社会主義は上流階級にとって都合がいい


 イギリスの歴史は振り子に喩えることができる。それはいつも一方へ極端に振れた後、全く逆方向への揺り戻しがあるのだ。
 イギリスは現在、エリザベス女王を国家元首とするが、クーデターを起こして王政をひっくり返したこともある。王権を振りかざしてやりすぎたチャールズ1世が、1649年、処刑された。その後、革命軍と議会の対立が続き、混迷する事態にうんざりした国民の支持によって、1660年、チャールズ2世が復位した。
 イギリスは一か八か何でもやってみないと気が済まない国だ。この国の進退は、振り子が行きつ戻りつしながら定められてきた。第二次大戦後、イギリスが福祉国家の道を選んだのも、産業資本主義の行き過ぎからの揺り戻しによるところが大きい。
 イギリスの産業革命は19世紀に頂点に達したが、それは劣悪な環境で危険を伴う長時間労働を強いられる肉体労働者たちの犠牲の上に成り立っていた。マンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、リーズ、グラスゴー、ブリストルなどは産業都市となり、労働者が流入して人口が急増。30~40人が一軒の家で共同生活を送るスラムが生まれ、貧困、不衛生、犯罪といった深刻な社会問題を形成していった。
 都市労働者が増える一方で、新興中産階級が生まれ、階層間の移動が激しくなると、それまで都市に暮らす一部の富裕層だけに与えられていた選挙権を拡大する運動が始まるようになる。1867年及び1884年の選挙法改正で、選挙権を有する成人男子の割合はそれぞれ20%から40%、40%から60%へと増加した。1918年には全ての青年男子が選挙権を獲得した。1871年にはそれまで違法だった労働組合が合法化され、1900年の労働党結成の基盤となった。
 戦後まもないイギリスでは国民のほぼ70%近くが、自らを肉体労働や工場での作業、製造業に従事し、資産らしきものを殆ど所有しない労働者階級であると認識していた。二つの大戦を耐え忍んだ貧しい国民の目は、自分たちの生活を改善するという次の目標に向けられるようになる。戦後初の総選挙では、第二次世界大戦を勝利に導いたウィンストン・チャーチル首相率いる保守党ではなく、クレメント・アトリー党首率いる労働党政権が選ばれた。
 アトリー政権が拠り所としたのは、1942年に経済学者ウィリアム・ベヴァリッジが発表した『社会保障とそれに類する公共サービスに関する報告書』(通称『ベヴァリッジ報告書』)だった。このなかで、ベヴァリッジは社会には「5つの巨悪」があるといい、それらは貧困、疾病、無知、不潔、怠惰(Want, Disease, Ignorance, Squalor and Idleness)であるとした。それぞれを克服するためには、社会保障、医療保険、教育制度、住宅整備、雇用創出が必要であり、これらが戦後イギリスの社会主義政策の柱となった。
 アトリー内閣は医療予算をそれまでの60億ポンドから50%も増やし、全ての国民が保険料を支払わずに無料で医療を受けられる国民健康制度(National Health Service、通称NHS)を制定した。これにより、肺炎や結核によるワーキング・クラスの死亡者が大きく減った。社会保険制度も整備され、一律の保険料を払えば、年収に関係なく、誰でも年金、疾病手当、失業手当、家族手当などが受給できるようになった。精神薄弱者、恵まれない子ども、障害者への生活手当も制定された。大戦後の住宅不足と都市のスラム一掃を目指して、100万世帯以上の公営住宅が建てたられた。それまで共同トイレ・浴室が当たり前だったワーキング・クラスにとって、それらを共有しなくても済む場所に住むことは夢のような出来事だった。
 産業の国有化も進められた。国の管理下に置くことで、大規模な投資を行うことができ、非常事態になっても国が保護・支援し、過度の競争がなくなることで、公害や汚染を減らすことが目的だった。中央銀行、航空会社、道路輸送業、旅行代理店、バス会社、運河、電気通信事業、炭坑、鉄道、電気、ガス、水道、郵便局、石油、そして鉄鋼業などが次々と国営化されていった。土地開発に関する権利も国が所有することになった。戦後の好況もあって、失業率は2%に抑えられた。
 こうして国民の高い支持を得た社会主義政策は、戦後イギリス政治のコンセンサスになった。イギリス国民は長期政権に懐疑的であり、1951年から64年までは保守党が政権を握ったが、労働党の路線をほぼ踏襲した。イギリスは、嘗て大英帝国を築いた威信とプライドにかけて、他の国から理想とされるような国家を再建しようとした。国民は「ゆりかごから墓場まで」不安のない生活を保障された。イギリスは当時、非共産主義国家としては、世界で最も社会福祉の充実した国となった。
 こうした流れは、労働者階級にとって歓迎すべきものであっただけでなく、実は上流階級にとっても同じだったのである。
 ここでいう上流階級とは、主に貴族や地主など、親から受け継いだ屋敷や不動産を所有し、基本的に生活のために働く必要のない不労所得者たちのことである。その割合は国民の1%程度に過ぎない。19世紀以降、産業革命による社会構造や農村の変化、選挙権の拡大、税制改革などにより、上流階級の支配階級としての特権は失われていった。1911年、貴族院(上院)に対する庶民院(下院)の優越が国会で通過すると、時代の変化は決定的になった。
 本来、上流階級は生活のために働くという考えを持たない。彼らにとって、富とは生まれながらに持っているものであり、そうでなければ、一生、手に入れることはできないものである。野心を剥き出しにしたり、貪欲に何かを求めることは、はしたなく、忌み嫌われる。もちろん彼らもビジネスを所有していたりするのだが、商売にあくせくすること自体は、見下す傾向があった。
 この考え方からすれば、戦後、新しい国家を建設するに当たり、上流階級が望ましい形として望んだのは、資本主義ではなく、寧ろ社会主義のほうだった。
 森嶋通夫が『イギリスと日本』(1977年)でも書いている通り、イギリスのエリート層が伝統的に産業界に関心がなかったのは事実である。森嶋氏はこれを、イギリスの教育が成功していることの証だと述べているが、寧ろエリートの文化や階級意識(スノバリー)がその要因であるとするほうが適切だと思われる。
 上流階級が職業を選ぶのは自分たちのプロフィールを高めるためだった。彼らは美術や芸術を学んだり、国に貢献するような法律、医学、その他の学術研究に進んだり、軍人、政治家、高級官僚などを目指した。伝統的な上流階級の暮らしは、広大な土地を所有し、使用人を管理しながら、彼らの福利厚生に責任を持ち、さらに地元の名士として地域活動や慈善事業などにも積極的に参加するというものだった。彼らは地域社会をより良いものにするというノブレス・オブリージュを意識していた。利潤を追求する資本主義より、富を社会に還元する社会主義のほうが、彼らの哲学や生き方に適うものだった。このため、上流階級は寧ろ社会主義に共感した。前述のベヴァリッジも、パブリック・スクールで学び、オックスフォード大学に進んだ特権階級である。
 実際、富の生産や再分配を国に任せるシステムは、上流階級にとって都合がよかった。資本主義が加速すれば、資本家が実権を持つようになる。変化をもたらす資本主義は上流階級の地位を脅かす可能性があるが、国民に私利私欲を放棄させる社会主義は、結果として社会を安定させる。そこでは寧ろヒエラルキーは保たれ、上流階級の権威、伝統、文化が守られやすい。
 戦後イギリスの社会主義政策の目標は、貧しい労働者階級に中流階級と同じ権利を提供することであり、階級制度を廃止したわけではなかった。前述の通り、コンプリヘンシブ・スクールを推し進めた労働党政権も、パブリック・スクールは残したため、エリート教育は温存された。医療制度においても、殆どの国民がNHSに頼る傍ら、自己負担でさらに丁寧なサービスが受けられるプライベート医療も存続した。
 最高税率が90%近くに及ぶ累進課税と手厚くなった社会手当によって、中流階級と労働者階級の格差は縮小された。1954年、1%の上流階級が国民の総資産の43%を所有していたが、1972年にはそれは30%にまで減った。それでも上流階級は依然として、他の階級とはかけ離れたステータスや豊かな暮らしを享受することができた。
 このように、戦後イギリスの社会主義は、労働者階級のニーズと上流階級の思惑が一致して結実した。そして、それはエリートたちの主導によって、システムとして確立されたのである。

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