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結婚準備

話がいろいろとそれましたが、旦那様と出会い3年半が経過しました。
それまでの3年半は半年日本、半年バリの生活でした。
その頃のバリはノービザで2ヶ月滞在できたので年に3回のバリとなっていたのでした。
ビザをとっている人は継続的に居住する人で行き来している人は殆どがノービザ滞在でとても自由なのでした。

日本での生活ですが、仕事はダブル、トリプルと掛け持ちしてお休みはとらずとにかくバリ行きの費用を稼ぐ日々でした。
フリーランス状態でしたが、日本に帰国したら来て欲しいと言ってくださるところもあり日本での仕事もどんどん決まるし、夜はジムへ通って毎日忙しくしていたのでした。
その頃まだネットはあってもまだまだ個人にまで普及もしていなくバリの情報は本のみだったので、バリ関係の本は殆どといっていいくらい購入してバリについて学んでいました。
個人出版している本などもありましたが、あの頃の自宅の本棚はバリ関係の本のみで200冊以上ありました。
多分バリ関係で持っていない本はなかったくらいだと思いました。
それだけバリが好きだったし、自分なりに学びました。
その学びは次のバリで生かされ、どんどんローカル生活に入りこんでいくのでした。

そんな時ちょっと身体を壊し、自分が死ぬ時はどうしたいかを考え、旦那様に抱かれて死にたいと率直に思ったのでした。
旦那様ともそろそろという話しもしていて、特に旦那様からのプロポーズというものはなかったですが、結婚しようと決め旦那様はBapa/お父さん、Ibu/お母さんに私と結婚するから良い結婚式の日取りをお坊さんに聞いて決めてくれと話しをしたのでした。
その後Bapaがお坊さんのところへ行き結婚式の日取りを決めてもらいGW明けの5/8にすることになりました。
バリの結婚式は普通はあまり何か月も先の日取りは決めたりはしないのですが、私も何度もお坊さんのところへも行っていたのでいろいろとみてくれて決めてくれたのでした。
その時は確か1月くらいで、2月に一度バリへ行きいろいろと結婚の準備をすることにしていたのでした。

バリでは家の男の子が数人いる場合には一度は大きな結婚式をしなくてはならないようで、お兄さんは出来ちゃった婚だったのでこじんまりだったので旦那様と私の結婚式大きくしなくてはならないようでした。
これは旦那様のカーストも関係しているのだと思います。
旦那様のカーストはクシャトリア2番目で王族となります。
カーストといっても実はもっと細かく分かれていて旦那様の祖先は直系の3人の王子様の一人の系統であまりお金や土地に執着していなかったようで貧しい王様だったそうです。
ウブドの王族は裕福な王様でその兄弟だそうです。

ちょっと脱線しますが、私をバリへ連れてきてくれたKちゃんの昔の彼氏でタバナン出身のAgungさんがいました。
その人はAnak Agung Gede Agung 〇〇〇で3つのAがついているからカーストが上だといつも言っている人がいました。
レストランへ一緒にいってもほんとに偉そうでとても鼻につく感じがしましたが、その時はそんなことはあまり気にしていなかったので、そんなものかと思っていたのでした。
旦那様も実は3Aですが、そのことを伝えたらタバナン出身者では本物でない可能性があるとの事で、そんなに威張るということはそっちの可能性が高いかもと言っていました。
旦那様のふるさとはクルンクンで近所にはたくさんのクシャトリアが住んでいます。
これはバリ人でもちゃんとこの歴史を詳しく知っている人はなかなかいないそうで、Bapaがよく家族に話をしてくれたそうです。
なかなか歴史とともに奥深いカーストです。
その3A彼氏が初めてKちゃんと私にバリのお土産にと良質なクバヤのピンクレース生地をお土産にくれ、日本で親戚のおばさんにクバヤを作ってもらったのでした。(既製品のクバヤは持っていたのでそれを見本にしたのでした)
そこからクバヤ好きが始まったのでした。
これがまた奥深いのですよね。。。。

私は結婚前にすでに母とおじをバリに招いていて旦那様にも会わせていたし、母には自分の気持ちをちゃんと伝えたのでした。
旦那様の物の考え方やら人への対応など人としてどんな人なのかを説明していました。
母の実家は神主さん、郵便局、キヨスクといろいろとやっていて、祖父もそのかたわら校長先生などしていて一番上のおじはそのあとをついで同じ職業だったのした。
この為自分のやりたい事は絶対に反対しない家族だったので結婚式にも母、姉、姉の子供達、おじ2人が来てくれる事になるのでした。
母の親戚は皆さん本当にお祝いしてくれました。
父方の親戚はあまり喜ばしく思っていなかったようです。
でも私の人生なので自分の道を進む事にしたのでした。

その頃まだバリでも携帯はもっていましたが、ネットはネットカフェでhotmailを見る感じでまだまだで家族や親せきの結婚式があるという案内は直接招待を伝える事をしに行くのでした。
その為旦那様がデザインした招待状の作成をしました。
(バリでは名刺やタグ、パンフレットなどが安価で作成できたのでした)
1000部つくりましたが足りなく追加オーダーしたのを覚えています。
旦那様のお父さんは祭事の方法なども詳しかったのでいろいろなところで祭りのサポートをしていたせいもあり、とても多く結婚式の案内をしなくてはいけなくてとても大変そうでした。
こっちに案内したのにここはしないという事がないようにしなくてはいけませんが、紙に書いて管理するというものではなかったので、結婚式の後、ここ忘れた、あそこ忘れたと出できました。
ここからは家族ともどもとても忙しかったです。

まず、旦那様のバリの家の修理を開始し、いくつかあった部屋をぶち抜いて私達の部屋にしたり、そこに貼るタイル、TV、冷蔵庫など一緒に購入しにいったり、家具も洋服ダンス、食器棚、天蓋付のベッド、応接セット、ドレッサーを特注でオーダーしたり、結婚式で使用する竹、椰子の葉、ココナッツ、豚、鳥、アヒル、その他の料理などの手配の依頼をしに行ったりととにかく超忙しかったのを覚えています。
またカマ―ルマンディというトイレ件お風呂みたいなところも小さかったのでここも作り直したり、外の塀やら家の入口なども修理したのでした。
旦那様のバリの実家は都市部ではなく村の家で古典的なバリ様式で作られたお家で大勢のお客様を迎える為に修理も開始したのでした。
とにかくやるからには自分達が好きなものでの結婚式をしたかったのでした。
手作り感満載ですが、自分達でつくりあげるのは本当楽しかったです。
旦那様もこの辺のこだわりがあり、日本では嫁がいろいろこだわりますが、私場合旦那様のこだわりの一杯詰まった結婚式だったのでした。

また衣装にもこだわりたいと旦那様と話をして、親戚でイカット(織物)を作っている人がいたのでその人にシルクの糸から染めてもらい金糸を入れて婚礼衣装を織ってもらいました。
婚礼衣装は高価なものなので殆どが貸衣装で糸から染めて制作するというのは聞いたことがなかったです。
でも日本の結婚式衣装代にくらべたら安いし制作してもらうことにしました。
色は旦那様が自分は褐色の肌、私が白の肌?なのでその中間のミルクコーヒー色にしたいとのことで決まったのでした。
イカットは糸の染色チェック、織開始の色チェック、金糸の模様チェックと何度も通って作っていただきました。
この婚礼衣装は旦那様の下の妹2人も着るのでした。
その後は婚礼にお呼ばれしたときなどサロンとして使用していました。
しかし、しっかりしたイカットで日本の薄い帯のような織物なので重いので今は保管しているのみになっています。
制作したのは3枚のサロンサイズ、私が上半身にまく帯のようなスレンダンの超長いもの、旦那様が頭にかぶるウダンで、合計¥60,000でした。
これは本当に作って良かったと思いました。
手織りで本当に美しい布でした。

そしてその他にもいろいろな儀式がありクバヤとサロンも新調しました。
クバヤ好きで既に10枚は作っていましたがこの時は布だけで1万円のフランス製の薄いオレンジ色のレースの生地と濃いオレンジのシルクのサロンにしました。
クバヤも袖や肩、胸にオリジナルデザインを入れてもらっていたのでホントに可愛いクバヤでした。
今はいろいろと流行はありますが、私のクバヤはこの統一したデザインで作っています。
それでも縫い賃合わせても合計2万くらいで安いですが22年前のバリなので相当高価な感じはしました。
今では太ってしまい着られませんがこのクバヤだけは誰にもあげずにとってあります。
(他のものは新しいものを作る度に周りの親戚にあげています)
このクバヤは結納の時に最初に着用したのですが、この時も決まりがいろいろあってサングルという既婚者の証の付毛(髪の毛をアップに結ってその後ろにつけるのです)とそこにさす金色のかんざしも購入しなくてはなりませんでした。
有名なデヴィ婦人のような髪型です。
私は以前ウブドで婚礼衣装を着て写真を撮った事があり、被り物をしてのこういったものは似合う自信がありました。その時の事を参考にもしたのでした。

そして日本の結婚式では引き出物をお渡しするので日本の家族と親戚、友達用に旦那様が私の星座と旦那様の星座をイメージしたバティックをデザインし制作を友達のバリ人のバティック作家に依頼して制作してもらいました。
これがまた素敵なのです。(しまっているので見つかれば後日アップします)
このオリジナルバティックを手編みのカゴに入れたものを引き出物にしたのでした。

その他日本の家族の来バリのホテルやら観光スケジュール、友達のホテルの手配、車の手配などもあり、
結婚の準備の2ヶ月はあっという間でしたがとても楽しかったです。
その頃はまだウブドの親戚のバンガローに私と旦那でいたので基本はウブドでした。

後の準備は旦那様と旦那様の家族に任せて私は日本にいったん帰国するのでした。
次は結婚式の為のバリです。


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