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死後述語

『孤独死』

実に不可思議でなんか気持ちの悪い言葉ですね。文字面もあんましよくないし。

人間、産まれてくるときはあんなに喜ばれて産まれてくるのに、死ぬときは喜ばれては死なない。…と思いたい。

病床にあって大家族に見守られていたとしても、太平洋を救命ボートで遭難中でも、どんなに偉い人だろうと、極悪非道な犯罪者だろうと、死はひとりだけのものです。

『向こう三軒両隣』みんなでみんなの世話を焼く昭和の時代から、近隣との関わりが希薄な個人主義バブルな現代、なのにSNSではやたらと繋がりたがるというワケのわからん時代でありますが、ターボブーストな少子高齢化を迎え、孤独死対策という看板を掲げたままその責任のなすりつけあいが血縁者と公的機関の間でなされています。

よしんば隣のポストに3日分の新聞がたまってたとして、『旅行に行ってました』とか『風邪ひいて寝てました』とかじゃない限りは、『あれ?』って思った時点でもう間に合ってもいないってことですからね?

つまり、死体の発見が死後3日か、それ以上かの違いであって、『普段から声をかけておくべきだった…』とか、『もっと早く気づくべきだった…』とか、隣人であるという関りしかない他人が自責の念に苛まれるか、後始末する人の大変さが変わるってだけの話でしかない。

80年近くも生きてなお『誰の世話にもならん!』と言えちゃう人も未だにいます。

でしたらどうか死体も一緒にあの世に持って行ってそちらで処分していただきたいものですけどね?そんなに言うんでしたらね?

『死んだ後のことまで知らん!』

いや、それはこっちのセリフでございまして、『誰の世話にもならん!』と豪語したんですから、どうぞ最後まで自分で何とかしてください。

ですから、社会として問題にするとすれば『孤独死』の方じゃなくて、人生終盤での『孤独生』の方なんじゃないでしょうかね?

人間、ずっと孤独に生きるってことはもちろんあるでしょう。だから必ず死ぬ時も孤独だと決まったワケじゃない。

誰かが死ねば必ず誰かの手を煩わせる。それが今の世の中で人が死ぬということですね。

なので『誰の世話にもならん』などとイエス・キリストばりに『3日の後に復活する』かのようなこと、一人で生きてきたんだという思いが強ければなおさら言っちゃうかもしれませんが、むしろ『誰かの世話になる』と開き直っていただいてた方が安心です。

人間は生まれながらにして自由です。

どう生きるかは自分で決めればいいと思うんです。そう生きたようにそう死ぬ。ただそれだけのことなんですけど、どう死ぬかは決められんところがこれまた人間の一生なのであります。

『世話かけるけど、すまんの。』それでいいと思います。

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