偶然スクラップ#39: ロバート・フランク(1924-2019)の悲劇と深い人間性

(追記:2019年12月31日)
ロバート・フランクの他の記事も読んで、ロバート・フランク像をより立体的に知りたいなと思って、friezeに掲載されていた追悼記事を読んだ。

特に彼の人生の後半のことがよく書かれていた。途中から写真を撮らなくなり、近くに住むビート・ジェネレーションの小説家やアーティストたちと一緒に映像をつくったりしていた。映像も実際に清里フォトミュージアムで見たのだが、みんなでワイワイしていて楽しそうだ。

しかし一方で、子供を事故でなくしたり、自殺でなくしたり、離婚したり。晩年は、世間から距離をとっていた。最後まで彼は「大きなアメリカのなかで孤独だった」が、彼の作品は世界に根をおろしている。彼は孤独ではなかったと記事では結んでいるが、本人はどうなんでしょうか。

(初投稿:2019年9月21日)
今日も引き続きロバート・フランクについて現代アートマガジンのFriezeから追悼記事を紹介します。

引用元:

The Tragedy – and Deep Humanity – of Robert Frank (1924-2019)
BY CHRIS WILEY
17 SEP 2019

この写真家への賞賛-「The Americans」(1958)の「sucker punch (不意打ち)」から晩年の作品「howling with anguish, frustration and ennui (苦悩, フラストレーション, 退屈の叫び」まで

アメリカのホーム・コメディ番組「Leave It to Beaver (ビーバーちゃん)」(1957-1963放送)が最後のクレジットの画面がフェードアウトしていく丁度そのとき、ロバート・フランクの終わりが見えないほど飢えた写真集「The Americans」(1958)が不意打ちのように出現した。当時、批評家たちは歓迎していなかった。ボロボロの旗、亡霊のような光を放つジュークボックス、人種的不公平の悪化、アメリカンドリームへの鎖をぞんざいに絶たれるのを目にする魂を失った人々の悲しい行列。大衆向け写真の編集者たちは、このスイス生まれの写真家が撮影した粗く、水平も取れていない、そして徘徊するようなこれらの写真を査定し、自分で勝手に選択した国を嫌悪する不幸せな男によって、「歪められ、ブツブツで覆われた嫌悪のイメージ」にされられたのだ、とあざ笑った。当然そんなことを気にする必要はなかった。

ビート・ジェネレーションの風変わりな男Jack Kerouac―彼は1959年のアメリカ版(その初版は妥協して前年にフランスで出版された)にはしゃいだ序文を書いたーは、Frankは、悲しい詩をアメリカから吸い出してフィルムの上に吐き出し、世界の悲劇の詩人の仲間入りをしたと、熱狂的に宣言した。冷静なカリフォルニアのコンセプチュアル・アーティストのEd Ruschaは、あるインタビューの中で、アートスクールのカフェテリアに「The Americans」の本が現れたとき、一種の狂気を引き起こったと思い出を語った。「そこには皆の分の椅子はなかった。私たちは覗き込んで、その一ページ、一ページを見ていた。それはこんな感じだった。―ジョンFケネディーが撃たれたとき、君はどこにいたか覚えているか?覚えてるさ、「The Americans」を読んでいた場所さ」。噂が広まるにつれて、天使の頭をしたヒップスター(A.ギンズバーク著『吠える』冒頭の一文で、ヒッピー的な意味)の国の思いつくあらゆる土地出身の著名人―Patti SmithからJim Jarmusch, Mick JaggerからNan Goldinまでーが、Frankの成し遂げた炎に群がった。それは、今も20世紀の視覚文化のアーチの不動の要として今も位置している。

彼にはたくさんの称賛が積み上がった。しかしながら、Frankは、先週の月曜日、Nova ScotiaのMabouにある彼の人里離れた家近くの病院で亡くなった。1969年以来、時々、彼とアーティストである彼の妻June Leafはその家で暮らしていた。Frankは、いつも名声を嫌い、公然と敵対心さえ見せていた。「The Americans」が本当に世界から注目を集めた頃には、Frankは既に写真をほとんど止めてしまい、実験映画を好んでいた。(その理由を「映画を作るときは、あなたは会話をするでしょう」と、彼はかつて説明したことがある。「あなたは人々ともっと接触する。写真を撮るときは、あなたは歩き去ってしまうことが多い」。) 初めての映画「Pull My Daisy」(1959)は、Kerouacの「Beat Generation」(1957)という未出版作品の脚本を緩く脚色したもので、Kerouacがナレーションをし、ニューヨークの下町の怪しい連中の中からうまく誘い込むことに成功した寄せ集めのグループ―Gregory Corso, Alan Ginsberg, Peter Orlovsky, Alice Neelを含むーが出演した。今やこの映画は、アングラの古典となっている。FrankのBeatnik魂が疑われた時もあったが、彼の誠意は鉄に覆われ守られた。

皮肉にも、恐らくFrankの最も知られている映画は、人々が目にする機会の最も少なかった映画でもあった。「Exile on Main Street called Cocksucker Blues (メインストリートのならず者 (Cocksuckerと呼ばれたメインストリートの亡命者のブルース))」(1972) を生み出したRolling Stonesの全米ツアーのシネマ・ベリテ形式[60年代初頭にフランスで生まれたインタビューを多用するドキュメンタリー形式]のドキュメンタリーは、このバンドを追ったものだ。彼らは国中を飛び跳ねて回り、着地するところではいつも、卑劣なセックス、静脈注射のドラッグ使用、そして相当時代遅れなロックンロールといった悪評の旋風を巻き起こしていた。この映画は下劣極まりなく、最終的にはこのバンドの法務担当がFrankに対し、ほぼ上映禁止命令を科したほどだった。( 条項の中には、この映画が上映される際には必ずFrankが立ち会わなければならないというものもあった。) FrankがStonesに向けた最後の辛辣な言葉は、「大金と権力を持った上で、人間性を保つのは難しいですよね」であった。

Frankは、彼の人間性をそっくり維持し続けた。恐らく、一つの理由として、彼が権力と金の両方をどうにか避けてきたからだろう。彼は注意深く完全にアート界と除け者のような距離を取り続け、また彼のコレクションから数百万ドル相当のアートを売って、かなりの財産を手に入れたときでさえ、彼はすぐに財団を設立し利益を手放した。しかし、Frankは逃げ隠れはせず、非常に人間的だった。彼は最期まで辛辣で、しわくちゃな服を着て、けんか腰の詩人だった。そして他者が知覚する嘘や偽りに対して怒り、洗濯ひもに彼自身の問題が引っ掛かったままであっても決して怯むことはなかった。

「Conversations in Vermont (バーモント州での会話)」(1969)や「Home Improvements (家のリフォーム)」(1985)のようなあまり知られていない映画の中で、彼は自身と最初の妻のMaryの間に生まれた二人の子供、AndreaとPabloとの苦悩と悲劇に満ちた関係について言及した。Frankの家庭の中で成長することは簡単なことではなかった(「それはとても、とても大変で、私と一緒に暮らすことはほとんど不可能だった」と彼はかつて認めている)。そして、特に二人の早すぎる死に直面した後、どうして彼らを見捨ててしまったのかという考えに彼は生涯悩まされた。―Andreaは、ちょうど20歳になった時に飛行機事故で亡くなり、Pabloは統合失調症との長年の闘病の後、1994年に自殺。彼は再び写真家に戻った。Nova Scotiaに移住した後、彼の作品は内向的になり、苦悩とフラストレーションと退屈の叫びが聞こえ、孤独な人間に相応しくなり、彼の故郷となった風景も痛めつけるようになった。一つの引っかき傷やしみに落書きされた1978年のディプティックの作品の中では、Frankの手がぶら下がった骸骨の人形に見える。そして、「Sick of Goodbys (原文) [さよならはもうたくさん]」という文字が書かれている。まるで血で書かれたかのように。

もちろん最終的には、全ての道は「The Americans」に立ち戻る。Frankのこの高遠な功績を彼自身が拒んだとしても逃れることはできなかった。後期の作品に強烈に感じられる疎外は、形は異なれど、常に「The Americans」に表れていた。New Orleansの路面電車の黒人の乗客の極度な不安による苦しそうな表情―白人の顔の列の後ろの窓から懇願しているーの中やMemphisの不況に打ちひしがれた男―人気のない駅のトイレで靴磨きをしているーの中、ヒッチハイカーの野生のような瞳―Frankは彼らのスナップショットを撮ってる間に彼らに車を運転させているーの中にも。これらは、Frankの中に入り込み、生涯彼を解放することのなかったアメリカ人の大きな孤独だったのだ。しかし、彼の死のずっと前から、Frankの作品は、アメリカそして世界に、根を下ろしていた。彼は決して孤独ではなかった。私たちは、いつも彼と共にそこにいた。

CHRIS WILEY: アーティスト、ライター、frieze寄稿編集者
訳: 雄手舟瑞


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