニパニック状態。気を抜くとすぐに頭を出してはとやかくやんや言ってくる。


『そっかぁ……人生って、正解じゃなくてもいいんだね』

友達が、涙ぐみながら言った。当たり前じゃない、だって私たち、ロボットじゃないんだよ。正解を叩き出すために生まれてきたわけじゃないし、当たり前だけど、人生のゴールは死しかない。100%のデッドエンドなら、その本質はそれまでの過程にしかないし、もちろん、絶対的な幸せもない。

仮に「幸せになるために生まれてきた」のだとしても、「幸せになるための正解」を選ぼうとした瞬間、幸せは遠ざかる。それは、「幸せそうに見えるもの」であって、「幸せ」ではないから。


テストで100点を取る。会社でいい評価を貰う。いい人だねって、親孝行だねって、美人だねって、順風満帆だね、お金持ちだね、フォロワーが沢山いるね、って。

恐ろしいのは、いつしか自意識が「コウシテオイタホウガイイヨ」に入れ替わってしまうこと。人生が、"ほんの少しだけの「やりたい」と、大部分を占める「シテオイタホウガイイ」"になってしまうこと。
主人格が、自分だと思い込んでいる何かに知らぬ間に取って代わられていて、「コウシテオイタホウガイイ」が、「したい」だと思い込んでしまうこと。

…結果、「ヤリタイコトガナイヨ」が生まれる。さながら、悲劇のキメラみたいになっている。( ウオノラゴンみたいに )
    


そんなのはもう、「自分の人生」でもなんでもないよ。空恐ろしい話だけど、都市伝説でも何でもなくてさ、それが日常になってるんだ。


「あなたはいったい、だれ」

話していると不安になる人が少なからずいるんだ。話していて、すごく怖い。「この人は、私に何かしらの"正解"を求めている」のが分かるから。「私」と話したいんじゃない、私の中の、「コウシテオイタホウガイイヨ」という何かと話したいんだ。


そういう時はね。全速力で、逃げるのよ。




「それはほんとうにさ、純粋な欲望?」


話は少し逸れてしまうけど。最近、ポリッシュがすごく好きなんだよね。…正直に白状する。少し前までポリッシュって、ジェルネイルの下方互換だと思ってた。

ジェルの方がお金もかかるし、なんて言うのかな、ある種のステータスみたいな部分もあるじゃん? 私ちゃんと指先までお金かけてます、サロンに通ってます、みたいな。
初めてジェルネイルした時の感動は忘れられないけど、いつしかどこか惰性になっていてやめちゃった。でも、たまに指先までばっちりキメた人を見ると、いいなぁ憧れるなぁと思ってたのも事実。


でも、少し前に気付いてしまった。ジェルよりずっと寿命の短いポリッシュだからこそ、逆に自分の気分を大事に出来る優れ物じゃん、って。「ジェルより断然ポリッシュ派!」ってプロフに書いてる素敵なデザイナーさんを見かけたのもそう思えた一つのきっかけ。


「多くの人はそっちかもしれないけど、私はこっち!」って言うだけで、大切なことに気づかされる人は意外と多いのかもしれない。



そしてそういう人達は皆、さっきのカタカナの住人じゃないから、存在してくれていることに心底ほっとする。深呼吸が出来るようになる。

  


「ああ、私、怖かったんだ」

 

大人になって、素直に「怖いです」と言いづらくなったと思う。怖いことより勇猛果敢なことが素晴らしい、とか。今更そんなものを怖がったって過去のことじゃない、とか。

いくつになったって、怖いものは怖い。幽霊に本気でビビるおじいちゃんとか、愛おしいじゃない。何かで昔読んだ、「トラウマの一つもまだ持っていないガキじゃないか」ってフレーズ。怖いものを怖いって素直に言えることは、きっと、まわりまわって、愛されるってことなんだと思った。


さっき話した、その人そのものじゃなくて「コウシテオイタホウガイイヨ」の人。それは時に、「ナンデコウシナインダ!」のこともあれば、「コウシテアタリマエデショ」のこともある。とにもかくにも、人の皮を被った正しさの権化みたいな人を、昔は「苦手」とか「嫌いなのかな」って思ってたけど。



……怖いんです。ほんとうに。お化けに遭うより怖いかもしれない。遭ったことないけど。だって危害を加えてくるから。怒鳴ったり、無理やり私を矯正しようとしてくるからね。


これを「怖かったんだな」と気づけたのは、ほんの少しだけ、私の中で前進したことだなと思う。



「自分だけは、自分の味方でいる」


私ね、この言葉が今も全然分からないんだよ。何があっても自分だけは自分の味方でいてあげよう、とか。自分くらい自分の味方じゃなきゃ可哀想、だとか。


味方以前に、既に常に敵なんだ。それは私がずっとずっと、「コウシテオイタホウガイイヨ」が自分だったから。もちろんそんな自覚はなかった、自分の自由に生きてると思ってた。好きな服を着て、好きな物を食べて──────でも、どうやら違ったらしい。好きな服を選んでるつもりで、「似合うかどうか」「どう見られるか」が無意識に入り込んでた。
ブランディングとか。好きな食べ物を食べてるつもりで、「ヘルシーな方がいいよな」とか「こんなの食べたらよくないよな…」があった。さっきのネイルの話と一緒。


気づけないんだよ、それを自分だと思い込んでるから。だから何かミスをした時、その「ジブン」は、決して自分の味方なんかしてくれない。「ドウシテコンナコトモ出来ナインダ」って責め立てる。そして「オマエハアレモ出来ナカッタ、コレモ出来テナイ」って過去のことまで引っ張ってくる。些細なミスは、気付けば人格否定に及ぶ、そんなことが毎日何度も何度も起こっては落ち込む。自由に生きてるはずなのに、自己肯定感がマイナス50億。「何で?」ってなる。こんなに私は、”ワタシラシク”生きてるはずなのに。


楽しく遊んでる時も、それはずっと言い続ける。脳内で喚き続けるんだ。「ソンナコトシテナンニナルノ」「ジンセイヲ無駄ニシテル」「時間ヲモット効率的ニツカイナサイ」。ゲームなんてしてる時は本当にうるさかったから、私は今積極的にゲームをしまくっては、こいつとピコピコ対決している。そしてこれ自体を少しゲームのように思えるくらいには、ぶん殴ることに最近少しずつ成功出来てきている私がね、ちょっと誇らしいんだ。

今年はね。こいつをとことんやっつけて、主人公の座を取り戻す年なの。30年の君臨に、終止符を打ちたいと願ってる。






……よし。アルセウス発売するまでに、パールのポケモン図鑑コンプするぞ!!!

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