努力さえすれば誰でも成功できる:サッチャーの申し子たち


 サッチャーが80年代以降のイギリスにもたらしたインパクトはあまりに大きかった。それはヴァージン・グループ会長のサー・リチャード・ブランソン、アップルを築き上げたスティーブ・ジョブズ、そしてレディー・ガガの3人を足しても比べ物にならないといわれるほどである。
 前節の通り、サッチャーによってイギリスはそれまでとは全く違う別の国に生まれ変わった。イギリスで80年代を過ごした殆ど全ての人が、サッチャーから経済的、社会的、精神的影響を受けた。理由が何にせよ、70年代を古き良き時代として信じている人たちは彼女を軽蔑するだろう。一方、新しい社会になってチャンスをつかみ、自己実現をした人たちはサッチャーに好意的だ。
 映画『マイ・ビューティフル・ランドレット』の脚本家ハニフ・クレイシは、サッチャーを蔑視する一人である。彼女を、イギリスが芸術大国であることを理解できない野蛮人と呼び、彼女の一連の政策が拝金主義や有名人をもてはやすセレブリティ・カルチャーといった悪しき副産物を生み出したと批判した。
 けれど、イギリス国民の物質的豊かさへの憧れは60年代から始まっていたのである。戦後の耐久生活からようやく抜け出し、生活水準の向上を求めるようになっていた。スインギング・ロンドンと呼ばれる若者文化が花開き、ロンドンはその黄金時代を迎えた。美容師のヴィダール・サスーンがボブ・カットを流行らせ、メアリー・クアントのミニ・スカートが一斉を風靡し、ビートルズやローリング・ストーンズの音楽が若者を熱狂させた。007シリーズの映画化も始まり、高級車を乗り回し、最高級ブランドを身につけたプレイボーイのスパイが国民を虜にした。
 そうした時代背景に生まれた英国ブランドの数々は、度重なるストや経済危機を迎えた70年代の間も成長し続けていた。ファッション・ブランドのトップショップやマークス&スペンサー(M&S)などがその良い例である。M&Sは70年代からヨーロッパやカナダへの進出を始めていたが、それが一気に拡大したのはやはりサッチャーが登場した80年以降だった。1976年に創業したボディ・ショップも、84年に上場したのを皮切りに海外に進出。今や世界で3,000店舗を展開している。これらの企業が羽ばたくためには、規制の撤廃が不可欠だった。
 リチャード・ブランソンもサッチャーが推し進めた新自由主義の申し子といえるだろう。彼は500社以上から成る複合企業を一代で築き上げ、44億ドル(2020年現在)の資産があると伝えられている。
 1950年生まれのブランソンは、学校在学中から起業家精神に溢れていた。1970年にイギリス政府が再販売価格維持協定を撤廃したにも拘らず、レコードのディスカウント店が現れないのを見たブランソンはこれをチャンスと捉え、広告収入を取り入れ、割引価格でレコードの通信販売を始めた。これが成功し、72年、レコード・レーベル『ヴァージン・レコード』を立ち上げる。そこでセックス・ピストルズ、ジェネシス、カルチャー・クラブといったアーティストらと契約し、資産を築いた。
 1984年、ブランソンがヴァージン・アトランティック航空を立ち上げると、サッチャーは当時まだ民営化されていなかった英国航空と競争させるため、ロンドン・ヒースロー空港への参入を支援してくれたという。「あれがなかったら、僕らは今頃、消えていたかもしれない」とブランソンは述懐する。彼はイギリスが今ではずっと良い国になったとしながら、「今なら彼女がやり遂げたことが何なのかよく分かる。でも、彼女が何かをやろうとしていた時、僕らの多くは、一体、何をやろうとしているのか、分かっていなかった」と語っている。
「人々を押さえつけていたのは貧困ではなく、憧れとか大志を抱くといったことができないことだった」と言うのは、イギリスのビジネスマン、カリド・アジズだ。パキスタンに生まれ、家族とともにイギリスに移住。スラムで育ちながら貧困から脱出する決心をした。生活を改善するのは自分次第だというサッチャーの言葉を信じ、独立してコミュニケーション事業を始めた。雇用を生み出し、税金を納め、クオリティ・ライフを送ることができるようになった時、アジズは社会の繁栄とは個人が生み出すものであると信じるようになったという。
 サッチャーは、経済的危機は国民の精神的危機と考えていた。そして、経済をメソッドとみなし、それが変われば、人々の意識や魂も変わるはずだと考えたのである。サッチャーは事ある毎に、生まれや育ちに関係なく、努力すれば誰でも社会的・経済的成功を収めることができると説いた。このメッセージを真摯に受け止めた一部の国民は、彼女の言うとおり夢を叶えていったのである。
 資産14億ポンドといわれるアラン・シュガーも、全くゼロから始めて事業を成功させたビリオネアだ。1940年代生まれのシュガーは、イースト・ロンドンのカウンシル・フラットで育った典型的な労働者階級の出身。60年代末に商社アムストラッドを立ち上げたが、会社が事業を拡大できたのも80年代以降のサッチャーの時代からである。
 同じく労働者階級から成功したトニー・ケインも、生まれや育ち、教育に関係なく、何かをやり遂げることができるというサッチャーの言葉にインスパイヤされた一人だ。彼もシュガーと同様、カウンシル・フラットで育ち、15歳の時には工場やスーパーマーケットで働き始め、ペンキ塗りの仕事もした。そんな仕事をしている限り見下されることを知り、何かを達成したいという強い思いがあった。ケインは株を買い、ビジネスを始め、豊かさを実現した。彼は自分の成功を、サッチャーが作ってくれたチャンスという土壌に負うところが大きい、と言っている。
 ハンドバッグのデザイナー、アニヤ・ハインドマーチも、サッチャーのお陰でビジネスのリスクを引き受ける信念を貫くことができたと言って憚らない。
「私が10代の時のイギリスはとても陰鬱だった。サッチャーが現れ、中小企業をサポートし、効率化を進め、国営企業を民営化した時、イギリスに希望とチャンスが溢れ出したような気がした。とてもエキサイティングだった。サッチャーは良い結果を出すために厳しい選択をする覚悟ができている人だった」
 PR業で成功を収めたシャロン・ウィリアムズもサッチャーに多大な影響を受けた。サッチャーが首相になった1979年に14歳だった彼女は、サッチャーを手本として育ったという。ウィリアムズはこう語る。
「私が子どもの頃のイギリスは自己破壊、自己嫌悪に陥っていた。テロも日常茶飯の出来事だった。サッチャーは国会議員の多くがエリートや上流階級出身だった時代に、そうではないところから出てきて頂点に立った。男性議員に対して紅一点で戦っていた。驚くべきことだった。その立ち居振る舞いにおいて、サッチャーはプロ意識を失うことがなかった。フェミニズムを振りかざすのではなく、仕事において一番になること、やればできるという意志が事を可能にすること、そして自分に責任を持つ、という教訓を彼女から得ることができた」
 やはりサッチャーは最大のインスピレーションだったと語るニューズ・コーポレーションの会長ルパート・マードックは、彼女とともにイギリスのメディアを大きく変えた人物である。
 イギリスの新聞社は1970年代まで度重なるストライキに悩まされていた。印刷技術は人員の労働力に依存するライノタイプによる作業が主流で、リストラも新技術導入もできないまま伸び悩んでいた。
 サッチャーが首相になった1979年5月、この記念すべき日を報道するはずのイギリスの新聞タイムズ紙は、11ヶ月間も続く印刷工員組合のストの真っ最中だった。同社を経営していたトンプソン・オーガナイゼーションは、これが原因で会社を手放す決断を迫られた。
 そこでオーストラリア出身のメディア王マードックがタイムズ紙を買おうとしたが、彼は既に『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』や『ザ・サン』といったタブロイド紙を買収していたため、モノポリーではないかという不安の声が上がった。
 サッチャーはこの買収を後押しした。この疲弊しきった業界に革命が起こることを期待したためである。業界に蔓延していた馴れ合い体質と戦えない者ではダメだった。サッチャーはマードックならそれができると見込んだのである。
 サッチャーが炭坑労働組合に対して行ったように、マードックも印刷工員組合との決戦のため、慎重に準備を進めた。もしも組合がストを始めたら、彼ら印刷工を解雇し、オートメーションで作業が行えるよう、ドックランズ地区のオフセット工場に拠点を移す段取りをつけていた。
 1986年、組合がストに踏み切った時、マードックはすかさずこれらを実行に移した。このアクションに衝撃を受けた印刷組合は、記者の通勤を阻んで新聞のボイコット運動に及び、果ては警察まで巻き込んだ暴力事件に発展した。
 サッチャーはマードックを全面的にサポートした。闘争は一年近くにも及んだ。その間、組合員らは無給の上、職を取り返すこともできず、ストは惨敗に終わった。組合を跳ね返し、現場の合理化を進めることができたマードックは、その後、タイムズ紙の業績を伸ばすことに成功。これを見た他社も追随し、その2年後には全国紙の殆どがドックランズ地区でオートメーションを実施した。
 自由競争社会を目指したサッチャーの改革は、移民、とりわけ140万人以上に上るイギリス最大のエスニック・コミュニティであるインド人社会にも大きなチャンスを与えた。
 インド人のイギリスへの移住は第二次大戦前から始まっていた。1948年の英国国籍法制定により、英連邦諸国の国民にイギリスでの居住・労働の権利が与えられた。1950~60年代、イギリスで戦後の国家再建の労働力が必要となったため、移民がなだれ込んだ。インドからの移民の多くは繊維・鉄鋼産業の工場で働き、12時間に及ぶ長時間労働や夜勤をこなした。イギリスのインド人コミュニティは、自分たちの権利を守ってくれるのは労働党であると信じ、同党を支持しない同胞を異分子とみなした。
 1970年代以降、製造業が衰退し、インド系移民は転換を迫られた。彼らはサッチャーの時代の波に乗り、家族や銀行の力を借りて商売を始めるようになる。レストラン・ビジネスはその代表的なものの1つで、この時、インド料理の店がイギリスで激増した。
 1974年にはインド系移民の起業家の占める割合は8%だったが、91年には25%、つまり4人に1人は起業家になっていた。92年の統計によると、イギリスの菓子店、タバコ屋、日用雑貨食料品店の70%は、インド・パキスタン系の人々が経営していた。80年代以降、不動産ブームが起こると、多くのインド人が不動産投資を行うようになった。
 サッチャーはこうして、多くのインド・パキスタン系の起業家を生み出した。なかでも最も成功したひとりがジェームズ・カーンだ。1960年、パキスタン生まれの彼は、2歳の時に両親とともにイギリスへ移住。16歳で親元を離れ、人材派遣会社で働くようになり、80年代に入って独立・起業した。カーンは言う。
「政治的見解が何にせよ、サッチャーが現代イギリス国家を形成する牽引役となったのは事実だ。彼女の政策は人気がなかったが、その幾つかはそれまでの障壁を打ち壊し、イギリスを二流国家になる危機から救った。彼女は全世代に起業家精神を吹き込み、野心とエネルギーさえあれば、何でも可能だということを知らしめた。どんなバックグラウンドであれ、ビジネスで成功することが可能だと気づかされた。サッチャーは、ビジネス・リーダーにとっては様々な意味で閃きだった」
 数多くの海外の企業もサッチャー革命の恩恵を受けた。日本企業もその例外ではない。
 日本から最初にイギリスに進出したのは、1972年にマンチェスターに工場を設立したYKKである。それから10年間に進出した日本企業の数は23社に過ぎなかったが、サッチャー政権下の83年からの10年間にその数は8倍になり、164社に上っている。
 前出のサッチャーを嫌ったクレイシは、彼女が「富を創造することは悪ではない。金に妄信することが悪である。富で何をするかによって精神的次元が決まる」と言ったことを知らなかっただろう。サッチャーが大の金融業嫌いだったのは周知の事実で、彼らとの面会を全て断っていたことも知らなかっただろう。彼女がイギリスの金融業界に求めたのは、ロンドンがニューヨークに負けない金融市場になれるよう、伝統や慣習を棄てて大胆になることだった。その後、銀行員がより高いボーナスを求めて転職したり、顧客から集めた金でマネーゲームが行われたり、複雑な金融商品が登場したことなどは、全てシティの発展に伴う副産物である。それは決してサッチャーが最初から意図したことではないはずである。


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