第3章  サッチャーはイギリス社会のビッグバン    ペット・ショップ・ボーイズが歌う "Let's Make Lots of Money"


「今日という日は、ロンドンにとって、記念すべき日となることでしょう。イギリスはただの島国ではなくなり、ロンドンは10年以内にヨーロッパの首都となるでしょう。ここには他の都市にはない繁栄を約束するチャンスがあるのです。新しいロンドンは、勇気と知識、専門技術を持った人たちによって築かれるべきです」
 これは、1980年のイギリス映画『長く熱い週末』の主人公であるギャングのボス、ハロルド(ボブ・ホスキンス)が映画のなかで行ったスピーチの一節である。イースト・ロンドンのドックランズ地区の再開発に携わり、カジノの建設などを計画している。その発表をするため、テムズ川をクルーズするボートにゲストを招いてパーティを開く。背後にあるのは寂れた港湾地区で、人も車も殆どない殺風景な景色だ。集まったゲストを前にハロルドが行った挨拶は、80年代のサッチャー革命と新しい時代を予見するものだった。
 70年代に港湾作業員たちによる激しいストの舞台となったドックランズ地区の港は、80年代に入る頃には輸送貨物のコンテナ化とそれに伴う船舶の大型化に対応できなくなり、閉鎖に追い込まれていた。1979年に首相に就任したサッチャーは、81年、ドックランズ開発公社を設立し、この一帯の再開発に着手する。
 あれから30年、ドッグランズ地区は見違えるように生まれ変わった。倉庫街は住宅やオフィスにリニューアルされ、レストランが建ち並び、ロンドナー(ロンドン市民)憧れのトレンディなエリアとなった。この場所の大きな変化はサッチャー以前と以降のイギリスを象徴している。なにもかもが変わった。
 70年代のイギリスは今の北朝鮮のようだったという人がいる。鉄道も、バスも、電気も、ガスも、水も、自動車も、テレビも、ラジオも、電話も、生活必需品は何もかも国営だった。それらは恐ろしく官僚的で、非効率的だった。新たに電話を引くのに半年かかることも当たり前だった。
 変化の第一歩は、1979年、サッチャー政権の財務大臣ジェフリー・ハウによる為替規制の撤廃から始まった。それまでの政府は、イギリス人の海外への現金持ち出しや投資を厳しく制限していた。ハウは一回の海外旅行で1,000ポンドまで使えるようにし、上限10万ポンドの海外の不動産購入を許可した。
 国営企業50社もサッチャーによって民営化された。大量の資金を投入しても立ち直らなかった国営企業に失望させられてきた国民は、概してこれらの民営化に好意的だった。民営化は効率化を促進した。ブリティッシュ・テレコム、ジャガー、ローバー、ブリティッシュ・スチール、ブリティッシュ・ガス、ナショナル・バス・カンパニー、英国航空などの株が公開された。それまで株など買ったこともない人たちが株主となった。1979年のイギリス国内の株主の数は300万人だったが、その30年後にはその3倍になった。
 失業者を出さないために国営企業が抱えていた余剰人員が放出され、1979~81年までに200万人が失業したといわれるが、企業の生産性や効率性は増幅した。
 1982年には中小企業の法人税率が40%から38%に、83年にはさらに25%に下げられた。所得税の最高税率もそれまでの83%から60%に、最低税率の33%は30%に引き下げられた。最高所得税率は88年には40%まで下がった。
 起業家を奨励する様々なプログラムも導入された。上限4万ポンドの投資に対する税控除制度や、1981~87年に2万社近い企業に利用されたローン保証プログラムなどが生み出された。ビジネスを始めたいが収入のない個人に、1,000ポンドの自己資金とビジネスプランの提出を条件に、1年間、週40ポンドの手当を支給するという事業手当プログラム(Enterprise Allowance Scheme)も創設された。大成功したトレーシー・エミンのようなアーティストも含め、その後、32万人以上がこのプログラムの恩恵を受けた。これは今も新規事業手当(New Enterprise Allowance)という形で存続している。
 1979年以降、毎週500社の企業が誕生した。88年には総労働人口の11%が自営業となり、それ以前の30年間と比べて6倍も上昇した。サッチャーの時代以前には存在しなかったベンチャー・キャピタルは、87年には10億ポンドの経済価値を生み出した。
 サッチャー政権が行った労働組合に対する改革は効果をみせ、79年にストで失われた全労働日数が2,900万日だったのに対し、97年には10分の1以下の20万日になった。多くの企業の社員にとって、組合は縁遠いものになっていった。現在、全国的な組合を組織しているのは、教師、看護婦、地方自治体職員ぐらいである。
 70年代までのロンドンの金融街(通称「シティ」)は、男性のみが出入りする少数会員制クラブのような場所だった。競争は許されず、全ては委託売買を受け持つブローカー及び自己売買業のジョバーを通して行われ、インサイダー取引の温床でもあった。この閉ざされた世界に海外の投資家が入っていくためには、たいへん面倒な手続きを踏まなければならなかった。
 1986年の金融自由化(ビッグバン)は、取引所会員権の解放、固定されていた手数料の自由化、領域不可侵だったジョバー業とブローカー業の境界撤廃、コンピュータによる株式売買の無人化などをもたらし、時代遅れで国際的基準からかけ離れていたシティを刷新した。取引はコンピュータのモニターが並ぶトレーディング・フロアで行われるようになり、アメリカの投資銀行が一気に進出した。これに伴い、金融センターはシティから再開発されたカナリーワーフに移行した。
 英国産業連盟の会長ロジャー・カーは、80年代の産業革命がイギリス経済を倍増させ、経済成長の新しい領域を開拓したと言っている。製造業を破壊したとしばしば批判されるサッチャーだが、数字を見れば、彼女の時代には同産業の生産量は7.5%拡大している。イングランドに比べ、経済的には圧倒的に遅れていたスコットランドも、90年までには次々と新規ビジネスが生まれ、イギリス全土ではロンドンと南部イングランドに次いで最も経済的に豊かな地域になった。
 新聞や雑誌、テレビには広告が溢れ、英国製ブランドが増えた。クレジット・カードの利用やローンの借り入れが自由になり、消費者文化が定着した。サッチャーの公営住宅民営化(Right to Buy)政策により、100万軒以上のカウンシル・ハウスが住民によって購入された。
 1986年のデイリー・エクスプレス紙の一面は「イギリス人でいることは、ますます素晴らしい」と題し、この国がかつてないほどの繁栄を享受していると書いた。87年、同紙は「イギリスは好景気」と報じ、株価は上がり、建築ラッシュ、自動車、化学、石油会社なども好調であることを挙げ、「未来はバラ色」と結んでいる。この年、サッチャー首相は、イギリスは英国病を克服し、強い経済大国に変貌したと宣言している。
 1981年から活動を開始したイギリスのミュージシャン、ペット・ショップ・ボーイズはサッチャー時代の申し子といえよう。彼らが85年にリリースしたシングル『オポチュニティーズ』は、80年代のイギリスの若者のフィーリングを歌っている。
ろくでもない人間と悪巧みしたり
時間を無駄にするのはもう沢山だ
外に駐車した車は壊れて動かない
僕はパートナーを探してる
車を修理できる誰かを
君に質問したい
リッチになりたいかい?
僕には頭脳がある
君にはルックスがある
金を沢山稼ごう
君には腕力がある
僕には知力がある
金を沢山稼ごう
チャンスは沢山ある
その時が来たら分かるだろ?
チャンスは沢山ある
なければ作り出せばいい
作るも壊すも自分次第だ
 そこにはデヴィッド・ボウイの『5年間』が描いた悲観的な世界観とは真逆のステートメントがある。80年代、イギリスは生まれ変わったのである。

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