国は火の車…でも、手厚い福祉


 ヒースは政権に着く前、賃金抑制による価格所得政策に見切りをつけ、通貨供給や金利操作を行うマネタリスト的アプローチや自由経済主義的方法をとることで、インフレや財政赤字を建て直すという考えを保守党党員らとともに進めていた。ヒースの閣僚として大蔵大臣に就任したアントニー・バーバーも、住宅補助や福祉予算の大胆な削減を行うべきだと考えていた。これに従えば、1975年までに10億ポンドを節約できるはずだった。
 ところが、失業率が増加するのを見た途端、ヒース首相の決心は揺らいでしまう。1972年、彼は年金を含む社会手当を増額するため、新たに250万ポンドを投入することを決めた。これが有名な「Uターン」と呼ばれるもので、ヒースの保守党内での信頼は失墜した。
 1974年、政権に返り咲いた労働党のウィルソン首相は、それまで通りの価格所得政策を踏襲した。そして、企業と組合が政府の設定した賃上げ幅の範囲内で交渉を行って締結される「社会契約」という政策を打ち出した。
 ゲームのような感覚で、なんでもすぐに労働争議に訴える労働者のカルチャーは続いていた。全国では相変わらず山猫ストが頻発していた。前述の通り、その要求内容は賃上げだけではなかった。工場作業員がトイレで用を足す際、トイレットペーパーを交換しようものなら、清掃作業員が「仕事を横取りされた!」と騒ぎ、ストに発展することも珍しくなかった。
 労働者たちは、常に自分の技能と社会的位置を意識していた。同種の組合員の待遇を絶えずチェックし、自分が少しでも損をしていると判断した場合、会社に要求を突きつけた。例えば、それはブリティッシュ・レイランド(BL)においても起こった。
 BLという会社は、今ではイギリス人にとっては笑い話である。同社は1968年、オースティン、MG、ジャガー、ローバーといったイギリスを代表する自動車ブランドが合併し、鳴り物入りで誕生した。
 しかし、肥大化したことが足かせとなってBLの運営は行き詰まり、75年に事実上、破産した。労働党政権は失業者増加を食い止めるため、同年、BLを国有化した。
 3年後、政府がBLに車を発注した時、完成までに恐ろしく時間がかかっただけでなく、届けられた車には30カ所以上の欠陥が見つかった。それらを修理させ、実際に運転し、窓ガラスを開けようとした途端、それが膝の上に落ちてきたという。
 そんな状態であるにも拘らず、国有化された後も、BLの労働者たちは自分たちはあくまでも熟練労働者(高度で複雑な作業ができる労働者)であり、「生産ライン作業員」と称されるのを不服としてストを行っていた。
 BLが国有化された1975年、失業者の数は120万人を超えていた。インフレ率は27%になり、毎日のように物価が上昇した。石油や食糧、トイレットペーパーが店頭から消えた。
 このような状況だったからこそ、労働党政府は福祉や公共サービスから手を抜くわけにはいかないと考えた。それは国家という倒産寸前の企業が、国民たる社員の福利厚生の予算を増やし続けているようなものだった。新たに20億ポンドの追加予算が計上され、各種手当や助成金、年金の増額などを行った。保守党は71年に最高所得税率を75%にまで引き下げていたが、これを83%まで引き戻すことで予算を充当しようとした。
 そんななか、1976年3月、60歳の誕生日を迎えて間もないウィルソンが、突然、首相の辞任と政界からの引退を表明した。その理由は公式には明らかにされていない。本人曰く、2年前の首相就任時から考えていたという。
 その僅か半年後、イギリスは国際通貨基金(IMF)に、同基金としては史上最大規模の23億ポンドの融資を申請することになる。イギリスは事実上、破産していたため、外貨準備高を用意できなかった。外貨準備高はポンドの通貨価値の下落を引き止めるために必要だった。ポンドの下落はウィルソンも察知していたはずだし、遅かれ早かれこのような事態になることは予測がついただろう。ひょっとすると彼は、67年のポンド切り下げに続く汚名を着せられることを避けたかったのかもしれない。
 60年代末から70年代にかけて失業者数が増えた背景には考察の余地がある。78年のデイリーミラー紙の一面には、20人の子どもがありながら定職を持たず、失業手当と家族手当で生活している男の記事が掲載されている。彼の懐に入る収入は週128ポンドになり、周囲からは「たかり屋」呼ばわりされていた。この男は教職か宗教関係の仕事しかしたくないと言っていたという。当時の失業者数の増加は、手当で生活することが1つの選択肢になったことと無関係ではないと思われるのである。

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