モリミュと憂モリ原作漫画の相違点覚書

はじめに

「モリミュのこと原作と違うっていう人いるけどその言い方は違うじゃない?」
「通常の文脈で使用される「原作と違う」という言葉は原作レイプとかストーリー謎改変とかに言うものだからそれに合わせたら違うね」
「でもモリミュって原作と同じとは言えなくない?原作に誠実だから生まれたのは分かってるけどさって感じのオリジナル部分だいぶインパクト強くない??」
みたいなことであーでもないこーでもないとフォロワーと話してたことが前にありました。結局今でもモリミュはこうっていうのはよく分かってないです。
とはいえ、オリジナル要素というか補完部分加筆部分の熱量が凄まじいモリミュのどこがどう原作漫画から筆入れられているのかをちゃんと考えてみるのも大事だなと思い、この覚書をまとめました。
碧野の主観によって相違点を選びそこについての感想・考えを記しているので、抜けや解釈の相違があると思います。何かありましたら追記・修正なりなんなりしますのでお声がけ下さい。

↑モリミュと原作との差異の根幹はきっとここだと思った西森先生のポスト


Op.1

ダラムの人とのファーストコンタクトと相談役のやり方(悩みを相談されてではなく知恵を差し出す、貧窮を改善する方法を口にする)

原作では噂話と冷たい目をしてた町の住人に近づいて自己紹介してたところ。
主人公のプロフィールを噂という形で簡便に観客に説明、悩んでいる様子の人に相談されなくとも知恵を差し出すことで秀でた観察眼と知識の広さがあるキャラだと描き、市民に分け隔てなく接するという描写の積み重ねの一つにしてます。あとついでにお節介な性格だと見せてもいるんだな。

数学教授してるシーンがカット(親しみやすいちょっと抜けてるところが書かれてない)

Op.1で取り扱う話の中で大学に関するシーンはない(踊り子不採用なので)から蛇足になる部分は残念ながらカットされた。数学教授であることは聖典からの設定だし船の推理合戦に必要な部分なので最初の噂やダブリンとの会話のシーンでそうであると言及があったけど、今回はその程度の情報量で問題なかったともいえるのか。えーーんOp.3で見られるけど踊り子の教授も見たーーーい

地代を納めに来た市民の手を握る

原作では地代を納めに来た人の手を見て困窮している状況を読み取り「現行の契約は〜」の流れ。
土に汚れ傷ついた手を取ることで市民に分け隔てなく接する人である、虐げられるものの境遇に怒りを覚えるものであるという人物描写の説得力を増していると読めますね。土だらけでぼろぼろの手を握る↔新品の絨毯を汚すことを許さないという後のダブリンとの人物的対比描写にもなっているのかな。

ジュリアス・シーザーとリチャード三世の補完

「「漫画原作の2.5次元舞台」というだけでなく、古典演劇ファンも楽しめるような普遍性を持った作品にしたくて」(アニメージュ2021年1月号、56p、西森(以下敬称略))というのがモリミュに古典作品引用やオマージュが多い理由です。
ダブリンはシェイクスピアを諳んじる教育水準にある男(貴族)であるという描写。古典の引用をしてくる敵ってなんか賢そうで強そうに見えるので、原作より強キャラっぽさが増してんなと感じます。
まあ下賤な家畜どもには分からんって言ってるけど、原作でスザンナさんが初っ端からシェイクスピアを引用してるし(「天使にも似た悪魔ほど人を惑わすものは無い」『恋の骨折り損』より)、Op.1上演時期は原作でロンドンの証人(貧民の孤児にシェイクスピアは分からねぇ!と詐欺働こうとして全部諳んじて見せましょうかされる貴族の話)をしてた頃。ここで「よく育ち」までだけウィリアムが口にしてそのあとを言わなかったのは「イラクサという有害な雑草はお前だよ」の皮肉でしかない(しそれにダブリンは気づけない)ので、シェイクスピアは貴族の嗜みだよと言ってるのは空虚と愚かしさの描写としても描かれていると言えますね。

モランとフレッドのグレフル時点での参入

踊り子が不採用だからね……。

愛人が生んだ私生児の噂、モリアーティを追い出そうとする策略

気に食わない政敵は裏から手をまわし引きずり落そうとする、なんもしなかった原作より悪くて強そうな難敵度を上げている。相手は格が高そうなほど勝った時のカタルシスがあるから、より強そうに描くほど基本面白い。
次男と三男が私生児の噂、公式情報としては伯爵家直系の長男次男に貧民から引き取った三男(四男)だけど、次男と三男が金髪で似てるとなると引き取った貧民というのは前伯爵が愛人に産ませた子供だったんだろう、もしかしたら次男もそうだったのでは?赤子の時にスペアとして次男だけ引き取って三男四男は長男の訴えでしばらくしてから引き取ったんだよ。みたいに思われていてもおかしくないなと思ったので、この情報戦上手いと思いました。まあ全部ウィリアムの掌の上だし真実はもっとやばいが。
文字の書ける下民に違和感を感じない(タイタス・アンドロニカスのラヴィニアに寄せているフレッドの変装に気づかない)、リチャード三世をなぞらされていることに気づかないというのが、教養あるけど底の浅い悪役としていい塩梅をしていますね。

変装してダブリンのもとに現れるフレッド

フレッドの変装についてはこれ↓

三兄弟の秘密をここで暴露する

ダブリンの薬の回りを待つまでに、ちょうどいいので主人公たちがどうして悪の道を行くのか説明ソングを流しますね〜。緋色の瞳はどうしても必要な動機パートだから、計画の幕開けである船前に動機説明ソング入れられるここはちょうどよかったわけだ。

「僕はこの国が嫌いだ」をいう人(3人)

三人でジェームズ・モリアーティですからね。アニメではアルバートのセリフになっていましたが、3人で歌っていると一心同体の動機という説得力が増しているね。
まあウィリアムは最後の事件ではこの国が嫌いだを言わんかったのですが……

「人狩り」のエンダース及び仲間の貴族の描写

実際に人狩りしている描写を入れることでこの敵は許せないやつだ!と観客に思わせると同時に、ミュージカルなので歌がうめぇ=強そうなキャラだと感じさせる紹介パート。敵の格は高いほど良いからね。

船に乗る前のシャーロック(同居人候補者オーディションを先に持ってきてる)、「人狩り」のための部屋の謎に呼ばれて乗ったシャーロック

「数学者だ」で出てくるインパクトも最高だけど、主演のもう一人の出番を引っ張りすぎるのもアレだし。船の設計図を手に入れてそこに見える謎に惹かれて乗船したというのはミュのオリジナル設定ですね。アニメ・原作では事件解決の謝礼にチケットもらって乗ったという設定なので。
ウィリアムたちと同じきっかけ(設計図)に初めから目をつけていたというコミカルの中の切れ者描写にミュではなってるわけです。

フレッドの挑発と「無辜の人を殺さない計画」

原作がある程度進んでいてウィリアムたちのダークヒーローとして行える倫理の範囲もだいぶ確立し、亡霊の時に「遺体とはいえいたずらに切り裂くのは避けたい」と死体にまで気遣う様子があったのを思うと、ノアティック号で原作通り無作為の誰かを殺すように仕向けるのではなくフレッドに偽の被害者をやらせようとするのは先とのすり合わせのためにも妥当な改変だと思います。アニメでは別件の殺人犯をエンダースの標的にさせるという改変してましたし。
ただし、エンダースを読み違えてフレッド以外を殺させてしまう(計画を失敗する)というのは最強系完璧策略家主人公タイプのキャラクターには不似合い。実際そこで解釈違いだと思う人もいるそうですし。
それでも人一人の命が奪われることに悲嘆して怒る人であるという描写を優先するのはミュのウィリアムのパーソナリティに大きく影響していますし、この作品においてはそれが必要だったということだと思います。
「ノアティック号の中で、労働者階級の男性が一人殺されますよね。あそこ、自分たちの計画のために犠牲を出しているんです。ウィリアムも心を痛めてはいるのですが、そのことを『モリミュ』ではより明確に描写を入れています。そこが(鈴木)勝吾演じるウィリアムの起点になりました。」(アニメージュ2021年1月号、56p、西森)
ここのウィリアムの描き方の選択はモリミュらしさというかモリミュの芯、核のようなものであると思います。

他の人狩り抹殺と兄弟対話の挿入

バスカヴィルの要素を先取り。ドンパチ殺陣パートはやっぱりあった方が映えるよね。あと原作通りのお留守番ルイスだと出番がないし。ウィリアムの中にある葛藤を描くことでよりウィリアムの家族想いなところとエゴイスティックさを表しているので、やっぱりミュージカルはウィリアムの完全無欠なダークヒーローというパッケージよりも、悲しみ怒り愛情に葛藤する人間の部分を書こうとしているなと感じます。ミュージカルという媒体(歌というエモーションに強く働きかける手法で物語を紡ぐ舞台)だからこそその道を選んだとも言えますが。

自分からシャーロックに名乗るウィリアム

「ここは演劇的原理で、2時間半の尺の中で二人の関係を強く結んでおかなきゃいかなかったんです。それと何より、彼ら自身が名乗りたそうだったんです(笑)」(アニメージュ2021年1月号、57p、西森)
「『モリミュ』のストーリーはウィリアムとシャーロックの2本軸でいくという大前提があるわけで、「じゃあ、ここで何かあってしかるべきだよね」みたいな話をして」(アニメージュ2021年8月号、154p、西森)
ミュのウィリアム、原作と比べて対探偵の心理的距離近づき方が早いよねやっぱり……。

Op.2

バスカヴィルの時点でルイスの葛藤、ルイスとフレッドの対立は解決してる

ノアティック号事件にこの要素を詰め込んだので物語に余裕が出来ました。それのおかげで兄さんソングが生まれているので名編集ですね。

バスカヴィルの信仰

原作では妹を逃がそうとする兄や守ろうとする姉に「その無償の愛(アガペー)は芸術に値する」「極限の状況でこそ真にその美しき人間性を示す、それを集め供物として神に捧げる」としているけれど、人狩り被害者の人間性だの関係性だのを描写しだすととっ散らかるし時間がかかる。なので「貴族は狩りをするものでお前たちは獲物(=バスカヴィル一味はろくでもない裁くべき存在としての描写)」と「幼子たちがこんなに美しい姿(骸骨の山)に」だけで男爵の所業をまとめているんですね。神への供物が極限状態の人間性コレクションか死体の山かという違い。
原作だと人間性がどうとか言いながら首をホルマリン漬けにするグロ鬼畜変態のインパクトがでかすぎたので「何が神への供物やねんどう考えても悪魔召喚の黒魔術やろがい」としか思えなかったんですけど、ミュは骸骨の山を美しいというだけにまとめられたことで、無垢な子供の命を神への供物としていたと結構素直に受け取れるようになったと思います。聖書でも我が子の命を神に捧げる親はたまにいるので、生贄という行為自体は魔術的な怪しさと案外遠い。
とはいえそういう生贄は「己の大切な肉親だとしても神に契約として/信仰として捧げる」ことが肝。なのでバスカヴィル男爵の所業は己の心の痛まない貧民街のこどもを嬲り殺してただ己の興奮と愉悦により死体の山を築いただけなので、救いようのない悪魔であることに変わりはないんだな。

バスカヴィルの後始末はマイクロフトとの取引としている

これもノアティック号で名乗ったウィリアムのような演劇的原理の利用ですね。誘拐事件をやっていないのでマイクロフトとモリアーティ陣営がどんな距離感にいるのかまず明示しなきゃならない。「アルバートの上司にして英国政府の中枢、腹を探り合い対峙する相手」がどんなキャラクターなのかを醜聞の指令の前に書く必要がありますから、ここに取引を入れるのは必要なことなんすね。

列車に4人で乗ってる

モランとフレッドの出番増量。おかげでシャーロックに向かう殺意が原作よりも増し増している。

キャッチミーの印象

なんというか、あの原作絵の印象を落とし込んだメロディーというにはあのさぁ???蠱惑的というか扇情的というかな暗黒微笑ちからがびっくりするほど低い!!!!いやまあ流し目を受け取った方は色気を感じていたそうなので(2020ジャンプフェスタミニコンサートのトークより)挑発的な艶美さはあったっちゃあったんすけどもね、それにしたってですよなんだあのメロディーは。そんな清楚な音になりそうな作画の大ゴマちゃうかったやろがい。

シャーロックに会うために列車に乗ったウィリアム

「Q,列車での再会のシーンにもアレンジがありましたよね。
A,はい。勝吾と相談して、「ウィリアムはシャーロックに会うためにわざと同じ列車に乗った」ということにしたんです」(アニメージュ2021年1月号、57p、西森)
演劇的原理の一環としてここもそういうことだそうです。「今度メシでも行こうぜ先生」に「えぇ」って言っちゃったりもしてるので(原作は答え返してないし学生回で「約束したろ」「答えた覚えはないのですが?」ってやってる)、やっぱりシャーロックに対しての心理的距離の近づき方が原作と比べて早いですねミュのウィリアム……。
一応原作でも(というか本編に反映されていない設定レベルで)ウィリアムがあの列車に乗ったのはシャーロックに会うためとはされているそうです。(漫画投稿者がもらえる特典冊子か何かで竹内先生がそう書かれていたとのこと)

ロリンソン男爵の悪行の被害者(マルチナ)遺族補完

原作では仮面舞踏会の時に「ロリンソンは悪いやつなので罰を下しました」というアイリーンに見せるデモンストレーションで、アイリーンもロリンソンの劇場火災を友人が被害を受けたものとだけ知っていた程度。マルチナの自殺もロリンソンとは別の理由でした。けどそれだとアイリーン軸に進んでいく醜聞のストーリーにウィリアムが関わる点が全然ない。なので「ウィリアムは犯罪卿として依頼を受けた、その内容はアイリーンの犯罪の動機根幹であるマルチナと関係していた」と改変されています。
これによって原作で深く突っ込まれなかったロリンソンの悪行の詳細と殺害されるまでの話を書いているとともに、依頼を受けることで嘆き悲しむ人に手を差し伸べたいと強く願い行動するウィリアムの根幹ソングといえる「この世界を」の導入につないでいるので、補完が本当に上手いな。

「馬鹿げた差別明らかに不合理だ同じ人間なのに」の挿入

「Q,「科学は差別しない」は『モリミュ』オリジナルですね。
A,原作でも「科学はみんなに平等だからな」というセリフは出てきますので、それを歌で膨らませた形です。アイリーンが児童劇団の女の子に語った自由平等の精神を、ちゃんとシャーロックも受け取めたのだということです。……そのやりとりをフレッドがこっそり見ているというのも重要です。おかげでウィリアムも、アイリーンを引き入れる策を進められました。」(アニメージュ2021年1月号、57p、西森)
「「科学は差別しない」は『モリミュ』オリジナルで補強したところですよね。やっぱり「主人公にはこうあってほしい」という気持ちはありますね。ただの推理オタクではなく、その動機にドラマが欲しいというか」(アニメージュ2021年9月号、149p、平野)
アイリーンとシャーロック、そしてウィリアムが持つ理想(自由平等な世界)は同じと示すために原作のシャーロックの言葉をより膨らませた歌にしている挿入です。「馬鹿げた差別」からはシャーロックのメロディーと同じ音をピアノが弾いているので、ウィリアムが考えていることも同じという暗喩ととれると思います。

ロリンソン抹殺の補完とドン・ジョヴァンニ、黄金の軍隊引用、挿入

原作ではいきなりぶっ倒れて死んじゃったロリンソンの殺害方法をマルチナに変装したフレッドがベラドンナの実を食べさせて殺すと補完。
ドン・ジョヴァンニになぞらえてロリンソン殺害を行うのと、ロリンソンの所有する劇場でドン・ジョヴァンニが上演されている劇中劇が入り乱れる縦横無尽さがものすごい。そこにロリンソンに与するかつてのモランの部下(ミュだとレイモンド、原作で敵対した部下はダリル)というミュで採用しなかった黄金の軍隊要素まで持ってくるものだから大渋滞ですよもう。
レイモンドを作ったのは①黄金の軍隊要素の挿入(悪行を成す主人とそれに付き従うものとしてモランに対比される敵役)と②ドン・ジョヴァンニの従者のレポレッロ要素だと思います。
父を殺され復讐せんと志すドンナ・アンナに追いかけられて、最後は彼女の父騎士長の石像によって地獄に引きずり込まれるドン・ジョヴァンニという構図を、殺されたマルチナ・父(依頼主の復讐希望理由の二人)とロリンソンに合わせていくのが大変美しい構図で好きです。生きていた時にプリマドンナになれなかったマルチナが地獄からドンナ・アンナ(プリマドンナ)の旋律歌って手を伸ばし近づいてくるあの凄み、最高。
モランたちが劇場裏でレイモンドに会ったときに歌われているのはドン・ジョヴァンニ一幕終わりの曲で、歌詞の内容は
「震えよ極悪人 すぐに全世界が知るだろう  その恐ろしく忌まわしい罪を  お前の相当な残虐さを!
聞け復讐の雷鳴を  それはお前の周りに轟くのだ お前の頭上に今日にも天の稲妻が落ちるだろう」
で、ロリンソンが死ぬとき(地獄の業火にその身を焼かれ~の時のアンサンブルパート)はフィナーレの
「悪人はその生の報いを受けるのだ」
の部分が使われているので、本当に意味がロリンソン抹殺作戦の進行度状況そのまんまですね。

文書の中身をレストレードも知る

「2作目ではさらに本筋に関わってもらい、シャーロックたちの“チーム感”を出しました」(アニメージュ2021年1月号、57p、西森)ということなので、シャーロック陣営の中であぶれさせるのはしゅんりーさんの出番量的にもね、ということですかね。国家機密知っちゃったね警部……。

Op.3

アルバートの懺悔

Op.3上演時の本誌は61話(モラン捕獲回)だったのでアルバートからウィリアムへの感情がどういうものかの開示は思いっきり原作に先んじていますね。担当さんへの入念なヒアリングの末に完成作品で担当さんを大泣きさせ、次月から始まるアルバート回想回の筆を三好先生の想定より進ませて一話増やした疑惑のある曲ができたわけなので、クリエイティブの熱心さが大変な循環で原作に返ってるな。

風の歌

「風」は原作最後の事件に西森先生がいたく感銘受けた後にOp.3の台本を書いているときのポストが初出です。オタクになんだそれはと白目剥かせたところから始まった脚本家の直感(「(孤独の部屋に風が吹くという言葉は)僕の直感ですね。」アニメージュ2022年2月号、142p、西森)という名のオリジナル概念なんですけど、いつ見ても何言われてるのか分かんないな……。手紙は原作で描かれたといえそんな言語化する??という点に関して原作にないオリジナル度の高さは随一ソングだよ。キーワードの出どころが脚本家の直感だぞ????

ジョンの医者視点冤罪絶許理由

「ジョン自身も医者だし、Op.2で自分も冤罪事件に巻き込まれたというのもありますね。……エダルジ事件という冤罪事件をモデルにして作りました。」(アニメージュ2022年2月号、140‐141p、西森)
原作で描かれていない空白にいる冤罪被害者がどんな人物だったか、そこにどんな嘆きがありどんな声で助けを求めていたのかをコナン・ドイルが関わった事件を基にして補完する技巧、初めて見たとき本当にゾクゾクしましたね。こうして描かれなければ冤罪被害者のことはセリフのひとつふたつ程度の認識だけで考えるのをやめて、そこにどんな理不尽があったのか気づきもしなかった原作読者の自分の酷薄さを突き付けられた気がした点が好きです。自分の思考範囲で届けない読みと想像をもたらしてくれるところが私がモリミュを愛する理由の最大ポイント。

狂騒曲時点で「犯罪卿は義賊」考察を聞くジョン

ドワイト夫人からの依頼を受けて夜盲症の医師に犯行は不可であると見抜いたジョンに、それでも能動的に動かないでくれと説得するためには「犯罪卿は義賊である可能性が高い、今回も手を出そうとするはずだから俺たちは下手を打てない」というのが一番自然な形だと思います。別にシャーロックがジョンに犯罪卿に関しての推理を黙っておく理由もないわけだもんね。
ミュはレストレードが呼びに来るまでの行動が描写されているので推理開示の時間がありましたし、それだけ原作よりもシャーロックが「犯罪卿が義賊である可能性」を強く感じているということかと。

アータートン訴追パート

原作では更迭されたという新聞記事を見るだけですが、冤罪の証言者になりに来たからにはきっちり追い詰めるところまでやるように改変。弱きを助け強きをくじく正義のヒーローらしさが増してますね、シャーロック本人のもどかしさはどうあれ。
アータートンは実はミルヴァートンとつながっており、だから亡霊の時にマスメディアで先導された市民の暴動を彼は一番に恐れた(それを焚きつけることができる奴を知っているから)し、度重ねていた冤罪事件が今まで暴かれなかった理由もそこ(脅迫の対価で情報統制してもらっていた)という補完も美しい。ミルヴァートンが歌声と合わせて原作より数倍手強そうになっていると感じます。

学生回問答と回答者探しの順序逆

「原作だとビルくんのドラマで終わりますが、むしろウィリアムとシャーロックのドラマで終わらせたい。そして「最後の事件」編に向かわせたいと思って」(アニメージュ2022年2月号、141p、西森)
「会えてうれしい、話せて楽しい」が無邪気に無防備に滲んでいる時間の中で、二人で平和に謎解きして一人の青年の背中を押すことができた幸せを分かち合った上で、その時間を終わらせるように「犯罪卿は義賊か、そうだとしてシャーロックはどうするのか」の答えを出すという流れにしたの、情感たっぷりで最高なんだけど原作学生回がこんな切なくて湿度高い回だった記憶はないんだよな?

「適いますよ」が言えないウィリアム

「エピソードの前後を入れ替えた関係で、『モリミュ』ではその一言は削りましたね。それが入ると、最後の「またロンドンで会おう!」までの流れが、ちょっと丸みを帯びてしまうというか」(アニメージュ2022年2月号、143p、西森)
上演当時にいただいたマシュマロで「Op.2時点でもうウィリアムはCatch me you can do.って言って情緒前倒ししているからいまさら言わんてもいい」「嘘でも死んでもいいを肯定できなかった」説聞いてあ~~~~ありありのあり!って思ってましたが、「またな」の切実さを削らないようにという観点は考えたことなかったのではぁ~~~~~~~流石脚本家なるほどな……と感嘆しました。あのひっそりと言葉にも出さないまま終わりを始めてしまったけれど、それでも次の約束をつなぎたくて声を張った二人の想いを最大限お膳立てするためというの、染み渡りますね。

Op.4

イントロダクションで貴族と市民の隔絶を現す

vs脅迫王のOp.4の範囲って戦う相手の最たる存在がミルヴァートンという形をとっているので、「貴族と市民の絶望的な格差社会の隔たり」の話ってちょっと印象薄くなるんですよね。原作騎士回も犯人の心理描写およびそこにお膳立てた野郎の最悪さが圧巻過ぎて、選挙法改正と平等の希望云々はホワイトリーというキャラクターの装飾範囲の話(物語の主題になるほどの重要情報ではない)と私は認識して最初読んでたので。でも5のクライマックスのうちのひとつ(火消し)につなげるには「貴族と市民」の対立項の印象を薄めるわけにはいかない。
「Op.5は「対立してきた貴族と市民がどう動くのか」という話になります。そこへ持っていくためにも、Op.4でその前提をきちんと踏んでおく必要がありました」(アニメージュ2023年8月号、173p、西森)
なのでここでがっつり貴族と市民の差別と怨嗟を最初から歌い上げてがっつり観客の印象に残してきて、「平等への希望の光を絶やしてはならない」の一念を原作より強く持たせる流れにするのは流石モリミュの味だと思います。

警部主任がいないので代わりに対応する警部

原作ではパターソンがホワイトリーの対応をしていたが、4には輝馬さんが出ないのでレストレード警部が対応。「主任は別件で外しているのですが」と前置きする丁寧さ。

マクベスなぞらえ

早いねん。原作ではマクベスはウィリアムの最後の事件で見てる手のひらの血の幻覚とアルバートの回想に「勇気」要素やねん。
「「ミルヴァートンがホワイトリーに殺人を犯させる構図」をどう見せるか考えた時に、ふと思い浮かんだんです」「手を拭えども拭えども血が消えないというウィリアムは原作のこの先にも出てくるのですが、マクベス夫人と二重写しにしたいと思いました」(アニメージュ2023年8月号、173p、西森)
正典でミルヴァートン邸に忍び込んだホームズが目撃したのは夫を脅迫によって自殺に追い込まれた未亡人だったので、そこの配置的にもホワイトリーとウィリアムがマクベスと夫人じみたことになるのはなんなんでしょうかね……。

君にも弟が削除

「……惨劇の情感を保つために、状況を説明するセリフをなるべく削いでいきました。それに、ホワイトリーの話を聞いているウィリアムが、ものすごくいい反応をしていたんですよね。……あの表情と、その後の言葉のかけ方で、もう十分寄り添えた感じがしました。ならば余計なセリフはいらないだろうと思いました」(アニメージュ2023年8月号、173p、西森)
弟を持つ兄としてアルバートを身近に思う→その「弟」であるウィリアムの言葉に耳を傾けようという気持ちに傾くという流れかなと原作を読んだ時に思っていたので、「君にも弟が」が削られたのは結構寂しかったクチの読者です。でもそのワンクッションがなくても確かに寄り添うウィリアムの優しさと、それに戸惑いおののきながらもホワイトリーが手を取るに至る過程に不自然を感じなかったのでなるほどなあと納得しました。

罪を我々が被る→僕が被る、僕こそが犯罪卿/単独犯への道を突っ走るし匂わせまくるウィリアム

「仲間たちが「ウィリアムは一人で死ぬ気なのか!?」となるタイミングを、原作よりも早めたかったんです。彼らの心の奥が見えてこないと、やはり一つの演目として成立させづらくて」(アニメージュ2023年9月号、147p、西森)
後ろの兄弟の顔を見てみろコラ。
ウィリアムは最後の事件で単独犯として走りぬけてしまうことが確定しているので、そこと整合性を取り、苦悩のモノローグソングを歌う空白を作り出しているということでしょうか。あとウィリアムはもう3で「君たちがとても大切だから僕はひとり ただひとり」と歌ってしまっているので、心情的にはそう急な方向転換ではないんだな。家族が仲間が大切だから一人で茨の冠を被り十字架(罪の衣)を背負う、そういうキャラですという描写を原作の空白にミュでは描きこんできたので、そこに合わせたらミュのウィリアムは単独犯宣言に至る男となる。うーん自分たちが重ねてきた描写と培ってきた思考・感情に真摯。

トンガの射殺シーン

「これはミルヴァートンの射殺シーンを活かすために意図的になくしました。人を殺すというのがどれだけ重いことか、シャーロックに負わせないといけないので」(アニメージュ2023年9月号、147p、西森)
アニメでも改変していましたし、「シャーロックが人を殺す(疑惑の行為をする)」というノイズを取り除いてクライマックスに最大限重みを積む物語の力学ですね。

結婚詐欺無し

尺がないからね……。あとコンプラ的にどうなん?感も多少漂うパートでもあるし。でもこのドタバタ面白かったしシャーロックに結婚詐欺を小説で押し付けるジョンくんに爆笑したので見たいんだよメディミでも。ステの次作が来るときにはワンチャンあると期待してもいいでしょうか?

全てプラン通り、にルイスが反論する

一人罪を背負って死のうとしているのが原作と比べて分かりやすくなっているウィリアムなので必然的に反論の余地というかとっかかりは生まれるんですよね。優しいお兄ちゃんの「大丈夫」で封じ込めて背を向けやがりますけども!

書斎の悪夢とアルバートの懺悔挿入

空き家アルバートの回想で出てきた机に突っ伏すウィリアムは「罪に塗れ嘆き苦しむ」姿の絵として描かれているので、それを騎士後かついよいよもって後戻りできなくなるミルヴァートン襲撃前に持ってくるのは非常に正しい逆算再構築だと思います。初見時全然予想してなくて心臓がヒュンとなったけどさあ。身構えが甘すぎる。

モリアーティ陣営全員でミルヴァートン邸襲撃

「原作コミックス2巻の麻薬組織の話ができなかったためです。アルバートはジャック先生に仕込まれているし、白兵戦も強いだろうと。彼の動的な部分も見せておきたいと思いました」(アニメージュ2023年9月号、147p、西森)
アルバートの殺陣を今までできなかったからせっかくねじ込める機会だレッツゴー!のウキウキ感がここに見えるの好き。こんなんしかほほ笑ましさがねぇ。

お互いに銃を向けないウィリアムとシャーロック

「演者たちが逆提案してきたんです。ミルヴァートンにのみ銃を向けながら、二人が練り歩いてクロスするというのも」「そういう二人の世界が出来上がっていたんです。そこは彼らの気持ちのままに演じてもらいました」(アニメージュ2023年8月号、172p、西森)
「平野:この二人は銃口なんて向け合わないでしょ。向けたいとも全然思わなかったし。
鈴木:そうだね。原作だと銃口を向けた絵の方が分かりやすいんだろうけど、演劇としてやるのは違うというか、これまでの流れ的にも不自然だろうと思いました」(アニメージュ2023年9月号、145p、鈴木・平野)
モリミュ初演(2019年5月)のキービジュ及びオープニングが漫画5巻特典の再現で、その頃の原作話数は34話(ロンドンの証人第二幕)くらい。46話47話(犯人は二人第三、四幕)の扉絵は上記特典の2人をコピーしてきたやつではあるんだけどそれがつまり犯人は二人クライマックス内容ド直球であるため、として「ウィリアムとシャーロックが銃口を向け合う」構図というのはかなり重要というか、旨味凝縮ポイントというかなワケですよ。特典絵をわざわざ回収してきて扉絵に使う程度には原作で意味、物語上の位置エネルギーが強くある(ミュ初演キービジュなんだから余計そう)構図なんですよね、お互いに銃口を向け合う、その上で敵対する第三者に同時に意志を持ってそれを向けるというのは。
それを「(いままで演じ重ねてきた)この二人はやらない」という感覚と解釈でひっくり返すの、原作絵の再現という軸の評価を彼方にぶん投げてでもミュージカル舞台上でここまで描いてきたウィリアムとシャーロックに向き合っていてすさまじいですね……。
インタビューが公表されるまでにも観客側が「お互いに銃口向けんのかーい!まあミュの二人ならやらんか」で原作から改変されているのに大体納得してた程度に、ミュのキャラ描写は原作に誠実ながら相違していることを受け入れられていたのがおもしろかった覚えがあります。

誰しも自分が可愛い挿入
僕の計画した通り挿入
証拠返す保証は無い挿入
犯罪者になるなど、「お前の望み」挿入

三つ巴に見せかけてそんなことはなかったぜ。ここの挿入は改変というより原作の言い争いをより深めている感じかな。計画通りというそこのお前、議員殺害からここに至るまでプラン的に都合はいいけどだいぶ玉突き事故してません?と思うんですがね?
「「リアムの望みのため」は原作サイドとの打ち合わせの中で出てきたワードなんです。もちろんジョンを救うためではありますが、ウィリアムの想いも汲み取った上での行動だというのは、分かりやすく入れたほうがいいだろうと」「シャーロックは、自分も背負おうとしたんです」(アニメージュ2023年8月号、172p、西森)
「こいつくたばること望んでる」「ええその通りです それが僕の望み」と言葉を交わしていて、議員殺害事件の真相も見通しているシャーロックは「ミルヴァートンを殺す」というウィリアムの殺意と動機を理解している。でもここで犯罪卿を現行犯で逮捕したくない(まだ彼の謎を解いていない)し、友情にも似た感情を抱いている相手に殺人をさせたくない。後者はジョンを遠ざけたのと少し似た友情思考回路だな。
ミルヴァートンはもう野放しにさせられない、ウィリアムの殺意を知っている、ウィリアムにミルヴァートンを撃たせられない。原作でも不退転の覚悟は問うていたけれど、「彼はこの男の死を望んでいた、それを自分も背負おうとした」とより深化した共犯関係性がミュのミルヴァートン殺害にはあったということですね。

撃つ撃たない葛藤挿入

ミュのシャーロックは社会生活不適合者な変人度が爆発しているけれど同時に人間性の成長度と人としての情や善性が大変輝いている男だし、そもそもミュの作風として感情の深さと大きさがどっかんどっかんするし表に出ている(原作のハードボイルドな一面ってミュージカルというジャンルでやるには難しいよね)ので、人殺しという結果に対してあっさり引き金を引いたらそれはキャラ描写的にはむしろドがつくマイナス要素になっちゃう。葛藤して、それでも撃つことを選んだというのはミュのシャーロックのキャラ性を際立たせる一助になっているし、それを魅力的に見せられるのが歌があるミュージカルの旨みなんだと思います。

別れ際にも銃向けない
相手に銃を向けないの徹底しとんなーーー。原作は戦いの火ぶたは切って落とされた、とか最終決戦への一本道が定まった、とかの佳境に向かう宣戦布告だと読んでたんだけど、儚く断ち切れそうな約束の再確認とかそういう湿度になってんのはなんなんだ。原作と比べて共犯となった二人という肌感覚が大きい(犯罪教唆ヴォカリーズと「リアムの望みのためこの引き金を」)のもあるんかな。

シャーロックの憔悴
覚悟を決めて罪に手を染めたって罪悪感を抱かないなんてことできるの?に「無理です」してるウィリアムに似ているところがあるシャーロックだってそりゃそうですよ、という憔悴。回を重ねるごとに押しつぶされてった印象ですが、それだけの罪悪感と苦悩、憔悴を抱えるほどこれまで善き常識の中で生きてきた青年だったという等身大さと、それでもと手を伸ばし歌い吠える熱の一途さがミュのシャーロックの味ですよね。原作は軽薄な態度で殺人を犯したことに対しての感情を覆い隠している(というかそこに筆が重きを置いていないのでやっちまったけどあいつは死ぬべきだし、って感じの態度に見える)ので、やってしまったという罪の重みに潰れるのはかなり明確な改変。だけどそうして潰れるような心根の人間だからこそウィリアムは待っている、というつなげ方が見事。
そうなるとあんなんなった男に自分を殺させようとするのひどすぎませんかリアムさん問題がポップしてくるけど、「計画成功目指して自分を殺してもらうために動いてもらいやすくなった」と計画上の動きをここで説明しておきながら実際のところは「最後にそばにいて看取ってもらいたい」が正しいのでまあ、うん、となるかな?
ならんな。

Op.5

犯罪卿の正体に疑念、否定を口にするものが描かれない

原作では「『小惑星の力学』のモリアーティ君か!?」「あのダラム大の!」「ウィリアム様!?ウソよこんなの!!」「どうせ悪質な飛ばし記事でしょ!証拠は何処に書いてるの!!」と困惑していたり信用していなかったりする人が描かれているがミュージカルには出てこない。ヒステリックに犯罪卿の正体が割れた!ウィリアムだ。あいつを捕らえろ、罰せ!と怒号ばかりが飛び交う。ルイスに聞こえる声はこれだったというのもあるだろうけれど、上記のような反応は言ったら犯罪卿とMプランには不純物の反応だから、物語上で取り除いたのかな。
あと民衆の反応からハーシェル男爵殺害、犯行声明まで一曲で駆け抜けるから「犯罪卿はウィリアム、ウィリアムが殺人を犯したのは事実」以外の反応は間違いになって話が散らばっちゃうのもあるだろうね。

エヴァン弟(ギルバート)いない

演じる人足りないので……。
原作では怯える弟に対して兄であろうとするエヴァンくんはルイスを守ってきたウィリアムに対応していたキャラ造形と読めたんだけど、ミュだと純粋な子どもにその父への残忍な殺戮を見せ、自分を盾にしようとした父をそれでも守りたいと思った覚悟を受け取らないというギルバートくん抜きのしんどいポイントでエヴァンくんが構成されてる。犯罪卿が殺したものはそれがどんなに悪人でもそれを慕う存在があり、殺されたら憎悪するという「犯罪卿がやっていることは私刑だよ」の描写なので、「父を守ろうとした、それを踏みにじられた」という少年キャラというだけで十分描くべきものは描けていたということですかね。

長官がモリアーティ邸を訪れ兄様に「死は逃げ、生きて共に悩もう」と告げる

「アルバートが「生きなければ」と思うまでにどんな葛藤があったのか、それを語れる相手は、マイクロフトしかいないだろうと。マイクロフトも一族の罪を真摯に背負っている人で、彼なりの苦しみがあるのだというのをここで描きました」(アニメージュ2024年3月号、151p、西森)
原作で「生きろと願われた」「故にこそ生きる、そうしてともに罪を背負い生きてこの身を焼かれよう」としたアルバートの描写の空白に兄たちの対話が加筆されたパート。もともと死にたかったところにウィリアムという劇薬を投入されてここまで生きてこれたような、ここに来るまでにくそ重モノローグソング歌ってきたアルバートが「生きて罪を償う(ただしかなりネガティブ)」と考えるに至る思考の導線として描かれることでアルバートがより分かりやすくなったと思います。愛しているからウィリアムを死の元に逃がし、最も罪深い自分が生きて罰を受けるというのは原作の「生きてこの身を焼かれよう」から数段何考えてるのかがよく見えるなって思うので。
あとマイクロフトがMプランの類似例ともいえるようなホームズ家の業に対して、どう思いながら生きているのかの表明を出すのも重要点だと思います。生きることを選んだ後にも、モリアーティ陣営は孤独ではない(罪を犯し償うという道の中には理解者たるホームズ家がいる)ということですし。

市民の嘆き、困窮描写が増幅

犯罪卿がやっていることは国にどんな影響をもたらしているのかを悲鳴と嘆きと怒声で克明に描いてくる民衆にフォーカスしていくスタイルのモリミュ真骨頂パート。
犯罪卿は罪ある悪魔を殺すのみではない、経済的困窮者も社会的弱者も無辜の市民も苦しめ、倫理を理性を削り奪い、そうして死へと追いやっていくのだと描く許されざる者っぷりが鮮やかに浮き出てるのがしんどくて美しいね。

ルイスとフレッドがシャーロックに内通する場所が馬車から教会の礼拝堂に

馬車の表現は今までにやってきたけど対面式の座席の馬車を表現するのはちょっと難しかった?というのはただの邪推ですが、醜聞のアイリーン・シャーロックと文書の交渉をした礼拝堂に対応させた場所に改変したんだと思います。「自分たちの手では命を守れない人を、あなたに助けてほしい」と託す場所。醜聞の時はシャーロックがそれをモリアーティに告げたけれど、それが反転してシャーロックが言われる側になっているという形に。

「シャーロック・ホームズの敵の話を終わらせてくれるかい」を言わず「ジェームズ・モリアーティの物語を終わらせてくれるかい」に

「敵の話を」は52話の最後のセリフで「ジェームズ・モリアーティの」が53話最初のセリフ。
どっちか一つを選んだといえばそれまでだけど、己をシャーロックの敵であると言わないところがミュらしさを感じるなって思ったのでちょっとここをピックアップ。
モリミュでは「これはジェームズ・モリアーティ、或いはシャーロック・ホームズの敵の話」をOp.1の文章のイントロダクションに書いてます。モリステはcase1の冒頭で兄弟とウィリアムが読み上げてますね。後者の印象が強くて「あれ、そういえばモリミュでは音声で「敵の話」って言ったことないな?」と気づいたときに不思議な心地になりました。

221B訪問でウィリアムが座る

原作では部屋を訪れるけれど扉の前から動かないウィリアム。
「主演二人に自由に立ち回ってもらった結果です」「座るならコートを脱ぐべきで、とはいえ、そこまで長く滞在するわけでもないし、ならば立ったままでいこうという話になっていました。ところが、勝吾としては我慢できなくなったのか、結局東京公演の途中から座り始め、そこに良が寄り添いました。結果、無邪気なくらいの和やかさが出ましたよね」(アニメージュ2024年3月号、149p、西森)
学生回の続きとして、約束した通りに友達とちゃんとした形でロンドンで会えたことをこんなに大切にかみしめるの、原作でそんな読みしたことないのですが(n回目の感想)。椅子はハドソンさんが愛をこめてひじ掛けを撫でたり突っついたり、ジョンがどっかり座って「お前はお前を愛してほしい」と願ったりする場所で、シャーロックの心の象徴として機能していたので、そこに招く、招かれて座るというのはだいぶお互いの友情というか親愛、信愛の表明として力強ーい!?とのけぞりました。
あと、「ようこそ、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ、教授」が原作では淡々と、シリアスな顔でシャーロックは迎え入れているのに、ミュは「きょ~じゅ?」ってちょっとおどけて笑いかけながら言ってウィリアムのポーズをミラーリングするものだから、もうその瞬間に空気が学生回の続きに接続されちゃうんだよ……。

「この世界が嫌いだった」がカット

原作ではなかなか描かれず見えなかったウィリアムのついに来た内心(しかも動機根幹)の告白だったので、ここの動機って大事だと思ってたんだよね。ミュは三兄弟の秘密で「僕はこの国が嫌いだ」ってはっきり歌っていたから、5でもはっきり言うだろうと思っていたのだけれど、カットされてあら?となりました。
でも、人を愛し慈しんでいるからここまで走ってこれてしまった面が大きいし、手のひら思いっきり返されて罪の衣着せられて翻弄されてもなお英国に平等の希望の光をと願い、「怒れるものとともに涙を」と心の根幹で歌うミュのウィリアムが、この後人々が「守ったぞ、俺たちの手でこの大切な国を!」と快哉を叫ぶ、愛し大切にするものを嫌いだというのはちょっとブレが出そうというのもわかる気がする。人が好きだから歪んだ現状の国が世界が嫌い、というのがウィリアムだとは思っているんですけど、そういう言葉の取捨選択も素敵な書き方だと思いますね。
4/22追記
この訪問の前のシーンで「リアムは本気で死のうとしてるってことだ」って言う後ろでずっとウィリアムはこの世界をのヴォカリーズをしていて、「死のうとしている理由はこれだよ」と示しているし、そもそもOp.5は最初からアカペラで歌わせてウィリアムの心を占めるのはこの信念だと描いている。訪問の時に告白するようにしても意外性がないというかもう二度手間になっちゃう。
思えばミュのウィリアムはずっと心の底を観客にさらけ出して、血の通った本心を歌ってきたんですよね。原作だとウィリアムは余白を重んじて謎めいた完璧なキャラとして描こうとされていたため、モノローグがかなり少なくて「何か考えてるのか分からない」奴だった。だからこそ49話(死にたいんだ)や53話(この世界が嫌いだった、手紙)が強いインパクトとギャップとして効果を発揮した。でもミュは違う。めちゃくちゃ心情を描きこんできたしそれを観客は目の当たりにしてきた。だからあそこで「嫌いだった」といっても原作同等の効果というか面白さがないんですよね。
そういう原作通りの告白性が薄れていることと描写の重複のため、「この世界が嫌いだった」が省かれたんじゃないかなと考えました。
「この世界を」を歌うことによってキャラの軸が強く確立したミュのウィリアムは、それゆえに原作通りの「嫌いだ」と思う心が遠ざけられたんだと思うと、本当に繊細なキャラ描写をしてるんだなぁ……

手紙を隠した場所に対して黒猫の謎かけ

「ちょっとしたクイズというか、ウィリアムとシャーロックらしく、何かの例え話で分かり合うシーンを作りたくて。……コナン・ドイルはエドガー・アラン・ポーを読んでいたので、シャーロックも読んでいるということにして『黒猫』をモチーフにしたやり取りを挟んでみました」(アニメージュ2024年3月号、149-150p、西森)
謎に興味があるなら当然ミステリー作品も知っているでしょう?の遊び心が友人へのいたずらっぽさを深めていて、「ずっと語り合っていたかった、謎解きに興じていたかった」で例えば何の話がしたかったの?の一端を見せてもらったようなオリジナル要素だと思いました。
同じ本を読んでいてその内容について語り合える、なぞかけして遊べる友人っているとすごくうれしい存在だもんね。

ロンドン塔行く前に貴族の屋敷の消火

市民の消火パートを原作描写からさらに膨らませたシーン。火消しに走る市民たちが貴族と衝突しかけるけれど、炎を前に協力して消火成功、消火に協力する貴族が仲間になったぞ、そんな彼らを見ていた少女にもなにかが芽生えたよ、というロンドン塔に向かう準備運動。
ここで「絨毯を汚しちまって」といった後に両者の和解があるのはOp.1のダブリン男爵の「絨毯が汚れるだろう、いくらしたと思っているんだ」の再演で、それを超えて貴族が感謝を述べられた→過去のある場所ではやがて殺意へと発展した決裂がここでは生まれなかった→階級を超えて手を取り合える世界に近づいたという示唆なんだと思います。

少女が探しているのが母→父

アンサンブルの女性が3人しかいないので探している親が父に変更されたんでしょうね。
でも迷子の少女とエリンがOp.2のケイトとドリスの役者であり、迷子の少女の人形がアイリーンカラーで、二人をボンド(アイリーン)が救い、その二人が手を取って一緒に逃げていった(階級を越えて泣いてる子を思いやり手をさしのべられる少女をボンドが見た/ケイトとドリス、それまで見てきた階級による不平等でいがみ合う関係構造の反転を目の当たりにした)という醜聞を思い出す形になっているので、炎上する建造物の方にいる父とその娘が無事に炎を鎮めて再会できたというのもマルチナと父が無事だったifをちょっと彷彿とさせるような?
連想ゲームすぎますかね。

モランへのウィリアムのお願い

原作ではわざわざ投げたコートとそれを見逃さず狙撃したモランで推察できたことをしっかり言葉にしていくスタイル。「誰よりもお前を救いたい、お前のヒーローになりたかった」って言ってる男に「奈落の底に突き落として」は本当にひっっっっどいお願いだよ。でも最後を決める銃にすらなれなかった/そこさえ頼られなかった時よりはマシじゃないかなって思うんだ……どんぐりどころかミジンコの背比べだな……

閃光弾前にモランとルイスの会話

橋上の対決がノンストップなので、そこに挿入できないルイスとモランの会話、独白を閃光弾の前に移動させているというわけです。炎が消えて最終対決が始まる前なので、ルイスのソロに思う存分浸れる(他の事象の進行度に気を取られなくていい)のがよかったと思いますね。

鎮火後に閃光弾

原作ではもうそろそろ鎮火できるぞ、いやぁ俺たちお互いがんばったなぁくらいの空気の時に橋の最終決戦が始まったけれど、ミュは完全鎮火を達成して「俺たちの手でロンドンを、大英帝国を守ったぞ」と勝利宣言をした後に橋上に犯罪卿と名探偵が現れるので、ちょっと順番が違う。
モリミュは「主役はアンサンブル(が演じる大英帝国の住人)」とよく言われるし今回は特にそうだったので、その物語(犯罪卿の炎に対して協力して立ち向かう)に報い(勝利)を書くのが重要だったし、そのために順番が前後したんですね。
あの勝利宣言はウィリアムが求めた階級を超えた協力行為の成功体験そのものだし、なにより観客もそこまで見ないとカタルシスがないからしっかり描く改変はナイスだったと思います。

ウィリアムが生きる意志を見せるタイミング

「原作では、ウィリアムが生きる意志を見せるのはもう少し後なんです。でも『モリミュ』のウィリアムはこの時点(シャーロックが自分も飛び降りて、「言ったろ お前を捕まえるって」と言ったとき)で、意識のどこかで生きることを決めたんです」(アニメージュ2024年3月号、150p、西森)
原作では落ちる時ただ抱きしめられるままだったウィリアムが、ミュではシャーロックの背に手を回している→死ではなくシャーロックと一緒にいることを選んでいるとすごく分かりやすい視覚表現になっていたので、ミュのウィリアムは「生きたい」って原作よりはっきり考えられたんだろうなって思います。

悪魔討伐に喜ぶ人々

「ウィリアムがこれだけ命懸けで頑張っても、世界は広いし、現実はそこまで甘くない。それを観客に問いかける物語にしなければと思いました」「とってもグロテスクな場面だと思いませんか。……この皮肉な「手のひら返し」」(アニメージュ2024年3月号、西森、150p)
原作では呆然とした人々の中「あの高さじゃ」にモランのセリフだけが描かれ朝日が昇る。
観客の喪失感と断絶する明るい調の犯罪卿の死を喜ぶ曲、その「大衆」の愚かさとおぞましさ、でもその高揚の中にいたら自分は思考停止して同調しない?という自省でひっぱたかれる終幕、この飲み下せないものを置いてくれるからこそ信じられるんですよねモリミュ。
ところで原作にロミジュリじゃんよって踊ってた理由のひとつが橋落ちを見た人々の呆然を喪失感に分類して読んでたからだったと判明したのなんで?????めっちゃ納得したわ。

モランが行方不明になってない

主演二人がいなくなっている状態の橋後、というエピローグに行方不明者をさらに出すと、次回にすぐにつなげられるならまだしも情報が渋滞しちゃうし、全員マイナス2曲にモランを出せなくなっちゃいますから……。でもあの淀んだ目で誰よりもゴルゴダの頂点近くに立ってこちらを睨み据える姿、どう考えても新生MI6に絶対相いれないから行方不明になる数日前の姿だと思いますあれ。

ウィリアムとシャーロックのベンチ座る左右が逆

これはOp.3の時にウィリアムがソファ座っていた時が座った状態で見て右だったので、その時に隣り合って座れなかった二人がやっと隣り合って座れましたという意味でウィリアムが右に座っているのかと思ってるんですけれどどうなんでしょう?上手と下手がどうとかある?シャーロックの方向いたときに傷ついた顔が髪で隠れている(伸ばした髪で処理している)のが見えるように、分かりやすいようにウィリアムが右なのかな?

ウィリアムのストールが有色→白

原作だとストールには推定ベージュっぽいトーンを使われていたけれど、ミュはわざわざ白にしている。
意図的な白の選択だとしたら罪の衣や犯罪卿コートの黒との対比だよねやっぱり。まっしろ、まっさら、白紙の色。なにものでもなくなって、始まりにいる人の色。
そういえば19巻(ウィリアムとシャーロック二人で表紙してる)の色も白だね。

悩め→悩もう
お前は1歩を踏み出した→俺たちは

原作ではウィリアムのだいぶ口調はしっかりしてるものの迷子になって途方に暮れている問いかけにシャーロックがそれで正しいといっていた場面。
「『モリミュ』って、主人公たちの自己受容の物語なんです。自分の存在を他者に認めてもらうことで、生きるための一歩を踏み出すという。それが結実した歌なんです」(アニメージュ2024年3月号、151p、西森)
橋落ちの時にあの形で「生きたい」と思ったのはもう「あなたと生きたい」と言って差支えがないので、ウィリアムがそうして生きることを選んだのに対して、シャーロックが寄り添って返答というか提案をしてるから「一緒に悩もう」「一緒に歩もう」「一緒に生きよう」って歌詞になるんだと思いますね。冒頭にピアノさえ無く一人で歌いだしたのを並べてみると、終わり方めっちゃきれいですねやっぱり。一人ぼっちだった道行きを最後には二人で歩いていくようになりました、というのは一般的にハッピーエバーアフターな締めくくりだし。
でも終わらなくていいですからね??????空き家ミュ見るまで、第一部最後の各キャラルートエンドスチル全回収じみてるやつをミュのウィリアムがやるところまで見なきゃ成仏できないので!

終わりに

細かな言葉の違いとか、人が身体表現することで原作絵の通りではなくなっているところなどの詳細な部分は省いて、とりあえず私の目についた相違点とそこに関しての考えをまとめてみました。
これを始めるきっかけははじめにで書いたとおりだったのですが、まとめてみた結果に思うのは

原作の空白補完の手腕がやばい
原作の読み込みと咀嚼が深すぎる
自分たちが作りだすものと演劇という表現ジャンルが有する人間の心身表現可能性に真摯すぎるから「時には原作のハードボイルドで端正な絵から受け取る印象とはまた異なる人間ドラマを感じさせてくる」

というあたりですかね。
「原作と違う」って言っていた人の大体って私とおなじように「原作漫画では学生回ってもっとさわやかな日常回だったじゃない?ミュだとなんか終わりが始まる切ない話になってんじゃん」「犯人は二人でお互いに拳銃向けてないとかそういうことするものを原作通りと褒めるのは違うと思う」みたいなところで「違う」と言っていたと思うんです。
でもそこに否定とか低評価の意図は込めていなくて、「「原作と同じ」という言葉で褒められる2.5次元舞台かというと違うと思う、そこがいいんだけれど、その違いこそが最高なんだけど!」というやつだったんですよね。私がそうだったので。
ただやっぱり「違う」という言葉にはマイナスイメージが宿っていますし、身内で違うじゃんねぇ!?言ってるくらいなら解釈遊びの範疇ですが、分からない人から見たら「モリミュはマイナスな言葉の「原作と違う」を投げつけられている作品なんだ」というイメージを持たれそうな危うさがあるんだよなと反省しました。

というわけで強くて早い言葉に慣れずに、ここはこういう風に原作と異なっていて、それによってミュではこういうドラマを読み取ったからミュのここが素晴らしいと思っている、と過不足なく言えるように精進したいです(悪いレポートのしめくくり)。
以上、モリミュと原作漫画の相違点について考えた覚書でした。

2024/4/22追記 バスカ男爵の信仰、「この世界が嫌いだった」カット

参考文献

アニメージュ
2020年7月号 鈴木勝吾・平野良
2021年1月号 西森英行
2021年8月号 鈴木勝吾・ただすけ
2021年9月号 平野良・鎌苅健太・林周雅
2022年2月号 西森英行
2022年10月号 ただすけ
2023年2月号 鈴木勝吾・平野良・藤田玲
2023年8月号 西森英行
2023年9月号 鈴木勝吾・平野良 西森英行
2024年3月号 西森英行

CDジャーナル
2020夏号 鈴木勝吾・山本一慶
2021夏号 鈴木勝吾・藤田玲

ジャンプSQ.RISE2018 SUMMER 竹内良輔・三好輝
ジャンプSQ. 
2019年5月号 鈴木勝吾・平野良
2020年8月号 鈴木勝吾・平野良・西森英行
2023年9月号 三好輝・西森英行

SQ誌面連動公式サイトインタビューOp.1 鈴木勝吾・平野良

SQ誌面連動公式サイトインタビューOp.2 鈴木勝吾・平野良・西森英行

アーカイブ配信記念公式サイトインタビュOp.4 鈴木勝吾・平野良・藤田玲

SQ誌面連動番外編公式サイトインタビューOp.5 三好輝・西森英行

おうちでモリミュOp.1関係者ツイート


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