蒼穹のファフナーTHE BEYOND(6話時点)をインド哲学視点で分析する

1、はじめに

ビヨ最新話までついに一か月を切った今日この頃、皆様いかがおすごしでしょうか。こっちはいかがもなにもないです。とっても怖い。さて、今回の話題はファフナーとインド哲学について個人的に考えたことをまとめたいと思ったものです。インド哲学って面白いなー、そのうちファフナーにおけるインド哲学要素をまとめよう、なんて適当にほざいてからもう半年以上。最新話が来る前にまとめておかなければ気を逃すわこれ、といい加減腰を上げたのがこの記事です。にわか仕込みでしかないのですが、それでもよろしければお付き合い下さいませ。

追記:これは蒼穹のファフナーTHE BEYOND7,8,9話を見る前にまとめた記事です。最新話を見るとここ違う、みたいなところも出てくると思いますが、6話までの見識で書いたことをご留意ください。

2、そもそもインド哲学って何?


哲学の語源はギリシャの「フィロソフィー(知を愛する学問)」だそうです。哲学って何なのかと言うとまた大変深淵な世界を探らなければならないので、ここでは「世界を見る行為、その思考・思想体系」のこととでもしておきましょう。詳しく知りたい人は哲学概論とかの本を探してくれ。というわけで、インド哲学とはインドで生み出された宗教、哲学、思想体系についてざっくり言ったものとします。その特徴は殆どの思想が「解脱」、つまり苦しみの人生からの解放を目指す思想であるという点だと言えましょう。


3、何でインド哲学とファフナーをまとめようと思ったの?


最初に「インド哲学って結構ファフナーと親和性あるじゃん」と思ったのは大学の講義を受けて梵我一如を聞いた辺りだった気がします。高校の倫理でそう言えばやったなー程度の覚えだったんですけど、詳しく知れば大変面白い。それに概念がファフナーとよく通じるものがある。でもこの辺りを詳しく話している人ってあんまりいない。よし自分がやろう、と言う感じでこれができました。それにビヨの主人公は輪廻転生する生命を明確に設定され、アショーカの下で生まれた新生皆城総士です。輪廻思想と言えばまさにインド哲学。いつかは必ず考えるべき事項だと思ったからです。


4、まずはざっくりバラモン教について


さて、ぼちぼち本題に入っていくとしましょう。とはいえインド哲学って私たちになじみが薄い。よく分からない。ごもっとも。というわけでまずはバラモン教についてざざっとまとめます。


バラモン教のバラモンとは祭式を司る、つまり儀式を行う僧侶のことです。その起こりがいつからなのか、というのは明言し難いのですが、前1500頃にインド地域に侵入したアーリア人の自然崇拝の流れからできたものなので、大変昔であると言えるでしょう。最古の聖典『リグ・ヴェーダ』の成立が前1200頃と言われており、そのころにはバラモン教を軸に成立する社会が出来上がっていたという事なので本当に古い。
バラモン教において重要なのは「祭式」行為です。その内容は祭火に神への供物をくべて、燃やして捧げるというもの。その目的は死後の天上での再生、つまり生天です。


祭式を行うことで人は救われる→その祭式を司り行う人が権力を持ち、祭式を行うための富のあるものもまた栄える〉


そんな構造で出来る階級社会がヴァルナ制(カースト)というわけです。
インド哲学の主要な概念はここで育まれました。


例えば、
輪廻(りんね。人は何度も命を巡らせるという考え方。人生が苦しい理由。身も蓋もないことを言えば祭式を行うことの正当性を担保する論理)
解脱(げだつ。輪廻から外れること。バラモン教の場合はそうして生天が叶うこと)
(ごう、カルマ。人が輪廻する因果となる事柄。「「業の理法」、つまり「因果の理法」というのは、人が前世においてなした行為の結果を自ら後世において引き受ける原則のこと」(p108 『インド哲学10講』 赤松明彦 岩波書店 2018 以下『インド哲学10講』同じ))
辺りの概念がこの辺りから存在していたというわけです。

この後の宗教やヴェーダ学派もこういう概念を流用したり、否定したり、換骨奪胎したりとなにかと基礎になっています。


5、ファフナーとバラモン教、というかヴェーダ正統派


では、ここからはファフナーに描かれているバラモン教改めヴェーダ正統学派思想要素を考えていきたいと思います。


先に言うべきなのはヴェーダ学派って何?という点ですね。バラモン教が「ヴェーダ文献群」を聖典とした宗教及びそれに伴う社会共同体なら、ヴェーダ学派はヴェーダ聖典に基づいて哲学的思考を繰り広げた思想集団たちという感じ。今回はヴェーダの内容を否定した仏教などの思想(非正統派)に対してヴェーダを用いるバラモン教とヴェーダの権威を認めその流れをくむ正統学派という雑な対比をするのでご容赦ください。


というわけで本題。わたしがファフナーのどのあたりと親和性を感じたかと言うと、ずばりフェストゥムの在り方に関してでした。
ヴェーダ文献の中で最後に位置するウパニシャッド文献、及びそれに基づいたウパニシャッド哲学で一番知られている思想は「梵我一如(ぼんがいちにょ)」だと思います。これは宇宙の根源であるブラフマン(梵)と自己の本質であるアートマン(我)は本質的に同一のものであるという考え方です。


一つだった/ブラフマンだった始まりから分化して世界になり、名称がつけられ/認識され、アートマンが全てに宿る。分化をしても始まりは同じ。根源的一者/宇宙原理/ブラフマンとアートマン/個体の本質/魂/自我は同一である。それが梵我一如。ブラフマンとは宇宙の最高原理であり、天界と思われるものでもありました。つまり梵我一如を悟ることで人は解脱できる、救われる、幸せになれるという話。
ざっくりすぎる言い方をすれば「一は全である」というわけです。フェストゥムの同化と通じていると思いませんか?


また、ウパニシャッド文献をさらに深めて考えていく学派がありました。それがヴェーダーンタ学派です。この学派が説いたのが不二一元論(ふにいちげんろん)、つまり「(存在は)二つとなく、元は一つのみである」という考え方です。梵我一如をさらに突き詰めた論理ですね。「一」を「全、個無き無」と思うと、うわあフェストゥム。


一元、つまりブラフマンだけが絶対の真理であり唯一の実在であり、多様な現象界は幻に過ぎない。ブラフマンとは単一であり、無区別で恒久的なものである。それに気付くことで人は救われる。ブラフマンを知らず、無知のまま業を重ねて幻ばかりを見るから輪廻する。そこから救われるには思考・行為を停止することでブラフマンを悟ることができる、というものです。


このブラフマンの考え方って全てを無に、ひとつに還そうとするフェストゥムと親和性のある論理だと思います。同化=強制解脱であり至高善であるとかいうカルト宗教できそう。まあカルト宗教なんて言ってる間もなく世の中が壊れたのかもしれないですね、ファフナー世界は。


6、ざっくり仏教


はい、バラモン教だけで疲れるね。すみません。でもまだまだここからなんですよね。
例の如くファフナーにおける要素を考えていく前に、ざっくり仏教について見てみましょう。


仏教を起こしたのはご存じゴータマ・ブッダです。生まれは前463頃。
バラモン教の祭式主義などを批判し、従来の部族社会から逸脱した出家教団を形成。中道(苦行も快楽もやりすぎは良くない)を説き、「救われるには苦しみの原因を知り、苦しみの原因を取り除くことで(消滅させることで)涅槃に至ることができる」という思想を展開しました。苦しみを取り除くための正しい修行の仕方など、詳しいことが気になる人は解説書を読んでください。


7、ファフナーと仏教


ではここからファフナーに描かれる仏教要素を考えていきます。
まずはエメリーがシュリーナガルに根付かせ海神島に移したミール、「アショーカ」について話しましょう。正式名称が「アショーカまたは世界樹」とあり、この世界樹とは北欧神話に基づいたネーミングなのかなーと適当丸出しの感想しか抱けていないのでそこは詳しい解説者のところに行っていただきたい。ごめん。
アショーカについて調べてみると以下の通り。

阿輸迦樹 阿輸迦はアショーカasokaの音写。無憂と訳し、無憂樹ともいう。植物の名。マメ科に属し、華麗な紅い花をつける。仏陀の母摩耶夫人はルンビニーの花園に咲いていたこの木の花を採ろうとした時、仏陀を出産したと伝えられる。(総合佛教大辞典 2005 総合佛教大辞典編集委員会)

つまりアショーカとは仏陀が生まれた時にそばに生えていた木の名前です。

いやもう根付いたミールの木の下で新生皆城総士を誕生させるという意思しか感じない名前ですね。EXODUSで皆城総士を見送るための舞台装置の名前かと思いきや生む気満々、新生皆城総士を優先して見据えた名付け。

正気か?スタッフあんたらビヨとその主人公総士くんのことどこまで考えてたの?あんな妄想育児日記つけときながら?皆城総士を葬送する気で名前を付けたら沙羅双樹(さらそうじゅ)とかそっちになるはずですからね。……正気か?


さらに、アショーカとは前300辺りにインドにできた統一王朝、マウリヤ朝の最盛期の王様の名前でもあります。というか私はそっちばっかり考えていて仏陀の事はつい最近気づいたんですけども。彼は仏教に帰依して法/ダルマによる統治を目指した王様です。武による覇ではなく倫理を説き、仏教以外を弾圧することなく融和に努めたという辺りが竜宮島、海神島共同体に似合うのではないかな、と思います。


また、ビヨ4話でルヴィの言った「あなたが無力で無知だから」という指摘も仏教的であると考えられます。仏教において無知/無明(むみょう)とは「本当は無我なのにアートマン(自我)が体の中に存在している」と誤解している状態の事です。無我に関しては、「体の中に自我があるのならば人は誕生や老いや死などの苦しみをコントロールできるはずなのにできない。それは体にアートマンが宿っていないからだ」という論理です。「人は無明によって誤解し、誤解によって自己保存欲求が生まれ、渇愛/欲望するために苦しむ」という流れが生まれて苦しみに苛まれるわけです。「無力で無知」であることは「己の在り方の本質を知らず、煩悩・執着によって苦しみから逃れられないことである」と仏教的に言い換えられます。これはあながち新生皆城総士の状況と外れていることも無いはずなので、ルヴィの指摘が仏教の教えに通じるという考えは是と言えましょう。


そして新生皆城総士という存在。彼はアショーカの下で輪廻転生することで生まれました。アショーカ/無憂樹(むゆうじゅ)については前述の通り。輪廻転生についてもインド哲学においてほとんどの思想論者が唱える論理です。そして再三言われる「目覚めて」「お前の導く未来がある」というのも、悟ることで新しい思想を開く先導者であることを期待されているように取ることができます。「ゴータマ・ブッダは、「ゴータマという家系名の目覚めた者」という意味のパーリ語による呼称」(p21 『初期仏教ブッダの思想をたどる』 馬場紀寿 岩波書店 2018 以下『初期仏教』同じ)です。「どうか目覚めてほしい」と言われる新生皆城総士は仏陀ポジションであることを想起しながら描かれているとしても過言ではないでしょう。


あとは余談程度なのですが、仏教において苦しみの理由である渇愛/欲望はこの三つに分析されています。
・欲愛(よくあい。欲望対象に対する欲求)
・有愛(うあい。「生きたい」という欲求)
・無有愛(むうあい。生存の消滅を望む欲求。自殺願望)
この三つが苦しみの理由であるとされています。「ここにいたい」「いたくない」という欲求は苦しみの理由であるとはっきり仏教で言われているんですね。ファフナーはフロイトのデストルドーに基づいているのだろう(だって某福音兵器アニメがそうだしゲフンゲフン)と思いますが、仏教にも同じような考え方があるのでした、と言う話。


8、新生皆城総士とルヴィ・カーマ、あるいは仏教とバラモン教


新生皆城総士、ここからは総士くんと呼び表します、とルヴィ・カーマは二人とも同じくアショーカ/無憂樹の下で輪廻転生して生まれた者たちです。つまり二人とも仏陀としての性質を有していると言えます。前項でスタッフは総士くんを生む気でしかなかったと仏陀=総士くんの物言いをしましたが、総士くんだけではなくルヴィも同じく仏陀的ポジションとして生まれていると言えるでしょう。
また、ビヨ456話の時点で二人の関係は教え導く者と教え子です。諭す者と教えを受けて悟りに向かう者というのは仏陀と弟子のようです。
さらに、ルヴィの「すべての因縁を超越すること」という発言に注目したいのですが、これは仏教で説かれる涅槃(ねはん)に至る方法と通ずるものがあるのではないかと考えています。涅槃とは【「熱望」(貪(とん))「憎悪」(瞋(じん))「錯誤」(痴(ち))を消滅させた状態】とされます。総士くんが身体だけでなく心も島に帰還し、憎しみを超え、無知/無明から脱する道を説いていると考えるとまさにルヴィと総士くんは仏陀と弟子の関係と考えることができます。


が、しかし二人は同軸的に仏陀の要素を有しているだけではありません。対比、対立軸的に言えるところも多いのです。


まずはルヴィ・カーマに内包されるバラモン教要素について挙げていきます。


その① 「カーマ」とは何なのか。愛の神様の名前でもありますしそれを想起した人もいらっしゃると思いますが、今回はバラモン教と仏教についてなのでそちらは横に置いておいて下さい。さて、バラモン教は「人間の人生上の目的は三つある」と言いました。
第一の目的はアルタ/富、実利。富を持ち祭式を行えるようにせよ。
第二の目的がカーマ/(物質的、肉体的な)愛。子孫を生んで社会を繁栄させよ。
第三の目的がダルマ/法、宗教行為の実践。教義に努めて信仰厚くあれ。
ルヴィ・カーマのカーマとはこの第二目的のことではないかと推測します。EXODUS最終回のパイロット三カップルカットに「「産めよ増やせよ地に満ちよ」じゃん」と言っていた人もいましたし、ビヨ4話の和やかな帰還祝いも結婚の話題など「家庭」を強調しているような印象を受けました。新天地で運営が始まったばかりの、これから時間を重ねていく海神島共同体のコアとして、人の結びつきと社会繁栄を目的とする名を冠するのは似合っていると思います。(いやまあイマドキ結婚して子を産めというのがコアの第一義ってどうよというのは思う。ものすごく思うけど)


その② 「本当のあなた」と言う考え方。前項でも言っていたように仏教の教えは「無我」です。本当の自分、真なる自己という考え方。それすなわちアートマンはどちらかといえばバラモン教やヴェーダ学派の考え方です。「本当のあなたに目覚めて」と再三言っているのは仏教的であるというよりも梵我一如などのアートマン/魂を論じるヴェーダ正統派的であると感じます。(現代では自我の確立こそ人として自立する重要過程とされるのでまあこじつけ臭いと言えばそれまでなんですけど)


その③ 共同体のための自分という在り方。バラモン教とはその実そう呼ばれていた宗教があったわけではなく、インドを支配したイギリスがつけた名前でしかありません。ですから宗教と一概に言って何となく想像する信奉者の社会集団が形成されていたというよりは、その社会そのもののための慣習規定であった、共同体のための宗教であったというわけです。さて、ルヴィは「人々の共鳴が招く未来を示す」という共同体のために生まれたコアです。総士くんに対しても「誰とも繋がっていない」ことをマイナスポイント的に指摘しています。集団として人のつながりのあることを是とする立場というわけです。その①でバラモン教の人生目的を見たように、バラモン教は人間に共同体のための在り方を推奨します。そう考えるとルヴィはバラモン教の教えに近い主張を持つ存在であると言えるでしょう。


ではここからは仏教とバラモン教について考えます。


・まずは大前提として【6、ざっくり仏教】で言っていたように仏教はバラモン教の祭式主義を否定して生まれた思想であること。
・バラモン教で解脱と称する輪廻からの解放と仏教で同義なのは涅槃/ニルヴァーナであること。
その意味は「火を消す」です。つまりバラモン教の祭式における祭火を否定しているのです。仏教の主張は「火を燃やし続ける限り業は消えず、輪廻から解放されない」という、祭火を燃やすバラモン教に対する真っ向からの否定です。
・ヴェーダ正統派の梵我一如に対して仏教の無我。
ルヴィのその②で語った通りです。
・バラモン教で「カーマ」とは人生の目的として推奨されていることだが、仏教では愛欲/カーマは苦しみの原因であり取り除くべきものとしていること。
仏教的視点に立つと「カーマ」は否定すべき存在になるのです。別に総士くんに対して恋愛してくれるなとかそういう話ではないのであしからず。
・バラモン教が共同体のための宗教ならば仏教は個を追求する宗教であること。
バラモン教についてはルヴィのその③で述べた通りです。仏教は「部族社会から切り離された「個の宗教」として誕生」(p3 『初期仏教』)したものであり、バラモン教の社会規範から離れ、悟りに必要な他者の手が無い(祭式での祭官を必要としない)ものです。

このようにバラモン教と仏教は相反する思想を立てているのです。

ルヴィにバラモン教的要素が組み込まれ、総士くんに仏教的要素を組み込まれていると考えると、仏陀ポジションの総士くんは最終的な結論を出した時、海神島共同体に帰属せずに新思想共同体を作ったりする未来もあるかもしれませんね。しかしその場合でも破綻した決別にはならないと思います。仏教は祭式の火を否定しましたが、アショーカが座しているのは井戸やダムという「水」であるので。


9、マレスペロとジャイナ教


ここまでバラモン教及びヴェーダ正統派と仏教の二項対立的な論じ方をしてきましたが、ヴェーダに対する反正統思想を展開したのは仏教だけではありませんでした。その一つがジャイナ教です。苦行と不殺生が代表的なこの思想はマハーヴィーラによって開かれました。ジーヴァ/霊魂を認め、このジーヴァが輪廻するのは欲望することでジーヴァに流入、付着する業物質(ごうぶっしつ)のせいだと考えました。そこで苦行によって業物質を止滅することでジーヴァを解き放つことができるとしたのです。「杭のように突っ立ったままでいつづけること、すなわち直立不動、これが理想である。ジャイナ教は、この不動の実践によって、過去の行為の結果を消滅させるとともに、行為の結果を新しく作り出すこともない」(p74 『インド哲学10講』)のです。思考も行為も停止することが理想とされるという言い方も出来るでしょう。

インド哲学の救済の論理はフェストゥムじみているなんて【5、ファフナーとバラモン教、というかヴェーダ正統学派】で言いましたが、このジャイナ教の論理もマレスペロに通じているように思います。彼の祝福(なのか能力なのかは定かでないんですけれど)の「絶対停止領域」は全てを止めるものです。生命にこれ以上の行為を重ねさせない祝福とも言えます。フェストゥムの同化という祝福がヴェーダ正統派的祝福ならマレスペロの「停止」はジャイナ教的祝福なのかもしれません。まあ問答無用の強制祝福なのでそんなん望んでないわとなるのが当たり前なんですけれども。


10、インド哲学の説く苦しみと新生皆城総士の試練


ここからは余談というか私が何となく作ったトピックというか、これって何?をインド哲学的に解決を図りたい(解決するとは言ってない)コーナーのお時間です。


まずは総士くんに課された試練について考えてみたいと思います。


彼の特徴を考えれば、再三言いますが輪廻転生したことが上げられるでしょう。インド哲学思想において輪廻とは人に課された大前提のようなものでした。輪廻の本質は苦しみであり、「生まれることは苦しみ」であると考えられていました。ですから再度現世に生まれるという輪廻のループから外れて天界に至る解脱、救済を人々が求めたというわけです。それは祭式行為によって叶うといったバラモン教だけではなく、その後の正統学派や仏教なども同じように輪廻/苦しみの生からいかに脱出するかの方法を論じ説きました。つまり「輪廻転生を課された存在は解脱を目指す」のです。上で言ったように仏陀(解脱/涅槃に辿り着いた存在)ポジションを担っているだろう総士くんは「解脱する→再び生まれ変わる命を否定すること」が試練として課されているのではないかと考えます。抜けない棘すぐ抜けるの?感はあるけど。


では仏陀ポジションである総士くんが仏教でいわれるような苦しみを経験し、その解決を図る可能性を考えていきたいと思います。
仏教の教えには「四聖諦(ししょうたい)」というものがあります。これは「「高貴な者(聖者)たちにとっての四つの真実」を意味する。第一の「苦」(苦聖諦)、第二の「苦の原因」(苦集聖諦)、第三の「苦の停止」(苦滅聖諦)。第四の「苦の停止にみちびく道」(苦滅道聖諦)という四つの真実から成る」(p144 『初期仏教』)ものです。

つまり
苦聖諦(くしょうたい)→人生は苦である。苦とは四苦(誕生、老い、病、死)と愛別離苦(あいべつりく。愛する者との別離)、怨憎会苦(おんぞうえく。恨み憎んでいる者に会う)、求不得苦(ぐふとくく。求めるものが得られない)、五蘊盛苦(ごうんじょうく。心身が思うままにならない)のこと
苦集聖諦(くじゅうしょうたい)→苦聖諦の原因は煩悩(欲望や迷い)、我執(執着)の集まりであること
苦滅聖諦(くめつしょうたい)→煩悩や我執を滅した静かな境地/涅槃が理想であること
苦滅道聖諦(くめつどうしょうたい)→涅槃に至るには八正道(正しい修行)と中道(極端な苦楽をしない)を行うこと
というわけです。

四苦八苦の内容を見てみれば、生まれ病み(同化現象に蝕まれ)老いて(急速に成長し)死ぬ命に生まれ、妹を殺され真壁一騎を許せず思うままにいられない総士くんとよく対応しているのではないだろうかと思います。だから、この苦しみを与えられた総士くんは四聖諦が説くように「涅槃に至ること/憎しみや怒りといった煩悩、因縁を超えること」が試練となるのではないでしょうか。涅槃とは火を消した状態です。そこで燃やされているのは「貪瞋痴(熱望、憎悪、錯誤)」です。熱望の、憎悪の、錯誤の火を消せるようになることが総士くんに求められているのだと思います。

そしてそれは他者を許せるかどうかが主眼なのではなく、あくまで「自分の中でどう処理をするか」でしかないのです。真壁一騎も先代皆城総士も来主操も人を許す、人から許されることよりもまず自分で自分を許せるかどうかをテーマとして持っていたように思います(前者が無いわけではない)。総士くんもまた、あの日真壁一騎に会う選択をした無力な自分を許せるかどうかが重要になってくるのではないでしょうか(まあだからって信じていた世界を壊された事への悲嘆は本物なので真壁一騎や海神島はやっぱりなんかした方がいいと思います。罪は無くとも免責はされないぞ)。


あと、上でも言っていましたが「無知/無明」を脱することも総士くんに課せられた試練なのだろうと思います。無知であることは自分というものを正しく認識できないという誤認を起こします。その誤認によって渇望、執着が生まれます。渇望、執着によって再度の生存を望む/輪廻に囚われ続ける、ずっと苦しみの生を生き続けることになります。無知/無明を乗り越えること、停止することはただ総士くんがルヴィに誘導され戦う力を得るだけではなく、仏教的観点から見ても乗り越えるべき問題だったと言えるでしょう。


11、可能性の地平線ってどこなの?何なの?


存在と無の地平線のこともなんかフェストゥムの次元と存在次元を隔てる境界線で情報の分だけ広がってる、みたいなアバウトで合っているのかも分からない認識をしている状態でこれを論じるのは正直危ないと思うのですけれど、まあ与太程度にお聞き流し下さい。


作中で可能性の地平線は「そこに至ると究極の力が手に入る」「総士くんがそこに至る道標である」とされています。そしてここまでで総士くんは仏陀ポジションとしての作劇を担わされているだろうことを論じてきました。というわけで、インド哲学的観点から可能性の地平線とは何なのかを考えると「解脱/涅槃」の領域なのではないかと考えます。ここまでで何度もインド哲学思想の最終目的は解脱である、涅槃であると言ってきました。ヴェーダ正統派的主張から言えば、解脱は宇宙真理/ブラフマンと一体化することです。仏教的主張から言えば、「快楽・生存・無知からの心の解放」(192p 『初期仏教』)です。偽りの現実/無明から覚めて憎しみなどの因縁を超越することが求められ、試練とされているだろう総士くんがたどり着くとされている可能性の地平線とは、インド哲学に照らし合わせると解脱/涅槃の領域と結び付けることができるのです。そこが結局どこなのかはまだ全然考えが至りませんが、ひとつの思考材料とはなるんじゃないかなと思います。……解決してないね、ごめん。


12、「火」と言えばプロメテウス


インド哲学から大きく話をぶっ飛ばします。


涅槃とは火を消すことです。アショーカは火ではないから総士くんと断絶するエンドにはならないのではないか、と言いましたが、じゃあ「火」の存在って何だろうと思ったときに思いついたのが彼。

プロメテウスの名を背負わされた存在。

そもそもプロメテウスと言えばギリシャ神話で火を持たぬ人間を哀れに思い天から火を盗み、人に与えた存在です。その罰として磔にされ啄まれては再生する永遠の苦痛を与えられたものでもあります。「プロメテウスの岩戸」という名前は人類に火(情報、パペットなどの有益な力)をもたらす磔にされた者という意味なのでしょう。しかしそもそも「海神のミコト」くんは人類軍の蛮行(天地の時のように核の火も多分あったと思う)によってすべてを奪われ捕らわれた存在だったのを思うと、ネーミングセンス最悪すぎて吐き気がしますね。

そんな彼が憎しみを「燃やし」続けていると考えると、それは「火を消す/涅槃に至る」ことをテーマにされているだろう主人公に相対する存在としてぴったりなのではないだろうか、という話でした。


プロメテウスについてはまたいつかちょっとした見解をまとめたいと思います。


13、おわりに


まとめ方が下手なばかりにこんな長ったらしいものになってしまい申し訳ありません。そのうち分かりやすくパワポにできたらと考えています。
にわか仕込みの色眼鏡分厚い文章なので、至らぬところばかりかと思います。ファフナー本編に関しても勘違い覚え間違い履修追い付いてないなどあると思います。ここが分かりにくかった、ここが間違っているなどのご質問、ご指摘などございましたら是非コメントしていただきたいです。
頑張って789話に備えましょうね。ここまでお読みいただきありがとうございました。


参考文献


『インド哲学10講』(赤松明彦 岩波書店 2018)
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(馬場紀寿 岩波書店 2018)
『詳説世界史』(山川出版社 2016)
『総合佛教大辞典』(総合佛教大辞典編集委員会 2005)
蒼穹のファフナー究極BOXブックレット

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