モリミュの引用・モチーフ元まとめ
上記覚書をまとめた際に「モリミュの古典オマージュ・小ネタ引用元を整理したことそういえばなかったな?」と思い立ち本まとめを作成しました。
正典描写については今回割愛しております。
これを書き忘れているなどのご意見ご要望がございましたらお伝えくださるとうれしいです。
産めよ増やせよ(旧約聖書)
「産めよ増やせよ家畜ども 卑しき命捧げよ」
市民も貴族も神の似姿である人間であることに変わりはないのに、神の言葉をなぞり市民を家畜とのたまう貴族の傲慢さをよく表している歌詞ですね。
あと人間に対して地上の生き物を支配せよと言われているので、家畜/人間ではない市民を治めるのが神に選ばれた貴族であるという考え方も見て取れるの、どっちにせよ最悪だよ。
地獄はもぬけの殻だ、すべての悪魔はここにいる
プロスペローの魔法による嵐で難破し海に投げ出されるアロンゾー一行の様子を語る精霊エアリアルの言葉。
英語だと“Hell is empty,And all the devils are here.”
オープニングでも決め台詞的に使われている象徴的な言葉です。ファーディナンド王子の絶体絶命感から出ている言葉ですが、それをなぞる意味は含まず、「人を踏みにじる貴族という悪魔はびこるこの地上」というウィリアムの価値観に合う言葉として使われています。
ダブリン男爵家の門にジュリアス・シーザーの一文
劇中で言及されていないのでダブリン男爵の門に何が書かれていたかは不明。
しかし選民思想で権力志向のダブリン男爵なので、独裁官のシーザーか、その友人で後継となったアントニーの言葉を掲げていそうだなと個人的偏見を抱いています。
あたりが候補か。
また、詳しい一文を劇中で諳んじるわけでもないのにわざわざ『ジュリアス・シーザー』に言及した理由は、シーザーの友人アントニーの演説を聞いて扇動された市民が暴徒となる展開があるからでしょう。
アントニーは演説の中でブルータスたちを何度も清廉潔白であると語り持ち上げることで、逆に市民が彼らをうさん臭く思うような流れを作ります。そこでシーザーがいかに偉大で市民を慮る野心なき男だったかを語ることで、市民の憤激をブルータスたちに向けることに成功します。
それに比べると「奴らの屋敷に火を放て!」とわざわざ自分たちからはっきり言ってしまうのはなんともお粗末な手口であると言えましょう。その結果としてモラン大佐に言質とられて捕まっちゃうわけですし。
いちごはイラクサの下でよく育ち、良い実は下等な果物と隣り合わせた時最も良く実りを結ぶ(ヘンリー五世)
ウィリアムたちが帰った後の悪だくみで男爵が言う「悪い芽は伸びる前に摘み取らねばな」にもつながってくる『ヘンリー五世』の一文。
ヘンリーは王子時代には野卑な不良とつるんで放蕩していたが、王となった今は人間関係も清算して人格も立派に成長しましたね、という原文の意味は特になぞらずに言葉だけを使っているシーンと考えられます。
男爵自慢の庭を見て果物に関連するシェイクスピアの一文を口遊んだだけにも聞こえますが、ここは多分「イチゴ(市民)は素敵に育っているけれどそれを重税で抑圧する邪魔な雑草のイラクサ(男爵)がいるんだよなー」の気持ちを込めてるんだろうなと読みます。全文を言葉にしなかったのは男爵とのやり取りのためではなく皮肉を込めていたんだろうなと思うので。
貧民街の口のきけぬ女に変装したフレッド(タイタス・アンドロニカス)
『タイタス・アンドロニカス』の2幕4場で、主人公タイタスの娘ラヴィニアはゴート族女王タモーラの息子たちに暴行され、両手と舌を切断された姿になります。その後に彼女は、4幕1場で己を凌辱した犯人の名を砂に杖で書いて父たちに伝えます。ここが「口のきけないみすぼらしい女が地面に文字を書く」というフレッドの役回りのモチーフになりました。……いや、貧民街の女に手も不自由まで設定追加されているならまだしも、これでモチーフ元に気づけというのは難易度高くないか?
それと、『タイタス・アンドロニカス』ではラヴィニアを犯して手と舌を奪ったタモーラの息子たちの肉でタイタスがパイを作り、彼らの母である怨敵タモーラに食べさせて彼女を殺すという結末を迎えます(5幕2,3場)。それより過激さは数段下ですが、「我が子の仇である悪役をパイという小道具を用いて殺す」という筋書きに沿う古典として『タイタス・アンドロニカス』をモチーフ元にしたのではないかなと考えます。
「愛人が産んだ私生児だ」、噂で人を操る悪王〜(リチャード三世)
Op.1で『リチャード三世』に関して言及する台詞は上記の通り。
王となる前のリチャード(つまり兄や甥の悪い噂を流しまくっていた頃)はグロスター公だったので、それになぞらえてバクスターがお道化たのが私のリチャード閣下という一言。ちなみに『リチャード三世』では悪い知らせを持ってこられています。
「噂を弄する悪王」という点で『リチャード三世』を使っていて、元ネタのことを知らなくても前述の形容で過不足なく理解できる説明をしているなと思います。なんせウィリアムがちゃんと言及してるので。『リチャード三世』の引用が分かりやすい!って思うのは他モチーフが小ネタ的すぎるのもあるけど……。
ノアの方舟
神授されたのは王権じゃないの?とか、権利の宣言から200年ほどでフランス革命からも100年くらいな19世紀末、王権神授説ももう古びてそうな時期にその選民思想どうなってんだろうねとか、ロンドンに女王いるから大洪水来たら困るどころじゃなくない?とか、突っ込みどころすごいな改めて考えると。
イントロダクションで「家畜ども」と市民たちを蔑んだ口が「ノアも家畜を殺した、同じように下民を殺して何が悪い?」と語るの、実に一貫していて憎まれ役っぷりが輝いてますな。
ノアティック号船上オペラ(アイーダ)
1幕1場ラスト、アイーダのアリア「勝ちて帰れ」の一部分。歌詞のギミックはおうちでモリミュの解説ツイートの通り。
オペラ好きの貴族の人が「2幕からは下の席で」と言っていましたが、「勝ちて帰れ」は1幕1場の終わりなので、このタイミングではなくこの後の神殿での勝利祈願までテラス席で見てから下に行ったのでしょうかね?
神への供物(バスカヴィルの人狩り理由)
モリミュのバスカヴィル男爵は人狩りして供物とするものが原作と異なっています。(原作は極限状況で人が見せる美しい人間性/関係性が、ミュ―ジカルは子どもの命そのものが神への捧げもの)
創世記4章でアベルの供えた「羊の初子、その中でも肥えた羊」が神に目を留められたり、22章でアブラハムが神に言われた通り息子イサクを捧げようとしたり、土師記11章でエフタが神への誓願通りに一人娘を捧げたりと、動物や人の命を神への供物とするのは旧約聖書的ではあり、ぶっ飛んだ黒魔術的思考によるものではないんですよね。原作だと絵が実にグロテスクかつ悪趣味だったので神聖な行為と宣うのは欺瞞だと明らかに考えられている描かれ方でしたし、モリミュでもサバト(悪魔崇拝の集会)のごとくとか言っちゃってますけど。
結局現れたのは獲物として連れてこられた子どもの「誰か助けて」の声を聞き届けたウィリアムたちであり、バスカヴィル男爵たちにとっての悪魔だったので、彼らからすれば神への供物というより悪魔召喚になっちゃったわけです。それに「全てを捧げて」の英題が"devotion"なんですが、ウィリアムは"devotion(神への尊崇、献身感情)"を向けられる側=陣営や彼に救われるものにとっての神であることが示唆されているので、ある意味神がバスカヴィル男爵の供物に応えたともいえるのがあのシーンであるとも言えるのが面白いですね。
ドン・ジョヴァンニ劇中劇とロリンソン抹殺なぞらえ
「界隈での通り名はドン・ジョヴァンニ」とモチーフ元がどんなキャラクターかは、モラン大佐がロリンソン男爵を女好きな異常な好色野郎と言っている通り。
好色な悪党ドン・ジョヴァンニ=ロリンソン男爵
ジョヴァンニに付き従うレポレッロ=レイモンド
ジョヴァンニに夜這いされて父(騎士長)を殺されたドンナ・アンナ=マルチナ
ジョヴァンニに殺されラストに石像姿で彼を地獄に引きずり落とす騎士長=マルチナ父
になぞらえていると考えられます。これの美しいポイントは自殺に追い込まれることでプリマドンナの道を断たれたマルチナが、「地獄の業火にその身を焼かれ~」の後ろでドンナ・アンナ/プリマドンナとして歌いながら地獄に引きずり込もうとしてくるところだと思っています。
『ドン・ジョヴァンニ』の音楽を作中で使っている個所は二か所あり、一つ目がモランやルイスが劇場裏で上映中の歌を聞くところ。
全員とドン・ジョヴァンニ/レポレッロの二つのメロディーが掛け合いで進む『ドン・ジョヴァンニ』1幕フィナーレ「早く早く、あの男が来る前に」のラストです。原曲の繰り返しのパートとドン・ジョヴァンニ/レポレッロの後半が削られているものの、終わり部分をそのまま使用しています。
極悪人めお前に復讐の雷が落ちるぞ!って言っているので、ロリンソン男爵の末路の予告として意味がまんまです。
二つ目が「闇の歌劇(Ⅱ)」のアンサンブルパートです。
地獄に落ちたドン・ジョヴァンニ以外の全員で歌う『ドン・ジョヴァンニ』2幕フィナーレ「もう食卓の用意はできた」のラストです。モーツァルトの音楽に新しくウィリアムの旋律を乗せて一つの曲にしちゃうここ、気づいたときびっくりしました。ただすけさんすごいっすね(n度目の感嘆)。
言っていることも因果応報だよ~なので、1幕フィナーレの使い方と同じようにロリンソン男爵の最期の状況まんまですね。ただ、モチーフ元のドン・ジョヴァンニはこのシーンより前にもう騎士長の石像によって地獄に連れていかれているのですが、ロリンソン男爵はこの最後のメロディーで断罪されています。これはウィリアムの歌を劇的に演出するために、またアンサンブルの赤く光る仮面などの演出を効果的に使うために石像と一対一のシーンの音楽にしなかったというのもあるでしょうが、やはり「マルチナが亡霊のプリマドンナとなり復讐を果たしに来た」という演出を魅せるためでもあるのではないかと想像しています。
ベラドンナ(ロリンソン男爵殺害のための毒)
美しい貴婦人の名を冠した毒で好色な悪党を成敗するという、これ以上ない適役の果実。
なお、『ロミオとジュリエット』で出てくる毒でベラドンナを使用するのはプレスギュルヴィック版のミュージカル(東宝版および宝塚版しか見たことがないのでフランス版でもベラドンナと言及しているのかは未検証)であり、原典には何でできた毒なのかは書かれていませんでした。
死の谷(I hope/I will)
どんなに恐ろしい場所に向かうときにも神はともにおられるのだから恐れはしない、という祈りの言葉ですね。映画とかでも引用されがちだそうで。
モリミュだと神への祈りに通じた言葉というよりは単に「これから向かう先に横たわり、歩むうえで感じる恐ろしい苦難」という意味で「死の谷を歩む」「深い闇の谷を歩む」と表現しているのでしょうかね?その苦痛を味わってでも「この果てで君と」「必ずこの手でお前を」という望みのために、ということなので。
エデンの東(イーストエンド)
Op.3イントロダクションで「ロンドンの闇 エデンの東 貧民街と人は呼ぶ」と貧民街の人々が歌っています。ロンドン東部イーストエンドが楽園に程遠い場所だってことなんだと思うのですが、上記のように聖書に記述があるので、「エデンの東」という言葉には楽園から追放された者/神に見放された地で安住出来ぬまま生きる者の地という意味を含んでいると読めますね。
ゲヘナの火(ならば悪の血を飲み干して〜)
ゲヘナは「ヒンノムの谷」というエルサレム市の南にあったごみや死体を処理した地を由来として「地獄」を意味する言葉です。
「この身悪魔となり果てて地獄に落ちて火に焼かれようとも悪魔を殺す」「人殺し、唯一神以外を信仰し偶像を崇拝するものは火と硫黄の地獄に落ちる、だから禁忌を犯してはいけないと知っていてなお信念のために罪に手を染めよう」という決意の歌詞ですね。
アニメでウィリアムが橋から落ちるときに下が燃え盛る炎だったのも、憂モリにおける「地獄に落ちる」という行為のイメージの一貫を感じます。まあ日本人の地獄のイメージって基本燃えてるし、炎への言及が一番分かりやすいよねって言ったら身も蓋もないんですが。
重き荷、ゴルゴダへの道(Op.3、Op.5兄様ソング)
重き荷=十字架を、キリストとともに磔刑された罪人のように、またゴルゴダの道の途中で力尽きたキリストのため十字架を担がされたキレネのシモンのように己も背負い、最後までの道をウィリアムと共に行こうとアルバートは歌いかけているんですね。そう思われている方は「君たちがとても大切だから 僕は一人 ただ一人」って言ってんすけど……
ところで、聖書の表記は「ゴルゴタ」なのですが、モリミュの歌詞は「ゴルゴダ」なんですよね。エヴァンゲリオン内に出てくるプロジェクト名とかも「ゴルゴダ」になってたりするのですが、これは誤植?それとも表記揺れの範囲なのでしょうかね?
エダルジ事件(ドワイト医師冤罪事件の着想元)
スコットランドヤード狂騒曲冒頭で「容疑者はマイケル・ドワイト‼貧民街の町医者だ‼」とだけ原作で言われてその詳細は空白だった部分を、モリミュではコナン・ドイルが史実で関わった冤罪事件であるエダルジ事件を基に補完しました。
また、ドワイトは栄養不足になり目を患ってもなお貧民街という場所で人を救ってきた医者であると推理しえる要素として「夜盲症」という設定にしたのだと考えられます。「善き人」を襲う権力の理不尽に許せないと怒るジョンにつなげる必要がありますからね。
一人の学生に出てくるビル
元ネタは『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)という映画なのですが、こちらは原作からあるモチーフですしまとめている方もいらっしゃるので割愛します。
3人の魔的存在、きれいはきたない、万歳!、殺人の隠蔽、手に染み付いた血〜(マクベス)
・荒野にてマクベスに予言を伝えた三人の魔女がミルヴァートンの手下三人衆ラスキン・ハリー・ゴズリングでなぞらえられている(「きれいはきたない きたないはきれい」「万歳ホワイトリー」)
・マクベス役としてスターリッジを刺殺したホワイトリーに対して、その犯罪の隠蔽工作をしたウィリアム(なおミルヴァートン殺害時にはシャーロックに犯罪教唆をしていたといえるので、ウィリアムはマクベス夫人のダンカン王殺害教唆と隠蔽という要素を分けてOp.4で行っていたともいえる)
・押し込めたはずの罪悪感に追いつかれ心を病んで血の幻覚に苛まれたマクベス夫人のように、何もない手に血の幻覚を見るウィリアム(「この手に沁みた罪の血は ぬぐえどもぬぐえども消えはしない」「指と指の合間から死者の匂いが漂う」)
上記部分がだいたいのOp.4におけるマクベス要素です。
原作での『マクベス』要素は
・「最後の事件」で血の幻覚を見たり(49話)何もない手を井戸で洗っていた(50話)ウィリアム(ただ手を洗う描写は映画『007/カジノ・ロワイヤル(2006)』のヴェスパーの方が意識されていそうだとは思います。そのヴェスパーのシーンもマクベス夫人が元ネタでしょうけれど)
・「空き家の冒険」でアルバートが過去回想をしていた時(63話)の「理想のための手段は分かっている、しかし罪を犯す勇気が持てなかったアルバート少年(マクベス)」「そして罪を犯す道の方をどう考えても外堀埋めて教唆していた孤児の兄(マクベス夫人)」
だったのですが、ロンドンの騎士でこうもダイレクトに『マクベス』してくるのには驚きました。
理想を掴むために心の内の罪悪感を押し込めて人に「罪を犯せ」と教唆し手を血で染めてきたが、時間が経つにつれ罪悪感が息を吹き返して大きくなり、最終的に心を病んで血の幻覚を見るキャラクターとして元々ウィリアムとマクベス夫人の親和性はかなり高いものでした。モリミュではウィリアムの心情を深堀りして描いてきたため、さらにその親和性が分かりやすくなっているなと思います。
あとスターリッジの妻の指が送られてきたという話の挿入はアニメからの輸入というか原作サイドからの提案だったそうなのですが(アニメージュ2023年8月号173p)、『マクベス』内で自分を虚仮にした女の夫(船乗り)の指を持ってきて弄んでいて、「なんでそこシンクロしちゃったの?」となったのでついでにここも入れておきます。
正義の騎士が殺人鬼に(バットマンのトゥーフェイス)
これも映画『ダークナイト』(2008)のハービー・デントが元ネタなんですけど、原作からあるモチーフですしまとめている方もいらっしゃるので割愛します。
パンを踏むミルヴァートン(パンはキリストの肉)
パンとワインはキリストの肉と血とされ、聖餐式の重要なアイテムとなっています。そこで使われるパンはまた別のものではありますが、サンドイッチのものだとしてもパンを踏みにじるのは神を侮辱する冒涜的な悪党という印象を持たせる効果があると読めます。
まあ紅茶に煙草の燃えカス入れたのも合わせて日本人的に食べ物を粗末にするのは一発ワルイヤツ判定行動なので、二重に「ミルヴァートンマジでこいつ許したらあかん悪党や」と思わせるためのパートになってるわけです。
荒野で彷徨う
「ああ天よ罪深き我は光もなき荒れ野で彷徨う」
「ひとり歩く荒れ野に救いも赦しも無い」
「ひとり彷徨う荒野に死せる悪魔の声が響く」
モリミュの中で「荒れ野」はウィリアムの歌詞の中で出てくる単語です。
聖書的には荒れ野は「神に見放され豊穣という恩恵のない、悪魔や野獣の巣食う死の土地」を意味しています。神の怒りを買うものは荒野に放り出されて無残に死ぬし、神を内に抱くものは荒野に在っても悪魔の声に惑わされず聖者として力を発揮するというわけです。
上記の試練(マタイによる福音書4章・荒野の誘惑)を経てキリストは救世主としての活動を始めるのですが、ウィリアムは死の誘惑に捕らわれながらも身を委ねなかったってことなんかなぁ?ここはまだ解釈がうまくまとまってないですね。
明白なのはウィリアムの自認が「自分は荒れ野にあるべきものであり、神の御許にあらぬ悪しきもの」ってことですが、ただ「彷徨う=安住なく迷い歩いている」ってことはそこに属する存在になってないってことなんだよね……。潰れる心があるうちは真性の悪魔というにはまだ弱いんよ。そこの脅迫王見てみろ。
ゲッセマネ(処刑前に祈り苦悶したキリスト)
キリストが最後の晩餐を終えて、処刑のために捕らえられる前に父なる神に祈りをささげた場所がゲッセマネの園です(オリーブ山にあるとのことですが「丘」と言ってるのはにわかの調べもの範囲で見受けられず、なんで「ゲッセマネの丘」って言ったんだ?問題は未解決です)。
最後の時が近づいているのを悟りつつある中で、キリストと重ね見ているウィリアムが苦悩して天に祈っている姿に兄さまは「ゲッセマネの祈り」を思ったのでしょう。
ただ、ゲッセマネの祈りで眠ってしまったのはキリストではなく弟子たちなので、眠っているように見えるウィリアムの姿を見つめながら歌うには少しずれているような気もするなと少しだけ感じます。いや、「苦悩し伏した救世主の祈り」という点でなぞらえたのだからおかしくはないのか。
煉獄(罪と向き合う場所)
煉獄という概念は、カトリックで正典としているがユダヤ教やプロテスタントが正典から除外している文献を論拠としているものです。ざっくりいうと「罪を悔い改める余地のあるものが死して行き、罪を清めたのちに天国に上る場所」です。日本の地獄と観念的に近いのはこちらですね。
ウィリアムやルイスは「わが身は地獄の業火に焼かれるべきもの」「ゲヘナの火に焼かれようこの魂」って言ってますが、アルバートにとって罪深いのは己であり、彼らは神の御許に迎えられて当然の存在と思っているわけです(神聖視フィルターが分厚すぎるよ……)。なので罪を裁かれるべき己は煉獄に落とされ責め苦を負うが、しかしどれだけの時間をかけてでも天国にいる二人に会いに行こうという気持ちが込められているのが「煉獄」というチョイスなのかな、と考えます。
あと煉獄といえばダンテの『神曲』で煉獄の山頂で永遠の淑女ベアトリーチェに出会い、彼女に導かれて天国に昇るのが有名ですが、これをイメージしていたりもするんでしょうかね?英国国教会(プロテスタント)は煉獄について載せている文献を聖典としていないはずなので、煉獄という概念をアルバートがどこで得たのかというと『神曲』を読んでいたとするのも無理筋ではないと思いますし。ウィリアムに出会ったことで今の人生へと歩みだしたアルバートが、死したのちもいつかまたベアトリーチェのようにウィリアムに出会い導いてほしいという話?うーーん苦しいか……
ミルヴァートン被害者の会(リチャード三世)
犯人は二人クライマックスでミルヴァートンの最期に被害者の会が上に並ぶのは『リチャード三世』がオマージュだと西森先生がおっしゃっています(アニメージュ2023年8月号173p)。上記の通り政争の敵であったもの、殺したもの、かつて味方であったもの、あらゆる亡霊が最終決戦前のリチャードとリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの枕元で呪いと激励を叫ぶシーンです。モリミュでは因果応報の劇的さが出る演出になってるのがとてもいい演出だったのですが、一方でこれだけの人を不幸にした者のため引き金を引くのが正しいと思わせる流れに抗いがたすぎて割と怖いなとも感じました。
運命の車輪(タロット、fortuneからfateへの変更)
原作のミルヴァートン邸から去るときの馬車から着想され、”fortune”より”fate・避けられない運命”の方がしっくりくるので「運命の車輪は止まらない」が"The wheel of fate never stop"になったとのこと(アニメージュ2023年9月号147p)。
死の象徴(骸骨というシンボル、ダンス・マカブル、エリザベート)
死の概念存在に肉体を持たせた舞台表現をするのは『ロミオとジュリエット』でもやっていたりするので、想像というか妄想はしていたのですが、Op.5であんなにわらわら出てくるとは思ってなかったんですよね。ウィリアムの希死念慮と罪悪感がどのように彼を捕らえているのかを視覚的に理解させるインパクトのある演出となっています。
『エリザベート』のプロローグの副題は日本語版だと「我ら息絶えし者ども」ですが原語だと”Alle Tanzten mit dem Tod”、直訳すると「皆死と踊った」となります。死の舞踏/ダンス・マカブルという観念があるように、西洋では死とはダンスの相手であるという考え方があるんですね。だから「最後のダンスは俺のもの」だし「踊るときは命果てるその時まで一人舞う」し、「僕は怖い」で死がそばにいるんです。
ウィリアムが骸骨たちに群がられている絵が来て大変頭のねじをぶっ飛ばされる心地だったのですが、ここでさらに彼らの手を取って踊るような演出が来ていたらいよいよもって致命傷だったので、命拾いしたな……というのが個人的感想です。最後の事件の橋上は踊り子事件のリプライズ説に感銘を受けて、輪舞曲の手を取れないダンスに頭パーンした人間なものですから……。
リチャード三世(長官の例え)
かつて王位にまで上り詰めた(人々に支持される地位となった)が、悪評とともに市民からの支持を失ったリチャード三世に犯罪卿をなぞらえたマイクロフトのセリフです。
内容としては言っているままで深読みも何もないなのですが、ただひとつ注意したいのはリチャード三世の最後の戦いは籠城戦ではなかったということです。リチャード三世の最期となった戦地であるボズワースは城の名前ではないし、前日にリチャード三世が枕元で呪いを散々聞かされたのは野営のテントの中の寝床でした。死ぬときにはヘンリー軍(赤薔薇の軍勢)に囲まれ討たれたとのことなので完全に間違いではないですが、「四面楚歌」のような事象が『リチャード三世』で起きたわけでないのです。
モリアーティ邸は(この時点で)囲まれてはいても健在だったため「砦」と形容したわけですが、元ネタを知らないと「リチャード三世って籠城戦に負けて死んだんだ」ってうっかり受け取っちゃいそうだなって……というか私がそういう勘違いしちゃっていたというお恥ずかしい話なだけなのですが。だって日本の武将って城攻められて死にがち(勝手なイメージ)じゃないっすか……
無垢なるイヴを唆し知恵の果実を食べさせ罪の道を行く共犯となった
アルバートの宗教観ワケワカンナイヨーって点はいくつかあるんですけど、ここが最たるものな気がします。
原作でアルバートは「私がウィリアムを楽園追放へと追いやったのだ。私は知恵の実を欲した、だが自分で食べる勇気は無かった」と告解しています(モノローグの背景絵は手にしたリンゴとそれを見つめる蛇)。なので捻りなく受け取ったら知恵の実を食べるようイヴを唆した蛇(悪魔)という自己認識だったのですが、正確なのは聖書の読み方を捻った「知恵の実を食べるのが怖くてイヴに先に毒見させたアダム」だったわけです。そりゃ蛇は知恵の実食べたわけじゃないし、知恵の実を口にしたものであると自分を思っているならアダムですよね。でもやっぱり聖書の読み方おかしくないかなーー??
アルバートから見たウィリアムは悪魔性がめっちゃ薄くない?の問題提起は結構行っているのですが(アルバート回想時のウィリアムはどう考えてもモリアーティ家抹殺ルートの外堀埋めてたのに、アルバートは自分が依頼したことが発端だとしか思っていない)、蛇の誘惑およびそれに屈したイヴはどこ行ったんやその読みというこの「無垢なるイヴ」解釈もそこに通じているのかもしれないですね……。
レ・ミゼラブル(赤い旗、ガブローシュ、ベイカーストリートイレギュラーズ(ホームズファンクラブ))
赤い旗は『レ・ミゼラブル』のポスターにも載せられるほど印象的なシンボルです。そしてそこに「貧民街育ちの少年」が加わったらそれはもうガブローシュのオマージュであることに間違いはないでしょう。
また、現実世界にあるシャーロキアンの団体名は「ベイカーストリートイレギュラーズ(BSI)」であり、旗を振っていたウィギンズはBSIの由来となった作中集団の筆頭キャラクターです。そんな彼が旗持ちとなって「名探偵のもとに」の歌詞のところで出てくるのは、ホームズに続こう、ホームズの力になろうという意味が作中世界と客席のメタ世界どちらにもかけられる演出になっていると考えられます。
どうか子どものミルクだけでも
憂国のモリアーティを描く上で王侯貴族と市民の格差の参考元の一つと提示された『エリザベート』の、そのオマージュのような悲鳴が巡り巡ってミュージカルになって劇場に響くの、いいですよね。
黒猫(壁に埋められた死体、化け物(罪悪感の幻))
動物好きだがアルコール中毒の主人公は黒猫プルートゥを飼って妻と一緒に可愛がっていた。中毒症状が進み「天邪鬼」の精神に取り付かれた主人公は黒猫の片目をえぐり、やがて縊り殺してしまう。殺してからしばらくして、プルートゥにそっくりで片目が潰れている黒猫に酒場で懐かれ、家に連れて帰る。妻はプルートゥが帰ってきたと喜び愛でるが、主人公は気味が悪いと猫に憎悪を抱く。ある日足に絡まれたことで腹を立てた主人公は猫を殺そうとするが、それを止めようとした妻にも腹を立てて彼女を殺す。妻の遺体を地下室の煉瓦壁に埋めた主人公は次こそと黒猫を探すが、見つからない。数日後に行方不明の妻の捜索で警察が家を訪れるが、彼らは妻を見つけられない。気を良くした主人公は「ここには何もない」と壁を叩いて見せる。すると人のものとも思えぬ恐ろしい咆哮が聞こえてきた。警官が壁を壊すと、そこには妻の死体と、その頭に座した猫がいた。
↑黒猫のあらすじはざっとこんな感じです。
黒猫が何を象徴しているのかの研究はいろいろとありますが、「罪悪感」や「良心」であるという読み方があるあたりに『黒猫』を採用したモリミュのウィリアム解釈が見える気がします。罪悪感や良心を切り離して狂気に身を染めたつもりでも、結局追いつかれて精神が壊れる悪人の示唆がここまでで色々ありましたし(マクベスとかさ)。
「片目をつぶされた猫が煉瓦の壁の中の死体を見つけてと鳴く」というのを、「ウィリアムが壁に隠した出生記録(死んだ孤児)を見つけてと書く」にしたわけですね。
余談ですが同じ本を読んでいる人というシンパシーのロマンス性に関してうみねこの戦人とベアトリーチェのそれを思い出してしまったりしたので、この挿入は個人的にかなりのツボポイントでございましたね。
ハムレット(To be or not to be)
大変有名なこの一文。生きるか死ぬか、生かす道があるのかこのまま死なせてしまうのか、手紙を読んで最後の選択肢が目の前に現れたシャーロックの思考にいい感じに当てはまっていると言えます。
あとこの翻訳は正確ではないとかなんとかもよく聞く話ですね。「このままでい続けていいのか、いけないのか」と言った方がニュアンスが正しいという話があるし、モリミュの歌詞的にもこっちで意味を取った方がより分かりやすくなります。「to be=現状維持=死の定め」「not to be=現状打破=生きる意志」となりますので。
原典と生死が反転しているところがウィリアムの面倒くさい複雑さを表している気がしますね……。
ソドムとゴモラの火(悪徳により神に滅ぼされた街)
堕落して神の御使いまでも嬲ろうとした街を神は火の雨で滅ぼした、という創世記の話のひとつです。神にとって代わってロンドンという腐敗した都市に罰を下そうだなんて傲慢極まりない歌詞でゾクゾクしちゃいますね。
神はソドムを滅ぼすときに「十人でも正しい人がいるなら滅ぼさない」とアブラハムとの交渉で決めていた(創世記18章)が、ソドムに正しい人はいなかったため滅ぼしたというのが聖書での経緯なので、「正しいことを成した=身分の垣根を超え協力して炎を鎮めた」ロンドンの人々はソドムとゴモラを追わなくて済んだというのも読めるかなと思います。
参考文献
聖書 聖書協会共同訳:©︎日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 2018
井上達三(1967)、シェイクスピア全集3 喜劇Ⅲ あらし、㈱筑摩書房
井上達三(1967)、シェイクスピア全集6 悲劇Ⅰ タイタス・アンドロニカス ジュリアス・シーザー ハムレット、㈱筑摩書房
井上達三(1967)、シェイクスピア全集4 史劇Ⅰ ヘンリー五世、㈱筑摩書房
井上達三(1967)、シェイクスピア全集5 史劇Ⅱ リチャード三世、㈱筑摩書房
井上達三(1967)、シェイクスピア全集7 悲劇Ⅱ マクベス、㈱筑摩書房
FOLGER SHAKESPEARE LIBRARY・The Tempest Act1,scene2
(https://www.folger.edu/explore/shakespeares-works/the-tempest/read/1/2/)
エドガー・アラン・ポー、中野好夫(訳)(1978)、黒猫・モルグ街の殺人事件他五編、岩波書店
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荒井良雄・大場健治・川﨑淳之助(2002)、シェイクスピア大事典、㈱日本図書センター
高橋康也・大場健治・喜志哲雄・村上淑郎(2000)、研究社 シェイクスピア辞典、研究社出版㈱
マンフレート・ルルカー(1988)、池田紘一(訳)、聖書象徴事典、人文書院
旧約新約聖書大事典編集委員会(1989)、旧約新約聖書大事典、㈱教文館
「ベラドンナ」 山田恒史(1997)、朝日百科 植物の世界3巻、朝日新聞社
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ジョン・ウォラック/ユアン・ウエスト(1996)、大崎滋生・西原稔(訳)、オックスフォード オペラ大事典、㈱平凡社
石戸谷結子・小畑恒夫・河合秀朋・酒井章(1998)、スタンダード・オペラ鑑賞ブック[2]イタリア・オペラ(下)、㈱音楽之友社
岩下眞好・岡本稔・國土潤一・鶴間圭・堀内修(1998)、スタンダード・オペラ鑑賞ブック[3]ドイツ・オペラ(上)、㈱音楽之友社
オペラ対訳プロジェクト アイーダActⅠ https://w.atwiki.jp/oper/pages/634.html
オペラ対訳プロジェクト ドン・ジョヴァンニActⅠ‐2 https://w.atwiki.jp/oper/pages/3076.html
オペラ対訳プロジェクト ドン・ジョヴァンニActⅡ‐2 https://w.atwiki.jp/oper/pages/3078.html
アニメージュ2022年2月号、徳間書店
アニメージュ2023年8月号、徳間書店
アニメージュ2023年9月号、徳間書店
アニメージュ2024年3月号、徳間書店
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