サッチャーを勝利に導いた労働者階級


 「不満の冬」は労働党政権に対する国民の信頼感を大きく揺さぶった。それでもキャラハン首相は、よもや保守党に支持率を奪われるなどとは思っていなかったようだ。対立候補である保守党の党首がマーガレット・サッチャーだったからである。
 キャラハンは首相に就任する前、蔵相、内相、外相の3つの閣僚ポストを歴任した経験豊かな政治家だった。一方、サッチャーは1970~74年のヒース内閣での教育相の経験しかなく、未知数が大きすぎるとみられていた。女性であることも相手を油断させた。保守党の古株たちもサッチャーを、たまたま前政権で失敗したヒースの後を継ぐ適当な候補がいないため、相応しい党首がみつかるまでの「つなぎ」程度にしかみていなかったところもある。彼ら自身、よもやサッチャーが選挙に勝つなどとは思っていなかったのである。
 サッチャーの勝利と改革を理解する上で、1970年代がどのような時代であったかを知ることは欠かせない。それが、彼女自身のバックグラウンドとどのように呼応してきたかということも重要な手がかりとなる。
 後に結婚してマーガレット・サッチャーとなったマーガレット・ロバーツは、1925年、イングランド東部、リンカンシャー郡のグランサムという町に、2人姉妹の次女として生まれた。両親はともに労働者階級の出身で、父親のアルフレッドは靴職人の息子、母のベアトリスは鉄道員の娘だった。サッチャーの両親はともにメソジスト信者で、二人は教会の活動を通して知り合った。メソジストとはプロテスタントの教派の1つで、その名前は指導者のジョン・ウェスレーが集団で規則正しい生活に従って神に奉仕する「メソッド」を始めたことに由来する。
 アルフレッドは真面目でよく働き、町の人からも信頼され、町内に店を2店舗、構えるようになった。議論好きなリベラル(自由主義者)の彼は、教会の活動から政治の世界に入るようになり、市議会議員を経てグランサム市長になった。
 そんな父との対話を楽しみ、彼の背中を見て育ったサッチャーは、後に「人生を始めるにおいて、私には2つの利点があった:お金がなかったことと、良い両親を持ったこと」と語っている。質素倹約や勤勉であることは、ごく自然に彼女の人格の一部になった。17歳ぐらいまでには、自分が理想とする基本的な信念や考え方が形成されていたという。
 サッチャーは奨学金を貰って名門女子校に入り、そこで級長も務めた。1943年、オックスフォード大学に合格。ここでも奨学金を得て化学を専攻した。オックスフォードに入ったのも、女性として大学に進学したのも、家族や親戚のなかでは彼女が初めてだった。もちろん両親はたいそう喜んだ。
 ところが、国の最高学府に入り、エリート・コースを約束されたはずのサッチャーは、皮肉なことに、そこで人生初めての壁にぶち当たる。
 今ではほぼ半数の学生を女子が占めるオックスフォード大学も、当時は受け入れる女子学生の人数を制限し、その割合は20%にも満たなかった。そこは男たちの居場所だった。しかもその大半はパブリック・スクール出身の裕福な男子で、サッチャーは嫌が応でも彼らのスノバリーと自分の育った環境の違いを絶えず意識させられたはずである。彼女は真面目で、どこか孤立した女学生だったといわれている。
 サッチャーは政治討論に関心があったが、政治家を輩出していることでも知られる大学の弁論組織、オックスフォード・ユニオンは、当時、女性の入会を認めていなかった(女性は1963年から参加することができるようになった)。代わりに、女性にも既に門戸が開かれていたオックスフォード大学保守協会に入ったサッチャーは、頭角を現し、会長に就任する。
 卒業後は化学者として一般企業に就職する傍ら、政治活動を続けた。1951年、ビジネスマンのデニス・サッチャーと結婚し、53年に弁護士試験に合格。その後、出産を経て、1959年、議員としての初当選する。サッチャーは34歳になっていた。
 サッチャーは自らの育った環境と経験に基づき、当時の社会の仕組みの中でもがいている人たち、努力や勤勉が正当に評価されていないと感じている人たち、自分の力を最大限に発揮してもっと豊かな暮らしをしたいと思っている人たちが潜在的に存在することを、直感で知っていた。
 1979年、イギリス国民のほぼ半数はカウンシル・フラット(低所得者層向け公団)や借家住まいだった。多くの労働者階級は、一生、自分の家を買うチャンスなどなかった。所有する財産といえば家具ぐらいで、自分の子どもも恐らく同じ運命を辿るものと決まっていた。『小さな恋のメロディ』のオーンショーもその一人である。ストが絶え間なく起こるのも、労働者階級の殆どがいつまで経っても貧しい低所得者で、行き場のないフラストレーションを抱えていたからである。
 サッチャーは、労働者階級が当然、中流階級の暮らしに憧れていることを知っていた。カウンシル・フラットの住人には、シングル・マザーや社会手当で生活する人たちが増える一方で、治安が悪化し、住み心地のいい場所ではなくなりつつあった。サッチャーは労働者階級が、出られるものならいつかそこを出て、郊外の一軒家で暮らしたいと夢見ていることを知っていた。労働者階級だって、自分の子どもに財産を遺したい、事業を始めたい、株を所有したい、いい車を持ちたい、海外旅行がしたいといった欲望があった。そうした欲求は制度の下に隠れていただけで、現実には沸々とわき上がっていたのである。
 二大政党制の下では、浮動票の行方が選挙の結果を左右する。コアな支持者は支持政党に留まるが、そこまで忠実ではない人たちは、自分たちが最も得をする政治を行ってくれる政党に投票するということを、サッチャーは知っていた。
 イギリスの政党はマニフェスト(公約)を宣言し、選挙に挑む。小選挙区制のイギリスでは、各政党は各選挙区に1名ずつ候補を出し、国民はそれぞれの候補者の政党のマニフェストに対して1票を投じるのである。
 1979年、「不満の冬」を経ていよいよ総選挙となった時、サッチャー党首は保守党のマニフェスト(公約)で、こうした労働者階級の渇望にどのように応えられるかという点を全面に打ち出した。「政治の真髄とは理論にあるのではなく、国民の皆さんがどのような生活を送りたいかということにあるのです」という言葉で始まる。サッチャーはこのなかで、カウンシル・フラットの貸借人にそれを買う権利を与えること、相場価格や家賃、居住年数に応じて算出した金額から3~5割引の値段で購入することができ、頭金なしでローンを組むことができるという公約を明示した。
 労働組合に対しては、サッチャーはマニフェストで断固とした態度を明らかにした。「働かざる者食うべからず」を信条としていた彼女は、やたらと労働争議に訴える労働者の勤務態度や習慣を非難した。
 サッチャーは既に50年代から、ストに参加して怠けているより、寧ろ働きたいという意欲を持った多くの組合員が潜んでいるはずだと感づいていた。1958年、彼女は「もしも個人がストに参加したくなければ、そうしなくてもよい権利を与えられるべきである。組合を規制し、個々の労働者の権利を守るべきだ」と言っていた。サッチャーは、個々の組合員が自由に自分の意志を表明できる環境を整えれば、組合の力を揺さぶることができると信じていた。
 それにはなんといっても、クローズド・ショップ制(雇用者が組合に入っていない従業員を不採用・解雇することができる)の改革が不可欠だった。そこで、過去5年間に組合員の投票によって可決された場合を除き、クローズド・ショップを禁止する公約を掲げた。
 さらに、それまで一部の人間だけが勝手に決めていたり、同意しないと解雇されると組合員を脅したりして行われていたストについて、組合員全員が事前に投票によって決めなければならないという規制もマニフェストに織り込まれた。もちろん無記名投票であるから、組合全体の正確な意志を反映するはずだった。組合からの抵抗を考え、政府が投票にかかる費用を負担することも明言した。
 ほかにも、労働争議の当事者ではない他の組合がその争議に協力・参加するセカンダリー・ピケの禁止や、組合がこれらのルールに従わずにストを起こした場合、損害賠償責任を負うという規制も提案した。
 現在、イギリス二大政党の選挙資金は、日本の自民党が一回の選挙で使う費用の5分の1ぐらいである。選挙にお金をかけない代わりに、イギリスでは戸別訪問が選挙活動として認められている。選挙運動中、サッチャー党首は労働者階級の家々を訪ねて回り、彼らと対話を続けた。彼女の新しい考え方に最も心を動かされたのは、生活を向上したいというやる気に満ちた熟練労働者たちだった。彼らは70年代の政治に不満を抱いていた。そんな彼らにとって、サッチャーは新鮮に映った。彼女とともに、新しいイギリスの未来が待っているという期待が高まった。
 こうして、保守党は浮動票を獲得することに成功した。それまで労働党に票を投じてきたはずの熟練労働者の11%と非熟練労働者の9%が、保守党側に転じたのだ。これは戦後最大の振れ幅といわれ、サッチャー率いる保守党は議席数を62席も増やし、大勝したのである。


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