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私の来し方とトラウマの話(上)

初回の記事で「FAP療法と私」という内容でなぜFAPを受けようと思ったか書かせて貰ったが、あの記事はFAPとの関わりに焦点を当てて書いたので、改めて自分の来し方とその中で抱えたトラウマについて記してみたいと思う。最近大嶋先生のブログでも目にしないが、ひとつの内省として見ていただければと思う。

1.私の幼少期

記憶があるわけではないが、私は母の胎内から出たとき全く泣いていなかったらしい。このままだと死んでしまうと思った看護婦さん(当時)がお尻をバシバシ叩いてようやく泣き始めたという。きっと生まれる前にこの先の人生は大変だよと神様に言われ、生きる意思が無かったのかもしれない。勝手な推測だが。

父の仕事の関係で当時の我が家は京都で暮らしていたが、父がどうしても子供の出生地を自分と同じにしたくて父の実家がある千葉県に戻り、千葉の病院で生を受けた。その後のことはよく知らないが、たぶんすぐに京都に戻ったのだと思う。私の記憶は京都から始まっている。父母のどちらかから今日から4歳だよ、と奈良のお寺に行く車中で告げられたのが最初の記憶だ。
だから私は千葉生まれなのだけど、千葉よりも京都に郷愁がある。関東に戻った今でも千葉にはあまり郷愁がない。

京都で幼稚園に上がった。私は内気と強気が混在した性格で(内弁慶というやつですね)、クラスではあまり輪に馴染めない子供だったが、行き帰りの駅が同じ友達とはとても仲が良く、自分を出すことができていた(私を含め電車通園の多い幼稚園だった)。生まれて初めての彼女もこのときにできた。駅が同じだったのでよく遊んでいたが、確か向こうから好意を告げてくれた。幼稚園児の恋愛なんておままごとのように思うかもしれないが、今でも大切な思い出として胸に残っている。
週末はよく京都や奈良の神社仏閣に観光に行った。その影響か今でも神社仏閣が好きだ。京都時代が私と家族にとって一番幸せな時期だったかもしれない。

もう卒園、というときに再び千葉に戻ることになった。彼女も友達も京都駅に見送りに来てくれた。千葉に戻ったらみんな遊びに行くと言ってくれたが、来てくれたのは結局ひとりだけ。彼女もとうとう来てくれなかった。携帯もスマホもない時代である。以来、京都の仲間とは会っていない。

千葉に戻って千葉の幼稚園に転入したが、関西に染まっていたからか強烈な違和感を覚えた。だんだん話せる友達も増えてきたのだけど、あの時感じた違和感は今でも忘れない。

2.小学校と中学受験

そのまま千葉で小学校に上がった。当時は父の勤務先の社宅に住んでいた。小学2年生まで住んでいたが、京都でも社宅に住んでいたのでなんとなく京都の延長感があった。
転機は2年生の半ば、父方祖父が亡くなったことだ。父の実家は祖母が実権を握っており、親族は皆祖母にひれ伏していた。大嶋流にいうなら祖母は支配者だった。孫達の中で私だけ、祖母には懐かず祖父に懐いていた。祖父も私をすごく愛してくれた。祖父が大好きだったこともあるが、祖母を見て危険な存在と察知していたのかもしれない。その祖父が亡くなり、長男だった私の父が家の跡取りに選ばれた。2年生の半ばから週末は1人になった祖母の家に寝泊まりに行った。私はこれが嫌で仕方なかった。祖母がたいへん意地の悪い人間だったからだ。子供の私に対しても気に入らないことがあると平気で無視をしたり(他のいとこや親族がいてもだ)母を邪険に扱った。父が何をしていたか記憶にないが、助けてくれなかったのは確かだ。この祖母の登場で何かが狂い始めた。

3年に上がる時、遂に祖母宅で同居することになった。父は4人きょうだいだったが、都内に嫁いだ次姉を除き、父のきょうだい達は祖母の家周辺に家を構え、コロニーを形成していた。だったら祖母の面倒は近場に住む一族が見れば良いのに、転勤の多い父が長男という理由で選ばれた。もっとも、父の勤務先は東京の本社勤めが激務で、転勤はその息抜きのような構造になっていた。父の帰宅は毎日深夜になり、祖母の面倒は母がみる形になった。家庭内いじめは相変わらず継続していた。

新しい小学校での私はその反動もあったのか、積極的を通り越してガキ大将のようになった。一方で、ある日突然母から中学受験のために塾に入れといわれた。その辺にあるような学習塾ではなく、当時かなり中学受験指導で有名な大規模塾だった。
私は勉強が好きでは無かったし、中学受験などしたいとも思っていなかったから反対したが、母の態度は有無を言わさぬ感じで半ば強引に入塾試験を受けた。そして、皮肉なことに受かってしまった。私はこの塾がたまらなく嫌いだった。今では考えられないだろうがスパルタ指導がまかり通っており、当てられて答えられなければ体罰も行われるような環境だった。宿題も多く、教師は授業でわからせるというより宿題で理解してくること前提、授業はその確認の場に過ぎなかった。1日おきに授業があり時間は夜7:30まで、できなければ更に残される。私は授業の理解もできないし塾が嫌いだったので宿題もあまりやらず、どんどん落ちこぼれた。残されるので帰りも遅くなり、小学生ながら帰宅は夜10時頃だった。
そして、何より辛かったのがこの塾では自分を発揮できず、友人ができなかったことだ。孤立するだけならまだしも、子供は残酷である。皆塾のストレスもあったのだろう。私はここでいじめのような目にあっていた。親は助けてくれるどころか成績不振の私を責めた。小学校しか居場所がなかった。何せ私はなぜか小学校では打って変わってガキ大将なのである。小学校では自分を発揮できるが、塾ではろくに周りと話せず弱者になる。そんな二律背反の生活が以後3年間続くことになる。

5年生に上がり、土曜日も塾が始まった。土曜特練といって、昼13時頃から夜の9時頃まで缶詰にされる。楽しかったはずの土曜日が暗澹たるものになった。それと同時に、小学校での私もガキ大将を通り越してタガが外れ始めた。自分でもコントロールできないくらいストレスでおかしくなっていたのだろう。ささいなことがきっかけで、その当時仲の良かった友人をいじめてしまった。

あの時は本当におかしかった。いじめているという自覚はなく、むしろある種の正義感のようなものに駆られていた。今振り返ってみればプライベートの大半を塾関連で汚染され、ストレスのはけ口にしていただけなのだと思うが。今でもあの時の心理状態はよくわからない。おかしくなっていた、としか言いようがない。
もちろん私のその行動をおかしいというクラスメイトも一部いたが、不思議なもので自分を発揮できているとそれが良きにつけ悪しきにつけ一目置かれるらしい。小学校ではなぜか人気があった。だが、このことがきっかけで小学校の教師からも睨まれるようになる。

上記いじめは6年生に上がると同時に止めることができたが、今度は別の仲が良かった友人が不登校になった。その子の親が新興宗教にハマって学校のある日も宗教行事で休んだりしていたのだが、小学生は宗教のことなどわからない。休んでずるい、という空気が蔓延し、それに耐えられなくなったというのが真相らしかったが、私が宗教のことでその子をいじめたという話にされた。担任からは皆の前で「お前は最低だ」といわれ、給食をひとり別室で食べさせられることもあった。私は宗教のことなどよくわからなかったので何で休んでるの?と聞いたことがある程度だ。それ以上興味もなく、何教かとかそんな話をしたこともない。普通に仲良くしていたつもりだった。だから何を言われているのか、なぜ罰を与えられるのかさっぱりわからなかったが、前科持ちのいうことなど聞いて貰えない。不登校は私がいじめたから、ということにされた。
その子はある日突然、けろっと復帰した。いじめ云々の話と私が懲罰を受けたことはうやむやにされた。

塾は日曜日まで侵食してきていた。超特練といって朝の9時から夜の9時まで缶詰め。親は一向に辞めさせてくれない。小学校でそこそこ人気があったことだけが救いだった。

3.塾を“不登校”になる

私は当時ガンダムのプラモデルが好きだったが、ある日、その年の11月頃だった。親と新しいプラモデルを買いに行った日だったと思う。もう無理だ、と伝えた。塾は限界だし、受験もしたくないと。普通の小学生になりたいと伝えた。親もさすがに何もわかっていなかった訳ではないのだろう。塾は当分休んでいいと言われた。ただ、受験はしてくれといわれた。私も子供心にここが妥協点だと思った。親の意向で始めた中学受験だ。完全に辞めたら見捨てられるとの不安もあった。でも、塾に行かなくて良くなっただけでも物凄い救いだった。
あの時買ったプラモデルを今でも覚えているのはそれが自分の中の解放のメタファーになったからだろう。晴れ晴れとした気持ちで作ったのを覚えている。

だが、ことはこれで終わらなかった。親は塾に行かなくていい代わりに家庭教師をつけるという。そして学校を休んでその家庭教師と勉強しろと。以後、本当に家庭教師がついて、年明けまで学校を休んだ。私は算数ができなかったのでひたすら算数の問題集を解いた。
家庭教師は塾講師のような高圧的な性格ではなかったが、ぶつぶつ独り言をいう変人だった。変人と2人きりでひたすら算数の問題集に取り組む日々が続き、その甲斐あって本当に算数が解けるようになった。
年明けから小学校に復帰した。そこで異変が起きる。周りとの距離感、接し方がわからなくなっていたのだ。いじめには遭わなかったが、何をどう話していいかわからず孤立した状態になった。皮肉なことに、宗教のことでいじめたとされた友人だけが話ができた。

中学受験は全敗した。ガキ大将だった自分を見失い、友人も失って小学校を卒業することになる。中学受験は心に大きなトラウマを残した。(続く)

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