私の来し方とトラウマの話(下)

前回は中高時代を振り返った。今回は大学・大学院時代を中心に振り返りたいと思う。

1.浪人時代

一浪目はこれまでの反動で何もやる気が起きなかった。
全てが限界だったのだ。
宅浪すると言って通信教育の教材を取り寄せたが全くやらず。小中で仲が良かった友達(宗教のことでいじめたとされる友達も含む)でつるんで毎日遊んでいた。
そのまま大学受験を迎え、またもや全滅。まあ仕方ないな、くらいにしか思わなかった。

二浪目、私は法学部志望だったので流石にここが限界かなという思いがあり、大手予備校に入った。中学受験のトラウマで塾や予備校に恐怖があったが、入ってみてその固定観念は良い意味で崩された。講師が生き生きと講義をしており、生まれて初めて勉強が楽しいと思った。
相変わらず予習復習はしなかったが、講義を聞くのが楽しかったので休まず通った。
その結果なんとか法学部に受かり、大学生になることが決まった。

2.大学時代

1年生前期は最悪だった。一向に友人ができず、講義も教授が自分の興味に任せて難しいことを話しているように見えて頭に入らない。必修以外は休みがちになり、前期テストで民法総則の単位を落とした。私には司法試験に受かって法律家になるという夢があったが、早くも無理かなと思った。
そのまま夏休みに突入する。大学の夏休みは長い。開放感に浸りながら気ままに過ごした。始めは良かったが、終わりに近づくにつれて焦りが出てくる。またあの環境に戻るのかという恐怖と、このままでいいのかという思いで葛藤した。
後期の履修を組むとき、意を決して民法総則の担当だった教授の基礎ゼミを取ることにした。これが転機になる。
ゼミは判例を調べ、事案の概要や判旨をまとめたレジュメを作って皆の前で発表するというもの。これが存外に好評だった。文章をまとめる力やそれを説明する力が自分にあるらしいと初めて知った。このゼミには必修科目で一緒のメンバーも何人かいたが、これを機に話しかけてくれるようになった。大学生活と法律の勉強が一気に楽しくなった。ゼミの評価はA+(最高位)だった。

2年生では1年次のゼミの教員が他校に移ってしまったので、同じ科目の別の教授の基礎ゼミを取った。そこでの発表も相変わらず好評だった。
しかし、2年になってサボることを覚えていた私は友人達と共に必修とゼミ以外の講義はサボり、毎日飲み歩いていた。これはこれで楽しかったが、私の中には目標もなくくすぶっている感が募った。
そんなとき、たまたま気まぐれで債権法の講義に出席した。担当教員が有名国立大学の助教授だったため、珍しいと思ったからだ。講義はたいへん面白く、先生の人柄にも魅了されてしまった。出席したのはその日だけだったが、先生の存在は妙に頭に残った。

3年に上がり(要領よく単位だけは取った)、ゼミが本格的に始まることになる。そこで件の債権法の先生がゼミを開講することを知った。直感的にこれだ、と思った。友人達を説得し、その先生のゼミに入ることになった。
ゼミの初日、くじ引きで世話役(ゼミ長のようなもの)を決めた。なんと私が選ばれた。やるしかない、と思った。髪型もそれまでの坊ちゃん刈りをやめ、ウルフカットにしてあご髭を蓄えた。大学デビューである。
また、司法試験のサークルを立ち上げようという話になった。1年の頃からの仲間に加え、新しく何名かにも声をかけた。大学当局からは最初一笑に付されたが、悔しかったのでロースクール長の先生に直談判し、顧問に就任して貰った。その先生は副学長だったので当局も血相を変え、サークル設立の許可は瞬時に下りた。
ゼミの発表も好評、ゼミ合宿も成功させ、大学生活が本当に楽しかった。
その年の暮れ、父が二度目の脳梗塞を起こして亡くなった。私達家族はもう覚悟が出来ていたので動揺はあまり無かった。その頃、祖母の介護は父のきょうだいの持ち回りになっていたのだが、父の葬儀後、自宅で一息ついていたところに父の長姉が祖母を伴って現れ、これからは我が家が祖母の面倒をみろという。この伯母とは何度も母を守るために衝突したが、この言動には呆れ返った。
母には親族関係解消を進めたが母はその勇気を持てない。もう付き合いきれないと思い、一人暮らししたいと申し入れた。

4年、実家から離れて一人暮らしが始まった。場所は母の実家隣の空き家になっている二世帯住宅。元々は母の姉一家が住んでいたが、母方祖父と折り合いが悪く、祖父が追い出した経緯がある。その頃母方祖父は既に亡く、隣は祖母だけだったが、私は経緯を知っていて嫌な予感がしたので普通にアパートを借りたいと言った。だが、祖母が絶対母の姉夫婦を戻すことはしないというのでこの家に落ち着いた。
大学の単位は3年で取り終えていたため、週に一度ゼミがあるだけだった。では司法試験の勉強に打ち込んだかといえばさにあらず。サークルで仲良くなった女子がいた。その子と毎日のように会い、当時24時間営業だったファミレスで一晩中語り合っては朝方帰宅し、夕方まで寝る生活が続いた。側からみればどうしようもない生活だが、私は心底楽しかった。
ゼミでは相変わらず世話役だったが、勉強していないので以前のような精彩は欠いていた。でも、なぜか後輩、特に女子には慕われた。今にして思うとモテ期だった。
ロースクール入試は惨敗。毎日語り合っていた女子も実家に帰ってしまい、祭りのあとのように大学生活は終わった。

3.ロースクール浪人

ロースクール浪人が決まった後、母から都内のホテルのラウンジに呼び出された。話し合うなら実家でいいのに、と思ったら、行ってみて事情を察した。当時母が傾倒していた所謂スピリチュアルカウンセラーとその一味が同席していたのだ。
スピリチュアルカウンセラーの男が話を主導し、私は父からの相続分から4割を養育費として母に譲り、残り6割を手切金として受け取って実家と縁を切れといわれた。こんな怪しい奴らの言いなりになるのか、母の気持ちが聞きたいと訴えたが、母は一言も話さず俯いている。冷静に考えて実親に養育費を払うなど滅茶苦茶な話なのだが、まともな判断ができなかった。致し方ないので条件を呑み、実家から勘当された。
ことはこれで終わらない。母方祖母がやはり母の姉を隣に戻すから出て行けと言い出した。話が違う、こうなると思ったから話を断ったのに絶対そんなことをしないと行ったのはそっちじゃないかと伝えたが聞く耳を持たない。後輩の協力を得て都内に物件を探し、急きょ引っ越した。

裸一貫である。急いで仕事を探し、都内のデパートで準社員に採用された。相続金でロースクールの学費は賄えそうだったので必死に働いた。そして、その年のロー入試に受かる。何の勉強もしなかったが、なぜか受かったのだった。

4.ロースクールに上がる、そして

仕事を辞め、ロースクールに入学した。勉強はひたすらハードだった。何より、司法試験受験のための大学院なのに受験指導をしない。法律知識の習得に加え、答案の書き方や各種試験対策まで全て自力だ。
ハードな生活だったが良いこともあった。大学4年の時に毎日語り合っていた女子と付き合うことになったのだ。既にプラトニックな関係だったといえるが、正式に付き合おうという話になったのはこの時だ。頑張ろう、と思った。

入学して3ヶ月後にはもう期末試験があった。答案の書き方がわからず惨敗した。夏休み、弁護士教員の補習に参加した。その帰り道、携帯が鳴った。見ると母方の従姉だ。電話に出ると、母がアルコール中毒で病院に搬送されたという。
実家は売却されており、今の住所を聞いてそのマンションに戻る。酒の空き缶だらけのゴミ屋敷に巨大な水晶球と怪しげな仏像。異様な光景だった。あのスピリチュアルカウンセラーの仕業だと悟った。戦いを覚悟し、大学院に休学届を出した。スピリチュアルカウンセラー、いや、カルトとの戦いに大切な人は巻き込めない。相手はまごうことなき反社会的勢力である。彼女とは結婚も誓っていたが、別れた。

5.母との決別

母のアルコール依存を治すべく、様々なアディクションの病院と連絡を取り、入院させた。財産はほとんどカルトに搾取されていたため、取り戻さねばならなかった。大学時代のゼミの恩師にも相談し、カルトに強い弁護士を教えてもらった。母の退院を待って相談に行き、貯めていた学費分から着手金を払って依頼した。
カルト問題の専門家や生活再建のNPOとも連携した。1年後、ようやく母が弁護士との契約書にサインし、カルトに内容証明を送った。証明できたのは簒奪された財産の4分の1程度であったが、カルトが賠償することになって幕を閉じた。財産は私が管理することになった。
沢山のものを失ったが、ようやく元の生活に戻れると思った。ロースクールに復学の手続きをした。
だが、カルトの洗脳に加え、父の実家で虐められたこと、父の病気とその介護は母を狂わせていた。アルコール依存の治療援助のNPOで知り合った男と駆け落ちし、私に対して全財産をよこせという訴訟を起こしてきたのだ。調べたところ、父からの相続分のほとんどを母名義とすることで家裁の判断が下りており、そこに私の筆跡ではない字で私の名前がサインされていた。母は私が財産を簒奪しようとしているとの思考に汚染されていた。そう洗脳されたのだろうし、父の血に対する復讐でもあったのだと思う。
偽造を訴えて母を正してくれる弁護士を探したが、皆裁判所の判断が下りていることに尻込みし受任しないか、してもすぐ辞任する。裁判の末、毎月相当額を母に支払う代わりに支払い終えたら今の自宅を私に譲る、以後一切の関わりを持たないということで決着した。
私は母と決別した。ロースクールは肉体的にも精神的にも継続が困難になり、退学することになった。

私は既に上記金銭も支払い終えたが、半生の振り返りはここで終わりにしたい。私の人生の時の大半はここで止まっており、今はその落ち葉拾いだからだ。
FAPの話に戻るが、私はこの療法で何とか前に進みたいとも思っている。また恋愛をしたい、という気持ちもようやく湧いてきた。今は私自身を幸せにしたいと願っている。FAPがその光になってくれると信じている。

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