サッチャーはなぜ「独裁者」とお茶を飲み、マンデラをテロリストと呼んだか


 先述の引用の中でケン・ローチは、サッチャーが南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデラをテロリストと呼んだことを非難したが、マンデラが80年代まで西側諸国ではテロ扱いされていたのは紛れもない事実である。
 マンデラは1944年から反アパルトヘイトを掲げる政党・アフリカ民族会議(ANC)に所属し、活動を行っていたが、50年代以降、この問題は非武装によっては解決できないと考えるに至った。この思いは1960年、デモを行っていた非武装の黒人69名が警官隊の発砲によって射殺されたシャープビル虐殺事件で、一層強くなった。
 マンデラは国内の共産主義グループと手を組み、中国やソ連の支援を得て武装組織・MK(『民族の槍』の略称)を創設する。MKはテロ組織のIRAから爆弾の製造方法を学び、東ドイツで恐れられた秘密警察から訓練を受けた。彼らはその教えに従い、メンバーの中でほんの少しでもANCに批判的な見解を示した者を拷問・殺害したといわれている。
 MKはその後、30年間に渡って数々の爆破事件などを起こし、一般市民数千人が被害者(その多くが黒人といわれる)になったといわれる。血で血を洗う時代だったのである。
 マンデラは1963年に逮捕され、終身刑を言い渡された。76年と86年の2度に渡り、武装放棄すれば釈放すると言われながら、いずれも拒絶した。
 多くの人が知らないのは、実はサッチャーが当時の南ア大統領ピーター・ウィレム・ボータにマンデラを釈放するよう勧めていたことである。
 サッチャーは1985年にポータ大統領への手紙で、南アがアパルトヘイト撤廃へ向けて準備を進めていることを評価し、イギリス連邦の他の国々が南アのアパルトヘイト主義に対する経済制裁措置を取り始めていること、人権を侵害しているソ連などの共産主義国と交易を続けながら、南アだけに制裁を加えるのはおかしいと思うことからイギリス政府はこの動きには追随しないこと、これらのイギリス連邦諸国を納得させるにはマンデラを釈放するのが一番効果的である、と書いていた。
 南アにとってはマンデラが共産主義者であったことが脅威だった。アパルトヘイトの解体とマンデラの釈放に向け、ポータの後に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークの背中を押したのは、1989年のベルリンの壁の崩壊だった。
 チリのアウグスト・ピノチェ元大統領については、ローチの指摘通り、1998年、サッチャーは彼をお茶に招いた。それはひとえにフォークランド戦争での借りがあったからである。
 フォークランド戦争中、チリは中立的立場を取っていると見せかけながら、秘密裏にイギリスを援護・協力することを約束した。アルゼンチン軍の動きをイギリスに報告し、イギリスの戦艦が撃沈された場合、チリに避難できることも確約していた。これはチリにとってもリクスを伴うものであった。チリの戦力はアルゼンチンに劣るものであったから、もしも攻撃されたら、壊滅する可能性もあった。チリは他に同盟国を持たなかった。
 アルゼンチンとの友好的解決を迫った米レーガン大統領や、実はアルゼンチンにミサイルを供与していたフランスのように、表向きはイギリスを支持すると言いつつ、決して信用できない先進国のリーダーたちに囲まれ、サッチャーは孤立感が募ったのだろう。そんななか、恐らくピノチェは、サッチャーが信じられた数少ない盟友の一人だったのである。
 ピノチェの軍事政権によって少なくとも数千人が拷問・殺害されたともいわれるが、これは主に1973年、チリ社会党のアジェンダ政権を彼が軍事クーデターによって倒した直後の内戦状態だった数ヶ月間に起こったものである。反共産主義を標榜したピノチェのクーデターは、ベトナム戦争のさなかだった当時、第二のキューバ危機を怖れたアメリカのニクソン大統領とキッシンジャー国務長官が仕掛けたものだった。
 フォークランド戦争におけるイギリスとチリの協力関係はずっと公にされなかった。サッチャーが初めてピノチェと会ったのは、彼が大統領を辞任した4年後の1994年、チリの英国大使館で開かれたレセプションにおいてであり、さらにその4年後の98年に彼が病気療養のためにイギリスを訪れるまで個人的対面はなかった。サッチャーはピノチェが論争を呼ぶ人物であることを知っていて、敢えてメディアの前で「(チリの協力に)私たちがどれだけ助けられたか知れない」と紹介した。それはひとえにフォークランド戦争の真実をイギリス国民に知ってほしかったからである。
 サッチャーは矛盾に満ちた政治家であるとよくいわれるが、本音と建て前をうまく使い分けながら、一歩ずつ前に進んできた、したたかなリーダーだということができる。映画『スピリット・オブ・45』はそんな現実の様相をあまりに単純化していると思う。ここで改めて気づいたのは、ケン・ローチの本質は作家ではなく、マルクス主義者であるということだ。芸術的作品が人間を描くものなら、その謎を解き明かすことで、よりその人間に近づこうとするものだ。ローチが真の作家だったら、サッチャーを1人の人間として捉え、彼女が抱えていた矛盾や葛藤を描いただろう。


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