ブレグジットというサーガはイギリス版「忠臣蔵」


 2016年に行われた国民投票でイギリスのEU離脱が決まった時、著者は感慨を禁じえなかった。
 サッチャーがこの世から去って3年が過ぎていた。キャメロン元首相が言った通り、彼女が直面した問題はもはや問題ではなかった。新しい時代が始まっていた。
 ところが、EU離脱決定と同時に、サッチャーの辞任に端を発する点在していた点が、線となってつながったのである。
 国民投票の際、EU離脱のキャンペーンを張ったボリス・ジョンソン首相も、英国独立党の元党首兼欧州議会元議員のナイジェル・ファラージも、あまり表立っては言わないが、サッチャーのファンであることが知られている。ファラージは元々保守党党員だったが、1990年にメージャー首相がマーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)に署名したことに反対し、離党した経緯がある。
 全てはサッチャーから始まっているのであり、これらの反乱分子が知ってか知らずか、彼らは彼女の雪辱を晴らしたということになる。イギリスのEU離脱劇とは1つの壮大なサーガであり、さながら家臣による復讐劇か忠臣蔵を見ているようなのだ。
 1987年、サッチャーは欧州単一市場への第一歩である単一欧州議定書に署名した。彼女は欧州単一通貨なるものを信じていなかったが、蔵相ナイジェル・ローソンと外相ジェフリー・ハウからのプレッシャーに負け、90年、ユーロへの足がかりとなるERM(欧州為替相場メカニズム)の参加に合意した。
 先述の通り、1990年にサッチャーを首相の座から引きずり下ろす原因となったのは、彼女のEUへの懐疑的態度だった。この時、彼女と党首争いをして負けたマイケル・ヘイゼルタインはユーロ導入の支持者で、「歴史に判断してもらおう」との言葉を残して引き下がった。
 ERMに入ったことにより、イギリス・ポンドはドイツ・マルクと足並みを合わせることになったが、当時、不況だったにも拘らず、為替維持のために金利を上げなければならなかった。これはポンド高を招き、これが高すぎると判断した相場師のジョージ・ソロスが空売りしてポンドが暴落。2年後、イギリスはERMからの脱退を余儀なくされた。
 その後、ポンドが安くなり、イギリスの景気は回復した。イギリスはこの苦い経験を通して、単一通貨を取り入れることは、自国の経済が制御不能になることを学んだ。これが、イギリスがユーロを導入しなかった理由である。
 それから十数年経ち、アイルランド、ギリシャ、ポルトガルなどの経済破綻が次々と明らかになった時、イギリス国民は総じて、ユーロを導入していなくてよかった、と胸を撫で下ろしたはずである。
 ヘイグは、保守党党首だった1998年、ユーロを火災で燃え上がる出口のない建物に喩えた。もしもイギリスがユーロを導入していたら、2008年の金融危機は後を引き、もっと深刻なものになっていたといわれる。
 サッチャーの時代から20年以上経た後も、イギリスはEUに年間90億ポンド近い予算を貢献してきた。しかし、イギリス経済に占める欧州との貿易比率はその10%にも満たない。それなのにEU議会は医師の労働時間や移民政策、イギリスがどの国とどのような貿易ができるかまで決めている。イギリス国民が想像している以上に、イギリスは遥かにEUにコントロールされ、現実的にイギリス議会の上にEU議会が君臨するようになった。EUの権限によって、イギリスの三権分立、王室の役割も含めたイギリスの主権が脅かされている。
 1975年のEU加盟以来、イギリス国民がこれを本当に望んでいるのか、このままでいいのかを問われたことはなかった。イギリスとEUとの関係における主権に関する矛盾がきちんと説明されたこともない。国民の80%がEUに留まるかどうかについて国民投票が行われることを望み、世論調査では国民の半分がEU脱退を望んでいるという事実も明らかになった。
 こうした機運を背景に国民投票が行われ、離脱支持が残留支持を上回る結果を招いた。
 まさかとは思ったが、著者はこの結果に驚かなかった。それまでの進捗状況を観察していれば、何となく想像がつくことでもあった。
 テレサ・メイはサッチャーに続く2番目の女性首相として注目されたが、彼女の根本的問題は、ファラージも指摘したように、彼女自身がEU離脱を信じていなかったことだと思う。首相になった後のジョンソンのEUに対する姿勢や言動と比較すると、それは明白だった。信念とは事細かく説明しなくても伝わるのだ。それはサッチャーも同じだった。
 イートンおよびオックスフォードの同級生でありライバルのキャメロンは、ジョンソンが注目されたいがために離脱を訴えたと自伝に書いているようだが、ジョンソンの考え方はジャーナリスト時代の頃から一貫している。
 2019年12月、ジョンソンは改めて離脱に関する国民の支持を得られるかどうか、総選挙に打って出た。結果、伝統的に労働党の支持基盤だった選挙区が尽く寝返ったのだ。1979年のサッチャーの時と同じく、労働者階級が保守党の圧勝を導いたのである。これをサーガといわずして、何といおうか。
 サッチャーがどこからか見ていたら、やっぱり自分の直感に従って間違っていなかったのだと安堵したかもしれない。


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