サッチャーはなぜフェミニストを嫌ったか


 『鉄の女の涙』の監督フィリダ・ロイドは、イギリス演劇界の多くの女性と同様、自称フェミニストである。サッチャーを嫌う女性たちは、彼女が女性の地位向上のために何もしなかったと口を揃えて言う。サッチャーが内閣に起用した女性は、確かに女性として初めて貴族院議長に就任したジャネット・ヤングだけだった。
 2011年、サッチャーは彼女のアドバイザーだったポール・ジョンソンにこう言ったという。
「私はウーマン・リブに借りはない。フェミニストは私を嫌ってるでしょ? 無理ないわ。だって私はフェミニズムが嫌いだもの。あれは毒よ」。
 なぜサッチャーはフェミニズムを毒だと言ったのだろうか。女性が殆ど皆無だった政界で、男性すらも手の届かないキャリアを築いたサッチャーがたどり着いた結論とは、何だったのだろう。
 サッチャーがオックスフォード大学に入学したのは第二次大戦中の1943年だった。そこでは女性であるという理由で、政治家の登竜門である討論部のオックスフォード・ユニオンに入部できなかったと既に書いた。代わりに彼女は保守協会に入り、そこで会長に就任した。
 国会議員になる前の1949年、サッチャーは保守党を支持する女性の集会で、女性が政治に与える影響力を力説した。その翌年の1950年、史上最年少の女性候補者として選挙に立候補するも敗れている。52年には新聞のインタビューで、女性は家にいるのが義務であると感じるべきではないと語り、「女性の大臣がいたっていいでしょう?」と発言していた。
 当時のイギリス社会では、専門職を持つ女性など皆無に等しかった。女性は一人でローンを組むこともできず、それは70年代まで続いたのである。
 その後、サッチャーは何度も立候補を試みたが、保守党の推薦を受けることができなかった。彼女は能力的には全く遜色なかった。彼女が撥ねられた理由は、候補者を選ぶ党の面接で、彼女が家庭と仕事の両立について話をしたからだったという。
 一方、男性候補者たちは党の幹部らとゴルフをして仲良くなり、指名を受けていた。
 最初の立候補から10年を経た1959年、34歳の時、サッチャーは悲願の政界入りを果たす。現在、下院議員の女性の割合は34%だが、当時は629人の議員のなかで女性議員は24人に過ぎなかった。女性がなにか発言するだけで、男性議員が「チャーミング!」と言うような時代である。当時の国会には女性専用ティールームがあり、サッチャーもそこで沢山の時間を費やして仕事をしたが、日々のビジネスの多くは女性たちが入れないメンバーズ・バーで行われていた。
 女性議員の半数の12名は保守党に属し、なかでもサッチャーは最も魅力的だったという。党内のメモにも「キャリアウーマンに見えないところが彼女の魅力である」と書かれていた。
 1960年に行われたインタビューで、自分がなりたい女性について聞かれた時、サッチャーは『王様と私』で知られるタイ国王の実在のイギリス人教育係アナ・レオノーエンズの名前を挙げた。当時、女性はあくまで男性の補佐でしかなく、サッチャーも自分は脇役として政界に影響を与えられればいいぐらいにしか思っていなかったのである。
 このように、サッチャーは女性であるがゆえのハードルをあらゆる場所で感じ、当初はその問題に取り組みたいと考えていたようだ。だが、女性に関する議論を持ち出すことは全て裏目に出た。女性であることで注目されると同時に、それは信用されないことも意味した。サッチャーは当時、労働党の女性議員だったシャーリー・ウィリアムズに「私たちのほうが男性より優れていることを示さなければならない」と語った。それしか生き残る方法はなかった。
 サッチャーは常に誰にも負けないぐらいの勉強やリサーチをした。その激務が嵩じて国会で気を失ったこともあるという。そこで彼女は「大丈夫、ただの過労だから」と言ったという。
 1970年、サッチャーはヒース政権の教育相に抜擢されたが、これは女性票をつなぎとめるためのアクセント的意味合いが強かったかもしれない。サッチャーも「(この時の)私の役目は、一般的に女性が何を考え、どういった問題解決を望んでいるかを説明することだった」と回想している。この後、前述のミルク泥棒事件が起こる。
 ここまできても、サッチャーにはまだ自分が首相を目指すなどという大それた考えはなかった。彼女の出身も性別もそれに相応しいものではなかった。ましてや彼女が属していたのは伝統を守る立場を貫く保守党である。1972年にサッチャーは「私が生きている間に女性の首相は生まれないと思う」と言っていた。
 サッチャーがそれをようやく信じられるようになったのは、その2年後、ヒースに代わる党首の有力候補として周りから推薦された時だった。
 サッチャーが女性でありながら首相になることができたのは、女性の権利を主張したからではない。2006~07年に自由民主党党首を務めたミン・キャンベルは70~80年代を振り返って、「その貫禄とコミットメント(献身)という点では、サッチャーはどの議員も圧倒していた」と証言する。               
 サッチャーはエリート議員たちが女性と政治的な議論などしたことがないことを知っていた。彼らの多くは男子だけのパブリック・スクールに通い、男子学生が多数を占めるオックスフォードかケンブリッジを卒業し、女性といえば母親または乳母しか知らなかった。女性は弱く、守るべきものであって、議論をする相手ではなかった。
 サッチャーは男性議員らのこの心理を利用し、彼らに真っ向から議論を挑んだ。サッチャーにこてんぱんにやられてショックを受けた彼らは、彼女を「あのいまいましい女(that bloody woman)」と呼んで陰口を叩いた。
 サッチャーは議会でもマイノリティの女性という立場をバネにした。男性議員たちのようにつるまなかったからこそ、一切妥協することなく、政策を貫くことができた。
「大声で鳴くのは雄鶏、玉子を産むのは雌鳥です」
「政治において何かを言いたければ男性に、何かを実行したければ女性に頼むべきです」
 いずれもサッチャーの言葉である。
 サッチャーが保守党党首としてアメリカへの外遊を行った際、何も知らない現地のジャーナリストが「あなたはウーマン・リブに感謝しますか」と尋ねた。これに対し、サッチャーは「ウーマン・リブよりもずっと前に物事を成し遂げた人たちがいる」と答えた。それが彼女の人生を物語っていた。少なくともサッチャーには、女性に助けられたという記憶はなかったのだ。
 アメリカのマスコミが既婚・未婚を区別しない「ミズ(Ms.)」をつけてサッチャーの名前を呼ぼうとした時、彼女はすかさずそれを「夫人(Mrs.)」と訂正した。彼女は結婚していること、家庭を持っていることを誇りにしていた。1979年にサッチャーが首相に選ばれた時、選挙区の彼女の事務所前で女性の権利向上を訴えるグループがデモを行ったが、彼女はそうではないやり方で障壁を乗り越えていたのである。
 サッチャーは当時のフェミニストたちに、彼女が最も嫌っていた、何でもかんでも「社会」のせいにする人たちと同じものを感じていたのではないだろうか。
 1986年にノルウェーの首相になり、閣僚の半数に女性を起用したグロ・ハーレム・ブルントラントは、サッチャーにも女性閣僚を増やす意志があるか尋ねたことがあった。これに対し、サッチャーは「閣僚に抜擢できるほど有能な女性がいない」と答えた。ブルントラントはこれを理解できないまま、サッチャーが女性の地位向上に関心がないと受け取った。
 人口500万人足らずで、文化的に均質なノルウェーと、その10倍の人口を有し、歴史や文化、民族や人種が複雑に絡み合うイギリスでは、状況は全く異なると言っていいだろう。イギリスのほうが競争は熾烈だし、サッチャーは女性を多用するために首相になったのでもなかった。彼女がやりかったことは、これ以上、政府が手を差し伸べるのをやめ、階級や性別に関係なく、個人の努力が報われるようチャンスを拡大することだった。
 常に男性議員を囲っていたサッチャーを、「女王蜂症候群」と名付けてやっかむフェミニストもいた。サッチャーは背が高く、身なりがよく、エリート階級出身のハンサムな男性と仕事で組むことを好んだという。人を動かす上で見た目が大事であることも、サッチャーはよく知っていた。
 だからといって、サッチャーはハンサムな閣僚といえども準備を怠らぬよう、彼らに容赦なく議論を挑んでいったし、女性らしさを強調したり、彼らといちゃついたりすることもなかった。サッチャーはプロフェッショナルであり、男たちのボスだった。
 サッチャーは女性を直接的には助けようとはしなかったかもしれない。しかし、フェミニストたちが好むと好まざると、彼女は女性が首相になれるという前例を作った。ある意味、このほうが女性を活用する事業を始めるより、ずっとインパクトは大きい。今ではイギリスの少女が「将来、サッチャーのような首相になりたい」と臆さずに言うことができるのだから。
 文句を言っているだけでは何も達成できない。サッチャーが言いたかったのは、フェミニズムに限らず、権利ばかり主張して自分の力で得る努力をしないなら、それは毒だ、ということになるのだろう。サッチャーが11年間、首相を務めたということが奇跡であり、彼女が女性のために成し遂げた最大の功績だと理解すべきだと思う。


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