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自分を見つめる手帳 / : 2022.2.14~2.20


新幹線からブログを投稿、だなんて昔はそれだけでなんだかわくわくしていたけれど、むしろ家で綴るより呼吸がゆったりな穏やかさに、歳を重ねてよかったなと思いながらまた一週間を振り返る。

・もっとミクロな世界でいいんじゃない



ネットが世界を広くしたから、希望より絶望が大きくなった気がする。
  
  

小さい頃、遠い国の貧困問題を思って酷く憤ったのを覚えている。この国にはこんなに食物があるのに。水も電気もあるのに。大人たちは一体何をやってるんだ。なけなしのお小遣いでせっせと寄付をした。使っていない部屋の電気は片っ端から切りまくり、水もできる限り節約した。募金振込の紙と共にアムネスティの月刊誌を社会の先生に貸した。振込紙はそのまま戻ってきた。一人憤慨した。少ないお小遣いの私と違って、大人はたくさん、お給料を貰ってるのに。どうして。

今私はそんな、憤っていた対象の大人になっている。寄付出来るはずのお金で服を買う。コスメを買う。どれだけ寒さが苦手でも意地でもストーブをつけなかった私が、今や呆れるほどに暖房を入れている。かつてはお金がなくても自分を愛せていたけれど、自分の為にお金を使うことが愛になることを知るのが大人なのかな、等とふととりとめもなく思うことがある。
   
   

うつ期に時々パニックになっていた症状は今もまだ少し残っている。パニックになるのは決まって、自分が世界を処理し切れない時だ。やることが一気に押し寄せて、管理限界を超えた時。マルチタスクが壊滅的に苦手なんだ。パニックまでは行かなくとも、途端に苦しくなることがある。それは、見えているもののその奥にある広い何かに想いを走らせて、それが自分の許容を超えた時。例えば殺人のニュース。この人が殺人という行為に至るまでに一体どれだけの苦悩があったんだろう。リスナー心無いコメントを見て何を思うんだろう。私は少なくとも傷付くよ。

大切なものは目に見えないけれど、それはとてつもなく「おおきい」んだ。途方もなくて、とても一人の人間じゃ処理し切れない。だから大人は見切りをつける。ここまでが私の世界、とする。善悪のラベルを貼って0と1の世界に叩き込む。私はそれがすごく苦手だ。大人になりきれないと、涙を堪えてテレビに背を向けた。もう10年近く、テレビを家に置いていない。
   

一体、人間におけるこのキャパを広げるにはどうしたらいいんだろう、要はそういう問いになる。一人のキャパが広がれば、総括出来る世界は広がる。君が笑えば幸せが広がる、シンプルなコカ・コーラみたいに。苦しさに耐えながら踏ん張ったって限界が訪れる。だけど目に見えないものをないものとして扱ったなら、私の中の子どもの私が私自身を見限ってしまう。
   
  

大切なものは目に見えないからこそ、目に見えるものを大切にしなくちゃならないんだ。目の前に居てくれる人の笑顔。SNSの1万いいね!より、一瞬のそれを大事にしたい。ピロンと音を立てるLINEより、電話越しの相手の言葉に耳を傾けること。そんなキャラじゃない、って架空にある思い込みより、心の中に沸いた「ありがとう」を真摯に伝えたい。
   

だから多分あの王子様は、羊を"描いて"とねだったのかもしれない。言葉でなくあくまで絵に描いた上で、"ゾウをこなすウワバミ"の怖さを、筆者は知ってもらおうとしたのかもしれない。


・心の中の花畑 
  


ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てきた、"時間の花"を思い出す。それは時間と共に花開いて、果てない宇宙のとてもきれいな音楽の中立派に咲き誇り、そして振り子が揺れるに従ってゆっくりと枯れてはなくなってしまう。けれどまた、途方もなく美しい花が咲く。その一つひとつに、心から歓喜して涙を流してしまう程。子どもの頃、それが一体どんな花だろうと想像して、ついぞ想像し切れなかった。

そんな花が、一輪と言わず無数に、それぞれの人間の胸の中に咲き乱れているのだと思う。自分という花壇の中に。生まれた時から携えていて、ゆっくりと花が開く。そして多分、じっくりと時間を掛けて何か大事なものが「実る」のだと思う。

けれど周りが、特に周りの大人が、勝手知ったる子どもの花壇と足を踏み入れ整備を始める。ここにはもっとこんな花があったほうがいいだとか、もっと水をくれてやらなくちゃならないだとか。終いには元からあったそれらを根こそぎ抜き取って、どこからか切ってきた花を整然と植えてゆく。確かにそれは整った花壇だ。でもそれだけだ。そして後から植えられた花はどうしたって根付かないで枯れてゆく。大人になった時、自分の中の花壇は荒地みたいになっている。そんなもの、愛せるはずがない。元からあった花々が今どんな色で咲き誇っていたのかもわからないし、実りの季節はやって来ない。
  

自分がわからない、というのは、そういうことなんだと思って泣いた。


・てめぇの夢を私が叶えてやる
   

それでも何処かに自分だけの花の種や根っこが残っていまいかと探し回る。そうやって春を思うのが思春期なのかもしれないしモラトリアムなのかもしれない。

本来は自分の花を自分で愛おしいと思うはずなんだ、花を見たら誰しも綺麗だと思うのだから。そうして自分の願いを自分で叶えてゆくのだと思う。


叶えて貰えなかった願いは、今から叶えても遅くはない。そう思えたのは、あわてんぼうのサンタさんが20年以上経って私のところに来てくれたから。

小さい頃、食べたかったけれど食べさせて貰えなかったペロペロキャンディー
子どもの頃に夢見た大きさだけど、でかい!笑


「子どもの頃のみのりちゃんへ。夢を叶えてね!」

メッセージカードに書かれたこのたった一文に、去年わんわん泣いた。叶えてもらえたことが嬉しくて、叶えてもらえなかったことが悲しくて、今叶ったことの喜びと当時叶っていたらこの何百倍も嬉しかったんだろうという狭間の切なさで泣いた。ペロペロキャンディーに限らない。それでも子どもの頃の夢は、風船みたいにずっと漂っているものなんだと思う。風船より大切なものなんかあるもんか。その後私は夢の国で、馬鹿みたいに高い風船を買った。いい大人が片手に風船を持ってひたすら園内を手を引かれていた。笑っちゃうくらい幸せだった。


夢は、ずっと誰かに叶えてもらいたいんだ。その「誰か」に、大人になると「自分」が加わる。私もあなたももう、何も出来ない子どもじゃない。月に500円しか貰えない不自由な子どもじゃない。風船を見上げることを忘れちゃいけない。自分にとっての、"いい大人"でいようぜ。


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