モリミュの引用・モチーフ元まとめ

上記覚書をまとめた際に「モリミュの古典オマージュ・小ネタ引用元を整理したことそういえばなかったな?」と思い立ち本まとめを作成しました。
正典描写については今回割愛しております。
これを書き忘れているなどのご意見ご要望がございましたらお伝えくださるとうれしいです。


産めよ増やせよ(旧約聖書)

神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記1章20~22節

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記1章26~28節

「産めよ増やせよ家畜ども 卑しき命捧げよ」

市民も貴族も神の似姿である人間であることに変わりはないのに、神の言葉をなぞり市民を家畜とのたまう貴族の傲慢さをよく表している歌詞ですね。

あと人間に対して地上の生き物を支配せよと言われているので、家畜/人間ではない市民を治めるのが神に選ばれた貴族であるという考え方も見て取れるの、どっちにせよ最悪だよ。


地獄はもぬけの殻だ、すべての悪魔はここにいる

エアリアル「王子のファーディナンドは、髪をさかだてて、――いや、髪というより葦みたいでしたが――「悪魔が、みんな、地獄を空にして、おしかけてきた」と叫んで、まっさきに海に飛びこみました。」(あらし1幕2場)

シェイクスピア全集3 喜劇Ⅲ あらし

プロスペローの魔法による嵐で難破し海に投げ出されるアロンゾー一行の様子を語る精霊エアリアルの言葉。

英語だと“Hell is empty,And all the devils are here.”

オープニングでも決め台詞的に使われている象徴的な言葉です。ファーディナンド王子の絶体絶命感から出ている言葉ですが、それをなぞる意味は含まず、「人を踏みにじる貴族という悪魔はびこるこの地上」というウィリアムの価値観に合う言葉として使われています。

 

ダブリン男爵家の門にジュリアス・シーザーの一文

劇中で言及されていないのでダブリン男爵の門に何が書かれていたかは不明。

しかし選民思想で権力志向のダブリン男爵なので、独裁官のシーザーか、その友人で後継となったアントニーの言葉を掲げていそうだなと個人的偏見を抱いています。

 シーザー「臆病者は死の前に何度でも死ぬ思いをする。だが勇者は、死を味わうのは一度きりだ」(ジュリアス・シーザー2幕2場)
「運命は星が決めるのではない、自分自身が決めるのだ」(同上2幕2場)
「毅然として侵すべからざる地位を保つものはただ一人」(同上3幕1場)
アントニー「世界よ、お前はこの大鹿の住む森だった、そして、これこそはお前の心臓だったのだ」(同上3幕1場)

シェイクスピア全集6 悲劇Ⅰ ジュリアス・シーザー

あたりが候補か。

また、詳しい一文を劇中で諳んじるわけでもないのにわざわざ『ジュリアス・シーザー』に言及した理由は、シーザーの友人アントニーの演説を聞いて扇動された市民が暴徒となる展開があるからでしょう。

市民一同「復讐だ!やれ!やれ!探し出せ!焼討だ!火を放けろ!やっつけろ!殺せ!叛逆者だ、一人たりとも生かすな!」
……
市民一同「暴動だ、暴動だ
市民1「ブルータスの家を焼討しろ
市民2「さあ、行こう!徒党の奴らを探し出すのだ」(同上3幕2場)

シェイクスピア全集6 悲劇Ⅰ ジュリアス・シーザー

アントニーは演説の中でブルータスたちを何度も清廉潔白であると語り持ち上げることで、逆に市民が彼らをうさん臭く思うような流れを作ります。そこでシーザーがいかに偉大で市民を慮る野心なき男だったかを語ることで、市民の憤激をブルータスたちに向けることに成功します。

それに比べると「奴らの屋敷に火を放て!」とわざわざ自分たちからはっきり言ってしまうのはなんともお粗末な手口であると言えましょう。その結果としてモラン大佐に言質とられて捕まっちゃうわけですし。

 

いちごはイラクサの下でよく育ち、良い実は下等な果物と隣り合わせた時最も良く実りを結ぶ(ヘンリー五世)

イーリ「オランダ苺はいらくさの下でよく育ち、上質の苺類は下等な果実と隣合わしたとき最もよく成長し、成熟いたすものであります。それと同様に国王も、その放蕩生活のヴェールの下に、真摯な人生勉強をかくされていたのです」(ヘンリー五世1幕1場)

シェイクスピア全集4 史劇Ⅰ ヘンリー五世

ウィリアムたちが帰った後の悪だくみで男爵が言う「悪い芽は伸びる前に摘み取らねばな」にもつながってくる『ヘンリー五世』の一文。

ヘンリーは王子時代には野卑な不良とつるんで放蕩していたが、王となった今は人間関係も清算して人格も立派に成長しましたね、という原文の意味は特になぞらずに言葉だけを使っているシーンと考えられます。

男爵自慢の庭を見て果物に関連するシェイクスピアの一文を口遊んだだけにも聞こえますが、ここは多分「イチゴ(市民)は素敵に育っているけれどそれを重税で抑圧する邪魔な雑草のイラクサ(男爵)がいるんだよなー」の気持ちを込めてるんだろうなと読みます。全文を言葉にしなかったのは男爵とのやり取りのためではなく皮肉を込めていたんだろうなと思うので。

 

貧民街の口のきけぬ女に変装したフレッド(タイタス・アンドロニカス)

ディミートリアス「それなら、さあ、行って言うがいい、口がきけるものならな。おまえの舌を切り、おまえを犯したのが誰なのか」
カイロン「おまえの心を字に書いて、そうして言いたいことを人に伝えるがいい、おまえの切り株のような手でも書記のまねができるものならな。
ディミートリアス「見ろよ、いろんな手真似足真似でなかなかやらかすじゃないか」
カイロン「家へ帰って、香料入りの水をくれと言って、手でも洗え」
ディミートリアス「彼女、言おうにも舌はなく、洗おうにも手はないときている。だから、その辺を黙って歩かせておくことにしようや」
カイロン「こんな目に遭ったのがおれだったら、その辺へ行って首吊りでもしちまうな」
ディミートリアス「それも、綱を編む手があっての話だろう」(タイタス・アンドロニカス2幕4場)
 
タイタス「いいか、悪党ども、ようく聞け、おれはきさまたちの骨を粉にひき、それをきさまたちの血と混ぜ合わせて練り粉を作り、その練り粉でパイの皮をこしらえ、きさまたちのけがらわしい生首を中味にしてでっかいパイを二つ作って、そいつをあの売女めに、きさまたちの不浄なおふくろに、食らわしてやる。大地のように、自分が生んだものをまた自分で呑み込んでいただくという寸法だ。これが、おれがあの女に食べてくれと誘っておいた御馳走で、彼女にたっぷりと召し上がっていただくお食事というわけだ」(同上5幕2場)
 
タイタス「どうぞ召し上がっていただけませんか。皇后様、どうぞ召し上がってください」
タモーラ「どうしてあなたは御自分の一人娘をこんなふうに殺しておしまいになったのですか」
タイタス「私が殺したのではありません。殺したのはカイロンとディミートリアスの二人です。二人は彼女を犯し、その上で彼女の舌を切り取ってしまいました。彼女をこんなことにしてしまったのは、みんな、あの二人、あの二人なのです」
サターニナス「すぐにその二人をここへ連れて来い」
タイタス「いや、すでにここにおります、二人ともこのパイの中に焼かれて。
お母君はそれをいまおいしそうに召し上がった、御自分が生み育てた肉をむしゃむしゃとお食べになって」(同上5幕3場)

シェイクスピア全集6 悲劇Ⅰ タイタス・アンドロニカス

『タイタス・アンドロニカス』の2幕4場で、主人公タイタスの娘ラヴィニアはゴート族女王タモーラの息子たちに暴行され、両手と舌を切断された姿になります。その後に彼女は、4幕1場で己を凌辱した犯人の名を砂に杖で書いて父たちに伝えます。ここが「口のきけないみすぼらしい女が地面に文字を書く」というフレッドの役回りのモチーフになりました。……いや、貧民街の女に手も不自由まで設定追加されているならまだしも、これでモチーフ元に気づけというのは難易度高くないか?

それと、『タイタス・アンドロニカス』ではラヴィニアを犯して手と舌を奪ったタモーラの息子たちの肉でタイタスがパイを作り、彼らの母である怨敵タモーラに食べさせて彼女を殺すという結末を迎えます(5幕2,3場)。それより過激さは数段下ですが、「我が子の仇である悪役をパイという小道具を用いて殺す」という筋書きに沿う古典として『タイタス・アンドロニカス』をモチーフ元にしたのではないかなと考えます。

 

「愛人が産んだ私生児だ」、噂で人を操る悪王〜(リチャード三世)

ダブリン「良い知らせか悪い知らせか?」
ダブリン「我が忠実なる腹心、町の愚民どもに「あの貴族気取りのガキどもは、愛人が生んだ私生児だ」と触れ回れ」
バクスター「イエスマイロード、私のグロスター公リチャード閣下」
ウィリアム「噂で人を操る悪王、リチャード三世が支配しているようだ」
ウィリアム「あなたが噂を弄して玉座に上り詰めた悪王リチャード三世と全く同じ台詞を言わされていることに。「あのガキどもが愛人が産んだ私生児だと触れ回れ」と」

ミュージカル憂国のモリアーティ グレープフルーツのパイひとつ

Op.1で『リチャード三世』に関して言及する台詞は上記の通り。

リチャード「計画はもうできている。でたらめな予言や、悪口を書いたビラや夢占いで、恐ろしい序の幕はもう切って落とされている」(リチャード三世1幕1場)
リチャード「兄エドワードの子供たちはみんな妾腹だと証言したまえ。……いや、必要とあればわしの身近のことに及んでもいっこうに差し支えない。……兄エドワードは、父の本当の子ではないことが分かった。この事実を市民たちに伝えてくれたまえ」(同上3幕5場)
リチャード「そんな無作法にわしのところへ来るとは、良い知らせか悪い知らせか?」(同上4幕3場)

シェイクスピア全集5 史劇Ⅱ リチャード三世

王となる前のリチャード(つまり兄や甥の悪い噂を流しまくっていた頃)はグロスター公だったので、それになぞらえてバクスターがお道化たのが私のリチャード閣下という一言。ちなみに『リチャード三世』では悪い知らせを持ってこられています。

「噂を弄する悪王」という点で『リチャード三世』を使っていて、元ネタのことを知らなくても前述の形容で過不足なく理解できる説明をしているなと思います。なんせウィリアムがちゃんと言及してるので。『リチャード三世』の引用が分かりやすい!って思うのは他モチーフが小ネタ的すぎるのもあるけど……。

 

ノアの方舟

主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、
地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」
だが、ノアは主の目に適う者であった。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記6章5~8節

主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである
あなたは、すべての清い動物の中から雄と雌を七匹ずつ、清くない動物の中から雄と雌を一匹ずつ取りなさい。
空の鳥の中からも雄と雌を七羽ずつ取りなさい。全地の面にその種類が生き残るためである。
七日の後、私は四十日四十夜、地上に雨を降らせ、造ったすべての生き物を地の面から消し去る。」
ノアは主が命じられたとおりにすべてを行った。
ノアが六百歳の時、洪水が起こり、水が地上を襲った

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記7章1~6節

エンダース「貴族以外乗っていい船じゃないと言ってるんだ。ノアの名を冠した偉大な船ノアティック号。ノアは神に選ばれし存在、つまり俺と同じ貴族なんだ。……仮に航海中に大洪水がロンドンを襲っても世界はさほど困らないということだ」

ミュージカル憂国のモリアーティOp.1 ノアの箱舟

神授されたのは王権じゃないの?とか、権利の宣言から200年ほどでフランス革命からも100年くらいな19世紀末、王権神授説ももう古びてそうな時期にその選民思想どうなってんだろうねとか、ロンドンに女王いるから大洪水来たら困るどころじゃなくない?とか、突っ込みどころすごいな改めて考えると。

イントロダクションで「家畜ども」と市民たちを蔑んだ口が「ノアも家畜を殺した、同じように下民を殺して何が悪い?」と語るの、実に一貫していて憎まれ役っぷりが輝いてますな。

 

ノアティック号船上オペラ(アイーダ)

(Amor fatal, tremendo amor,)
Spezzami il cor, fammi morir!
Numi, pietà del mio soffrir! ecc.
(この不吉な愛が、恐ろしい愛が、)
私の心を打ち砕き 私に死をもたらすのです!
神々さま、私の苦しみにお憐れみを!
(https://youtu.be/MJ42Uiu1Hrc?si=m-DXQhpmp_gUa0nN 4:47から)

オペラ対訳プロジェクト アイーダAct1 https://w.atwiki.jp/oper/pages/634.html

1幕1場ラスト、アイーダのアリア「勝ちて帰れ」の一部分。歌詞のギミックはおうちでモリミュの解説ツイートの通り。

オペラ好きの貴族の人が「2幕からは下の席で」と言っていましたが、「勝ちて帰れ」は1幕1場の終わりなので、このタイミングではなくこの後の神殿での勝利祈願までテラス席で見てから下に行ったのでしょうかね?

 

神への供物(バスカヴィルの人狩り理由)

日がたって、カインは土地の実りを供え物として主のもとに持って来た。
アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た
。主はアベルとその供え物に目を留められたが、
カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記4章3~5節

神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記22章2節

神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした

すると、天から主の使いが呼びかけ、「アブラハム、アブラハム」と言った。彼が、「はい、ここにおります」と答えると、
主の使いは言った。「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記22章9~12節

エフタは主に誓願を立てて言った。「もし、あなたがアンモン人を私の手に渡されるなら、
アンモン人のもとから無事に帰ったときに、私の家の戸口から迎えに出て来る者を主のものとし、その者を焼き尽くすいけにえとして献げます。」
・・・・・・
エフタがミツパにある自分の家に戻ったとき、娘がタンバリンを持って踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、ほかに息子も娘もいなかった。
エフタは娘を見ると衣を引き裂いて言った。「ああ、わが娘よ。あなたは私を打ちのめし、私を苦しめる者となった。私は主に対して口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
娘は父に言った。「お父様、あなたが主に対して口を開かれたのなら、どうか、その口から出たとおりのことを私に行ってください。主はあなたのために、宿敵アンモン人への復讐を果たされたのですから。」
また、娘は言った。「こうさせてください。私に二か月の猶予をください。友達と一緒に山々をさまよい、私が夫を持たない身であることを嘆き悲しんで来るのをお許しください。」
父は「行きなさい」と言って、娘を二か月の間送り出した。娘と友人たちは共に山々を歩き、彼女が夫を持たない身であることを嘆き悲しんだ。
二か月が過ぎ、娘が父のもとに帰って来ると、父は自分の誓願どおりに娘を献げた。彼女が男を知ることはなかった。こうして、イスラエルには次のようなしきたりができた。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 土師記11章30‐31節  土師記11章34~39節

モリミュのバスカヴィル男爵は人狩りして供物とするものが原作と異なっています。(原作は極限状況で人が見せる美しい人間性/関係性が、ミュ―ジカルは子どもの命そのものが神への捧げもの)

創世記4章でアベルの供えた「羊の初子、その中でも肥えた羊」が神に目を留められたり、22章でアブラハムが神に言われた通り息子イサクを捧げようとしたり、土師記11章でエフタが神への誓願通りに一人娘を捧げたりと、動物や人の命を神への供物とするのは旧約聖書的ではあり、ぶっ飛んだ黒魔術的思考によるものではないんですよね。原作だと絵が実にグロテスクかつ悪趣味だったので神聖な行為と宣うのは欺瞞だと明らかに考えられている描かれ方でしたし、モリミュでもサバト(悪魔崇拝の集会)のごとくとか言っちゃってますけど。

結局現れたのは獲物として連れてこられた子どもの「誰か助けて」の声を聞き届けたウィリアムたちであり、バスカヴィル男爵たちにとっての悪魔だったので、彼らからすれば神への供物というより悪魔召喚になっちゃったわけです。それに「全てを捧げて」の英題が"devotion"なんですが、ウィリアムは"devotion(神への尊崇、献身感情)"を向けられる側=陣営や彼に救われるものにとっての神であることが示唆されているので、ある意味神がバスカヴィル男爵の供物に応えたともいえるのがあのシーンであるとも言えるのが面白いですね。

 

ドン・ジョヴァンニ劇中劇とロリンソン抹殺なぞらえ

「界隈での通り名はドン・ジョヴァンニ」とモチーフ元がどんなキャラクターかは、モラン大佐がロリンソン男爵を女好きな異常な好色野郎と言っている通り。

好色な悪党ドン・ジョヴァンニ=ロリンソン男爵
ジョヴァンニに付き従うレポレッロ=レイモンド
ジョヴァンニに夜這いされて父(騎士長)を殺されたドンナ・アンナ=マルチナ
ジョヴァンニに殺されラストに石像姿で彼を地獄に引きずり落とす騎士長=マルチナ父

になぞらえていると考えられます。これの美しいポイントは自殺に追い込まれることでプリマドンナの道を断たれたマルチナが、「地獄の業火にその身を焼かれ~」の後ろでドンナ・アンナ/プリマドンナとして歌いながら地獄に引きずり込もうとしてくるところだと思っています。

『ドン・ジョヴァンニ』の音楽を作中で使っている個所は二か所あり、一つ目がモランやルイスが劇場裏で上映中の歌を聞くところ。

Trema, trema, o scellerato!
Saprà tosto il mondo intero
Il misfatto orrendo e nero
La tua fiera crudeltà!
Odi il tuon della vendetta,
Che ti fischia intorno intorno;
Sul tuo capo in questo giorno
Il suo fulmine cadrà.
<ドン·ジョヴァンニとレポレッロ以外>
裏切り者よ!すべてもう知れているのだ!
震えよ 震えよ おお極悪人!
すぐに全世界が知るだろう
その恐ろしく忌まわしい罪を
お前の相当な残虐さを!
聞け 復讐の雷鳴を
それはお前に轟くのだ まわりで まわりで
お前の頭上に 今日にも
天の稲妻が落ちるだろう
 
È confusa la sua testa,
Non sa più quel ch'ei si faccia
E un orribile tempesta
Minacciando, o Dio, lo va
(Ma non manca in lui coraggio,
Non si perde o si confonde
Se cadesse ancora il mondo,
Nulla mai temer lo fa.)
レポレッロ
旦那の頭は混乱して
もはや分からないようだ 何をすべきかが
そして 恐ろしい嵐が
脅迫を おお神よ 旦那に仕掛けている
(だが旦那はこんなことじゃくじけない
惑うことも 悩むこともしない
たとえ世界が終ろうとも
何も旦那を恐れさせるものはない)
 
È confusa la mia testa,
Non so più quel ch'io mi faccia,
E un orribile tempesta
Minacciando, o Dio, mi va
(Ma non manca in me coraggio,
Non mi perdo o mi confondo,
Se cadesse ancora il mondo,.
Nulla mai temer mi fa.)
ドン・ジョヴァンニ
私の頭は混乱して
もはや分からぬ 何をすべきかが
そして 恐ろしい嵐が
脅迫を おお神よ 私に仕掛けている
(だが私はこんなことではくじけない
惑うことも 悩むこともない
たとえ世界が終ろうとも
何も私を恐れさせるものはない)
モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕 クレンペラー指揮/ギャウロフ 1:31:37から)

オペラ対訳プロジェクト ドン・ジョヴァンニActⅠScene22

全員とドン・ジョヴァンニ/レポレッロの二つのメロディーが掛け合いで進む『ドン・ジョヴァンニ』1幕フィナーレ「早く早く、あの男が来る前に」のラストです。原曲の繰り返しのパートとドン・ジョヴァンニ/レポレッロの後半が削られているものの、終わり部分をそのまま使用しています。

極悪人めお前に復讐の雷が落ちるぞ!って言っているので、ロリンソン男爵の末路の予告として意味がまんまです。

二つ目が「闇の歌劇(Ⅱ)」のアンサンブルパートです。

(Questo è il fin di chi fa mal;
E de' perfidi la morte)
Alla vita è sempre ugual.
(これぞ悪事をなす者の最期
そして不誠実な者の死は)
その生と似つかわしいものになる
モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕 クレンペラー指揮/ギャウロフ 3:00:02から)

オペラ対訳プロジェクト ドン・ジョヴァンニActⅡSceneFinal

地獄に落ちたドン・ジョヴァンニ以外の全員で歌う『ドン・ジョヴァンニ』2幕フィナーレ「もう食卓の用意はできた」のラストです。モーツァルトの音楽に新しくウィリアムの旋律を乗せて一つの曲にしちゃうここ、気づいたときびっくりしました。ただすけさんすごいっすね(n度目の感嘆)。

言っていることも因果応報だよ~なので、1幕フィナーレの使い方と同じようにロリンソン男爵の最期の状況まんまですね。ただ、モチーフ元のドン・ジョヴァンニはこのシーンより前にもう騎士長の石像によって地獄に連れていかれているのですが、ロリンソン男爵はこの最後のメロディーで断罪されています。これはウィリアムの歌を劇的に演出するために、またアンサンブルの赤く光る仮面などの演出を効果的に使うために石像と一対一のシーンの音楽にしなかったというのもあるでしょうが、やはり「マルチナが亡霊のプリマドンナとなり復讐を果たしに来た」という演出を魅せるためでもあるのではないかと想像しています。

 

ベラドンナ(ロリンソン男爵殺害のための毒)

和名は「美しい貴婦人」を意味するイタリア語から来ており、ルネサンス期の貴婦人が葉のしぼり汁を薄めて点眼し、目を美しく見せたことにちなむ。しかし毒性はきわめて強く、注意を要する。

朝日百科植物の世界3巻17p

美しい貴婦人の名を冠した毒で好色な悪党を成敗するという、これ以上ない適役の果実。

なお、『ロミオとジュリエット』で出てくる毒でベラドンナを使用するのはプレスギュルヴィック版のミュージカル(東宝版および宝塚版しか見たことがないのでフランス版でもベラドンナと言及しているのかは未検証)であり、原典には何でできた毒なのかは書かれていませんでした。

 

死の谷(I hope/I will)

たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 詩編23編4節

どんなに恐ろしい場所に向かうときにも神はともにおられるのだから恐れはしない、という祈りの言葉ですね。映画とかでも引用されがちだそうで。

モリミュだと神への祈りに通じた言葉というよりは単に「これから向かう先に横たわり、歩むうえで感じる恐ろしい苦難」という意味で「死の谷を歩む」「深い闇の谷を歩む」と表現しているのでしょうかね?その苦痛を味わってでも「この果てで君と」「必ずこの手でお前を」という望みのために、ということなので。

 

エデンの東(イーストエンド)

神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記3章24節

カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 創世記4章16節

Op.3イントロダクションで「ロンドンの闇 エデンの東 貧民街と人は呼ぶ」と貧民街の人々が歌っています。ロンドン東部イーストエンドが楽園に程遠い場所だってことなんだと思うのですが、上記のように聖書に記述があるので、「エデンの東」という言葉には楽園から追放された者/神に見放された地で安住出来ぬまま生きる者の地という意味を含んでいると読めますね。

 

ゲヘナの火(ならば悪の血を飲み干して〜)

ゲヘナは「ヒンノムの谷」というエルサレム市の南にあったごみや死体を処理した地を由来として「地獄」を意味する言葉です。

ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 マルコによる福音書9章48節

しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、偽預言者は、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者を惑わしたのである。獣も偽預言者も、生きたまま硫黄の燃え盛る火の池に投げ込まれた

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 ヨハネの黙示録19章20節

そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者もいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 ヨハネの黙示録20章10節

死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 ヨハネの黙示録20章14節

命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 ヨハネの黙示録20章15節

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 ヨハネの黙示録21章8節

「この身悪魔となり果てて地獄に落ちて火に焼かれようとも悪魔を殺す」「人殺し、唯一神以外を信仰し偶像を崇拝するものは火と硫黄の地獄に落ちる、だから禁忌を犯してはいけないと知っていてなお信念のために罪に手を染めよう」という決意の歌詞ですね。

アニメでウィリアムが橋から落ちるときに下が燃え盛る炎だったのも、憂モリにおける「地獄に落ちる」という行為のイメージの一貫を感じます。まあ日本人の地獄のイメージって基本燃えてるし、炎への言及が一番分かりやすいよねって言ったら身も蓋もないんですが。

 

重き荷、ゴルゴダへの道(Op.3、Op.5兄様ソング)

そして、イエスの着ている物を剝ぎ取り、深紅の外套を着せ、
茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩いた。
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 マタイによる福音書27章28~34節

同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 マタイによる福音書27章38節

重き荷=十字架を、キリストとともに磔刑された罪人のように、またゴルゴダの道の途中で力尽きたキリストのため十字架を担がされたキレネのシモンのように己も背負い、最後までの道をウィリアムと共に行こうとアルバートは歌いかけているんですね。そう思われている方は「君たちがとても大切だから 僕は一人 ただ一人」って言ってんすけど……

ところで、聖書の表記は「ゴルゴタ」なのですが、モリミュの歌詞は「ゴルゴダ」なんですよね。エヴァンゲリオン内に出てくるプロジェクト名とかも「ゴルゴダ」になってたりするのですが、これは誤植?それとも表記揺れの範囲なのでしょうかね?

 

エダルジ事件(ドワイト医師冤罪事件の着想元)

コナン・ドイルは、ウォリックシャーで馬や牛を傷つけたとして有罪になった、パールシー系インド人のジョージ・エイダルジの無罪を勝ち取るべく、個人的な闘争に関わる。彼はみずからつくり出した探偵の手法を使い、視力が非常に弱いエイダルジには動物に対して残虐行為を行えたはずがないと立証したのだった。

シャーロック・ホームズ大図鑑19p

夜盲症(やもうしょう、英語: Nyctalopia)は、暗部の視力が著しく衰え、がよく見えなくなる病気。
(夜盲症の原因は)先天性は遺伝性、後天性はビタミンAの欠乏による。

夜盲症 - Wikipedia

スコットランドヤード狂騒曲冒頭で「容疑者はマイケル・ドワイト‼貧民街の町医者だ‼」とだけ原作で言われてその詳細は空白だった部分を、モリミュではコナン・ドイルが史実で関わった冤罪事件であるエダルジ事件を基に補完しました。

ジョン自身も医者だし、Op.2で自分も冤罪事件に巻き込まれたというのもありますね。……エダルジ事件という冤罪事件をモデルにして作りました。

アニメージュ2022年2月号、140‐141p、西森

また、ドワイトは栄養不足になり目を患ってもなお貧民街という場所で人を救ってきた医者であると推理しえる要素として「夜盲症」という設定にしたのだと考えられます。「善き人」を襲う権力の理不尽に許せないと怒るジョンにつなげる必要がありますからね。

 

一人の学生に出てくるビル

元ネタは『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)という映画なのですが、こちらは原作からあるモチーフですしまとめている方もいらっしゃるので割愛します。

 

3人の魔的存在、きれいはきたない、万歳!、殺人の隠蔽、手に染み付いた血〜(マクベス)

三人の魔女「きれいはきたない、きたないはきれい。飛んでいこう。霧と汚れた空気の中を」(マクベス1幕1場)
 
第一の魔女「ほら、水夫の親指だ。帰る途中で難船した」(1幕3場)
 
第一の魔女「万歳、マクベス!おめでとう、グラームズの領主様!」
第二の魔女「万歳、マクベス!おめでとう、コーダァの領主様!」
第三の魔女「万歳、マクベス!いずれは王となられるお方」(1幕3場)
 
マクベス夫人「さあ、人殺しの手伝いをする悪霊ども、わたしを女でなくしておくれ。頭のてっぺんから足の先まで、恐ろしい残忍さでいっぱいにするんだ!この血をドロリとさせて、やさしい思いやりの通らないように、道をふさいでおくれ。人情などが顔を出して、わたしの残酷なもくろみをゆすぶったり、やりとげるまでに気後れがしたりしないように!人殺しの悪霊ども、この女の乳房にたかって、甘い乳を苦い胆汁に変えておくれ!お前たちは姿も見せずに、いつも自然に背いた悪事の手助けをしているではないか。さあ、暗い夜よ、来るがいい。まっ黒な地獄の煙で身を包むのだ。わたしの鋭い短剣が自分の作った傷口を見ないように、天が暗闇の幕を通して、「待て、待て」と叫ばないように!」(1幕5場)
 
マクベス夫人「なぜ短剣なんかここへ持ってくるんです?あそこへ置いとかなくちゃ。さ、持っていって、眠っている家来に血を塗り付けておやりなさい。……意気地のない!短剣をお貸しなさい。眠っている人間や、死んだ人間は、筆で描いた絵みたいなものじゃありませんか」(2幕2場)
 
マクベス夫人「まだここに汚点(しみ)がある。……消えてしまえ、こんな汚点(しみ)!消えよ、というのに!……ええっ、この手はもう二度ときれいにはならない?……まだ血の臭いがする。アラビアじゅうの香料を使っても、この小さな手の臭いを消すことはできまい」(5幕1場)

シェイクスピア全集7 悲劇Ⅱ マクベス

・荒野にてマクベスに予言を伝えた三人の魔女がミルヴァートンの手下三人衆ラスキン・ハリー・ゴズリングでなぞらえられている(「きれいはきたない きたないはきれい」「万歳ホワイトリー」)
・マクベス役としてスターリッジを刺殺したホワイトリーに対して、その犯罪の隠蔽工作をしたウィリアム(なおミルヴァートン殺害時にはシャーロックに犯罪教唆をしていたといえるので、ウィリアムはマクベス夫人のダンカン王殺害教唆と隠蔽という要素を分けてOp.4で行っていたともいえる)
・押し込めたはずの罪悪感に追いつかれ心を病んで血の幻覚に苛まれたマクベス夫人のように、何もない手に血の幻覚を見るウィリアム(「この手に沁みた罪の血は ぬぐえどもぬぐえども消えはしない」「指と指の合間から死者の匂いが漂う」)

上記部分がだいたいのOp.4におけるマクベス要素です。

原作での『マクベス』要素は

・「最後の事件」で血の幻覚を見たり(49話)何もない手を井戸で洗っていた(50話)ウィリアム(ただ手を洗う描写は映画『007/カジノ・ロワイヤル(2006)』のヴェスパーの方が意識されていそうだとは思います。そのヴェスパーのシーンもマクベス夫人が元ネタでしょうけれど)
・「空き家の冒険」でアルバートが過去回想をしていた時(63話)の「理想のための手段は分かっている、しかし罪を犯す勇気が持てなかったアルバート少年(マクベス)」「そして罪を犯す道の方をどう考えても外堀埋めて教唆していた孤児の兄(マクベス夫人)」

だったのですが、ロンドンの騎士でこうもダイレクトに『マクベス』してくるのには驚きました。

理想を掴むために心の内の罪悪感を押し込めて人に「罪を犯せ」と教唆し手を血で染めてきたが、時間が経つにつれ罪悪感が息を吹き返して大きくなり、最終的に心を病んで血の幻覚を見るキャラクターとして元々ウィリアムとマクベス夫人の親和性はかなり高いものでした。モリミュではウィリアムの心情を深堀りして描いてきたため、さらにその親和性が分かりやすくなっているなと思います。

あとスターリッジの妻の指が送られてきたという話の挿入はアニメからの輸入というか原作サイドからの提案だったそうなのですが(アニメージュ2023年8月号173p)、『マクベス』内で自分を虚仮にした女の夫(船乗り)の指を持ってきて弄んでいて、「なんでそこシンクロしちゃったの?」となったのでついでにここも入れておきます。

 

正義の騎士が殺人鬼に(バットマンのトゥーフェイス)

これも映画『ダークナイト』(2008)のハービー・デントが元ネタなんですけど、原作からあるモチーフですしまとめている方もいらっしゃるので割愛します。

 

パンを踏むミルヴァートン(パンはキリストの肉)

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 マタイによる福音書26章26節

パンとワインはキリストの肉と血とされ、聖餐式の重要なアイテムとなっています。そこで使われるパンはまた別のものではありますが、サンドイッチのものだとしてもパンを踏みにじるのは神を侮辱する冒涜的な悪党という印象を持たせる効果があると読めます。

まあ紅茶に煙草の燃えカス入れたのも合わせて日本人的に食べ物を粗末にするのは一発ワルイヤツ判定行動なので、二重に「ミルヴァートンマジでこいつ許したらあかん悪党や」と思わせるためのパートになってるわけです。

 

荒野で彷徨う

見よ、主の日が来る。/容赦ない憤りと燃える怒りをもって/地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 イザヤ書13章9節

そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。/アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。
そこにはハイエナが伏し/家々にはジャッカルが群がり/鷲みみずくがとどまり/山羊の魔神が踊る。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 イザヤ書13章20‐21節

さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた
そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。/「『人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、
言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。/『神があなたのために天使たちに命じると/彼らはあなたを両手で支え/あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」
さらに、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。/『あなたの神である主を拝み/ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが近づいて来て、イエスに仕えた。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 マタイによる福音書4章1~11節

きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼(バプテスマ)を受け、
皆、同じ霊の食物を食べ、
皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました
これらのことは、私たちに対する警告として起こりました。彼らが悪を貪ったように、私たちが悪を貪る者とならないためです。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 コリントの信徒への手紙一10章1~6節

「ああ天よ罪深き我は光もなき荒れ野で彷徨う」
「ひとり歩く荒れ野に救いも赦しも無い」
「ひとり彷徨う荒野に死せる悪魔の声が響く」

モリミュの中で「荒れ野」はウィリアムの歌詞の中で出てくる単語です。

聖書的には荒れ野は「神に見放され豊穣という恩恵のない、悪魔や野獣の巣食う死の土地」を意味しています。神の怒りを買うものは荒野に放り出されて無残に死ぬし、神を内に抱くものは荒野に在っても悪魔の声に惑わされず聖者として力を発揮するというわけです。

上記の試練(マタイによる福音書4章・荒野の誘惑)を経てキリストは救世主としての活動を始めるのですが、ウィリアムは死の誘惑に捕らわれながらも身を委ねなかったってことなんかなぁ?ここはまだ解釈がうまくまとまってないですね。

明白なのはウィリアムの自認が「自分は荒れ野にあるべきものであり、神の御許にあらぬ悪しきもの」ってことですが、ただ「彷徨う=安住なく迷い歩いている」ってことはそこに属する存在になってないってことなんだよね……。潰れる心があるうちは真性の悪魔というにはまだ弱いんよ。そこの脅迫王見てみろ。

 

ゲッセマネ(処刑前に祈り苦悶したキリスト)

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
ペトロとゼベダイの子二人とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。
そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」
少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。
立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』 マタイによる福音書26章36~46節

キリストが最後の晩餐を終えて、処刑のために捕らえられる前に父なる神に祈りをささげた場所がゲッセマネの園です(オリーブ山にあるとのことですが「丘」と言ってるのはにわかの調べもの範囲で見受けられず、なんで「ゲッセマネの丘」って言ったんだ?問題は未解決です)。

最後の時が近づいているのを悟りつつある中で、キリストと重ね見ているウィリアムが苦悩して天に祈っている姿に兄さまは「ゲッセマネの祈り」を思ったのでしょう。

ただ、ゲッセマネの祈りで眠ってしまったのはキリストではなく弟子たちなので、眠っているように見えるウィリアムの姿を見つめながら歌うには少しずれているような気もするなと少しだけ感じます。いや、「苦悩し伏した救世主の祈り」という点でなぞらえたのだからおかしくはないのか。

 

煉獄(罪と向き合う場所)

煉獄という概念は、カトリックで正典としているがユダヤ教やプロテスタントが正典から除外している文献を論拠としているものです。ざっくりいうと「罪を悔い改める余地のあるものが死して行き、罪を清めたのちに天国に上る場所」です。日本の地獄と観念的に近いのはこちらですね。

ウィリアムやルイスは「わが身は地獄の業火に焼かれるべきもの」「ゲヘナの火に焼かれようこの魂」って言ってますが、アルバートにとって罪深いのは己であり、彼らは神の御許に迎えられて当然の存在と思っているわけです(神聖視フィルターが分厚すぎるよ……)。なので罪を裁かれるべき己は煉獄に落とされ責め苦を負うが、しかしどれだけの時間をかけてでも天国にいる二人に会いに行こうという気持ちが込められているのが「煉獄」というチョイスなのかな、と考えます。

あと煉獄といえばダンテの『神曲』で煉獄の山頂で永遠の淑女ベアトリーチェに出会い、彼女に導かれて天国に昇るのが有名ですが、これをイメージしていたりもするんでしょうかね?英国国教会(プロテスタント)は煉獄について載せている文献を聖典としていないはずなので、煉獄という概念をアルバートがどこで得たのかというと『神曲』を読んでいたとするのも無理筋ではないと思いますし。ウィリアムに出会ったことで今の人生へと歩みだしたアルバートが、死したのちもいつかまたベアトリーチェのようにウィリアムに出会い導いてほしいという話?うーーん苦しいか……

 

ミルヴァートン被害者の会(リチャード三世)

 王子エドワードの亡霊、二つの天幕の間に出る。
亡霊「〔王に〕明日はお前の魂の上に重く重くのしかかってやるぞ!
わしがまだ若いときに、テュークスバリで、このわしを刺し殺したことを憶い出せ!だから絶望せよ、そして死ね!
〔リッチモンドに〕リッチモンド、元気をお出しなさい。殺された王子たちの辱しめられた魂が、お前の味方になって戦うのだから。
ヘンリー王の子供たちが、リッチモンドよ、お前を激励しているのだ」
 ヘンリー六世の亡霊出る。
亡霊「〔王に〕わしがまだ生きていたとき、わしの聖油を受けたからだは、お前のためにいくつもの致命傷を負わされた。
ロンドン塔とわしを憶い出せ。絶望して死ね!
ヘンリー六世はお前に、絶望して死ねと命令する。
〔リッチモンドに〕徳高くして清純な者よ、お前が勝利者になれ!
お前は王位に即くだろうと予言したヘンリーが、眠っているお前を激励しているのだ。生きて栄えよ!」
 クラレンスの亡霊出る。
亡霊「〔王に〕明日こそは、お前の魂の上に重くのしかかってやるぞ!
あの胸も悪くなる、酒樽の中へ投げこまれて殺されたわしだ。狡猾なお前のために裏切られて殺されたかわいそうなクラレンスだ!
明日、戦闘しているときにわしのことを憶い出せ、そしてお前のなまくら刀を落してしまえ!絶望して死ね!
〔リッチモンドに〕ランカスター家の後裔よ、ヨーク家の、辱められた後裔が、お前のために心から祈ろう。
天使たちがお前の戦闘を守護してくださいますように。生きて栄えよ!」
リヴァーズの亡霊「〔王に〕明日こそは、お前の魂に重くのしかかってやるぞ!パンフリットで死んだリヴァーズじゃ。絶望して死ね!
グレイの亡霊「〔王に〕グレイのことを憶い出せ、そしてお前の魂を絶望させろ!
ヴォーンの亡霊「〔王に〕ヴォーンのことを憶い出せ、そして罪の恐怖で、お前のなまくらの槍を落してしまえ。絶望して死ね!……」
全部「〔リッチモンドに〕眼醒めよ!リチャードは、われわれに犯した数々の罪の阿責で滅ぶのじゃ。
眼醒めよ、そして戦いに勝て!」
 ヘイスティングズの亡霊出る。
亡霊「〔王に〕残忍この上ない大罪人め!罪の呵責に耐えかねて眼醒めよ!そして残忍な戦いで、お前の一生を終れ!
ヘイスティングズ卿のことを憶え、そして絶望して死ね!・・・
〔リッチモンドに〕静かな、安らかな魂よ、眼醒めよ、眼醒めよ!武器をとれ、戦え、そして勝利者となれ、わが英国のために!」
 二人の幼王子の亡霊出る。
二人の亡霊「〔王に〕ロンドン塔で締め殺された二人の甥を夢に見よ。
おのれリチャードめ、二人とも鉛になって、お前の胸にのしかかり、滅亡と屈辱と死へと、お前を圧しつぶしてやろう!
お前の甥の二人の魂が、お前に命じる。絶望して死ね!
〔リッチモンドに〕眠れ、リッチモンドよ。安らかに眠れ。そして喜びのうちに眼醒めよ!
天使たちが、あの猪めからお前を守護してくださいますように!生きよ、そして幸福な王統をつくりなさい!
エドワードの不幸な息子たちが、お前に、栄えよと命じます」
 アン夫人の亡霊出る。
亡霊「〔王に〕リチャードよ、お前の妻、お前と共に寝て、一度だって安眠したことのない、お前の妻のかわいそうなアンが、今こそお前の睡眠をめちゃめちゃに攪乱してやろう。
明日、戦闘のときに、わたしのことを憶い出せ。そしてお前のなまくら刀を落してしまえ。絶望して死ね!
〔リッチモンドに〕安らかな魂よ、安らかに安らかに眠れ!成功と幸福な勝利の夢を見よ!
お前の敵、リチャードの妻は、お前のために祈ろう」
 バッキンガムの亡霊出る。
亡霊「〔王に〕わしはお前が王位につくのを授けた第一番目の人だ。わしはお前の暴虐な振舞いの犠牲になった最後の人だ。
おぉ!戦闘中に、バッキンガムのことを憶い出せ。そしてお前の犯した罪の恐ろしさで死ね!
夢を見よ、夢を見よ、残忍な行為と恐ろしい死の夢を見よ。気を失って絶望しろ。絶望してお前の息をひきとれ!
〔リッチモンドに〕わしはお前を援けようとしたために殺された。実際はできなかったのだが。
しかし元気を出しなさい。決して失望落胆などしないように。
神と天使たちが、リッチモンドの味方となって戦ってくださるのだ。そして、リチャードは得意の絶頂において転落するのだ」
 〔すべての亡霊消える。王、うなされて、とび起きる〕
(リチャード三世5幕3場)

シェイクスピア全集5 史劇Ⅱ リチャード三世

犯人は二人クライマックスでミルヴァートンの最期に被害者の会が上に並ぶのは『リチャード三世』がオマージュだと西森先生がおっしゃっています(アニメージュ2023年8月号173p)。上記の通り政争の敵であったもの、殺したもの、かつて味方であったもの、あらゆる亡霊が最終決戦前のリチャードとリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの枕元で呪いと激励を叫ぶシーンです。モリミュでは因果応報の劇的さが出る演出になってるのがとてもいい演出だったのですが、一方でこれだけの人を不幸にした者のため引き金を引くのが正しいと思わせる流れに抗いがたすぎて割と怖いなとも感じました。

 

運命の車輪(タロット、fortuneからfateへの変更)

「運命の輪」パメラ・コールマン・スミス, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

正位置の意味
転換点、幸運の到来、チャンス、変化、結果、出会い、解決、定められた運命、結束。
逆位置の意味
情勢の急激な悪化、別れ、すれ違い、降格、アクシデントの到来、解放。

運命の輪 - Wikipedia

原作のミルヴァートン邸から去るときの馬車から着想され、”fortune”より”fate・避けられない運命”の方がしっくりくるので「運命の車輪は止まらない」が"The wheel of fate never stop"になったとのこと(アニメージュ2023年9月号147p)。

 

死の象徴(骸骨というシンボル、ダンス・マカブル、エリザベート)

「死の舞踏」Michael Wolgemut, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

「死の象徴としての骸骨がすぐそばにいるというのは、西洋絵画でよく使われる手法なんです。『欲望という名の電車』で主人公のブランチの気がおかしくなっていく時にも似た演出表現があったし、『エリザベート』に出てくるトートも死の概念ですよね」

アニメージュ2024年3月号148p

死の概念存在に肉体を持たせた舞台表現をするのは『ロミオとジュリエット』でもやっていたりするので、想像というか妄想はしていたのですが、Op.5であんなにわらわら出てくるとは思ってなかったんですよね。ウィリアムの希死念慮と罪悪感がどのように彼を捕らえているのかを視覚的に理解させるインパクトのある演出となっています。

『エリザベート』のプロローグの副題は日本語版だと「我ら息絶えし者ども」ですが原語だと”Alle Tanzten mit dem Tod”、直訳すると「皆死と踊った」となります。死の舞踏/ダンス・マカブルという観念があるように、西洋では死とはダンスの相手であるという考え方があるんですね。だから「最後のダンスは俺のもの」だし「踊るときは命果てるその時まで一人舞う」し、「僕は怖い」で死がそばにいるんです。

ウィリアムが骸骨たちに群がられている絵が来て大変頭のねじをぶっ飛ばされる心地だったのですが、ここでさらに彼らの手を取って踊るような演出が来ていたらいよいよもって致命傷だったので、命拾いしたな……というのが個人的感想です。最後の事件の橋上は踊り子事件のリプライズ説に感銘を受けて、輪舞曲の手を取れないダンスに頭パーンした人間なものですから……。

 

リチャード三世(長官の例え)

マイクロフト「さながらここは赤薔薇の軍勢に取り囲まれた悪王リチャードの最後の砦と言ったところか」

ミュージカル憂国のモリアーティOp.5 最後の事件

かつて王位にまで上り詰めた(人々に支持される地位となった)が、悪評とともに市民からの支持を失ったリチャード三世に犯罪卿をなぞらえたマイクロフトのセリフです。

内容としては言っているままで深読みも何もないなのですが、ただひとつ注意したいのはリチャード三世の最後の戦いは籠城戦ではなかったということです。リチャード三世の最期となった戦地であるボズワースは城の名前ではないし、前日にリチャード三世が枕元で呪いを散々聞かされたのは野営のテントの中の寝床でした。死ぬときにはヘンリー軍(赤薔薇の軍勢)に囲まれ討たれたとのことなので完全に間違いではないですが、「四面楚歌」のような事象が『リチャード三世』で起きたわけでないのです。

モリアーティ邸は(この時点で)囲まれてはいても健在だったため「砦」と形容したわけですが、元ネタを知らないと「リチャード三世って籠城戦に負けて死んだんだ」ってうっかり受け取っちゃいそうだなって……というか私がそういう勘違いしちゃっていたというお恥ずかしい話なだけなのですが。だって日本の武将って城攻められて死にがち(勝手なイメージ)じゃないっすか……

 

無垢なるイヴを唆し知恵の果実を食べさせ罪の道を行く共犯となった

神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」
女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べることはできます。
ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」
蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。
それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた
すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。
その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。
神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」
神は言われた。「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」
人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」
神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』創世記3章1節~13節

アルバートの宗教観ワケワカンナイヨーって点はいくつかあるんですけど、ここが最たるものな気がします。

――一方のアルバートは、来訪したマイクロフトに私が無垢なるイヴをそそのかし、知恵の果実を食べさせ」と語っていましたが……。
西森 このセリフは原作サイドの進言ですね。アルバートにとってのウィリアムは、知恵の果実ではなく、無垢なるイヴなんです。そしてアルバートはアダム。そそのかしたと言っても、蛇ではないです。
――つまり、ウィリアムは、アルバートの計画というか人生のパートナーであると。
西森 そういうことです。ここまで二人でやってきたという意識の表れです。

アニメージュ2024年3月号151p

原作でアルバートは「私がウィリアムを楽園追放へと追いやったのだ。私は知恵の実を欲した、だが自分で食べる勇気は無かった」と告解しています(モノローグの背景絵は手にしたリンゴとそれを見つめる蛇)。なので捻りなく受け取ったら知恵の実を食べるようイヴを唆した蛇(悪魔)という自己認識だったのですが、正確なのは聖書の読み方を捻った「知恵の実を食べるのが怖くてイヴに先に毒見させたアダム」だったわけです。そりゃ蛇は知恵の実食べたわけじゃないし、知恵の実を口にしたものであると自分を思っているならアダムですよね。でもやっぱり聖書の読み方おかしくないかなーー??

アルバートから見たウィリアムは悪魔性がめっちゃ薄くない?の問題提起は結構行っているのですが(アルバート回想時のウィリアムはどう考えてもモリアーティ家抹殺ルートの外堀埋めてたのに、アルバートは自分が依頼したことが発端だとしか思っていない)、蛇の誘惑およびそれに屈したイヴはどこ行ったんやその読みというこの「無垢なるイヴ」解釈もそこに通じているのかもしれないですね……。

 

レ・ミゼラブル(赤い旗、ガブローシュ、ベイカーストリートイレギュラーズ(ホームズファンクラブ))

ミュージカル『レ・ミゼラブル』 (https://www.tohostage.com/lesmiserables/)

赤い旗は『レ・ミゼラブル』のポスターにも載せられるほど印象的なシンボルです。そしてそこに「貧民街育ちの少年」が加わったらそれはもうガブローシュのオマージュであることに間違いはないでしょう。

また、現実世界にあるシャーロキアンの団体名は「ベイカーストリートイレギュラーズ(BSI)」であり、旗を振っていたウィギンズはBSIの由来となった作中集団の筆頭キャラクターです。そんな彼が旗持ちとなって「名探偵のもとに」の歌詞のところで出てくるのは、ホームズに続こう、ホームズの力になろうという意味が作中世界と客席のメタ世界どちらにもかけられる演出になっていると考えられます。

 

どうか子どものミルクだけでも

ミルク 今日もまた品切れ どうして 空っぽのままじゃ帰れない 家じゃ赤んぼが待ってる

『エリザベート』ミルクより

憂国のモリアーティを描く上で王侯貴族と市民の格差の参考元の一つと提示された『エリザベート』の、そのオマージュのような悲鳴が巡り巡ってミュージカルになって劇場に響くの、いいですよね。

 

黒猫(壁に埋められた死体、化け物(罪悪感の幻))

シャーロック「黒猫……エドガー・アラン・ポー……煉瓦の壁の中か」

ミュージカル憂国のモリアーティOp.5 最後の事件

猫もまた私たちの後を追って、急階段を降りて来たが、とたんに私は足をからまれ、危うく転げ落ちるととろだった。私はたちまちカッとなった。手斧を振り上げると、腹立ちまぎれというか、これまで抑えてくれていた子供じみた恐怖のことなど一瞬に忘れ、猫をめがけて真向に打ち下ろしたのだ。もし望み通りの一撃にさえなっていれば、もちろん猫は即死だったろうはず。ところが、その手をとめたものがいた。妻の手だったのだ。
だが、邪魔がはいったとなると、私の憤怒は悪魔そこのけに燃え上がった。妻の手をふりほどくと、なんと妻の脳天深く、一撃を加えたのだ。うめき声一つ立てず、妻はその場で息絶えた
……結局最後にふと思いついたのは、上のどれよりもはるかに名案、つまり、中世の僧侶たちは、よくその犠牲を壁の中に塗りこめたと、物の本に見えるが、それをいまこの地下室でやってみようと決心したのだ
……モルタルと砂と毛髪とを手に入れると、それこそ文字通り細心の注意を払い、元のと少しも変わらぬしっくいを調合したうえ、これで新しい煉瓦壁の表面を丹念に塗りおおせた。
 
数本のたくましい腕が、壁を掘り毀っていた。壁はドカリと崩れ落ちた。そとにはすでに腐爛しきり、血の塊だけがこびりついた死骸が、スックと人々の目の前に立っていたのだ。そしてその頭のてっぺんには、あの巧みに私を誤らせて殺人をさせ、いままた暴露者として、私を絞首人の手に引き渡したあの恐るべき大猫が、真っ赤な口を開け、火のような片目を光らせ、座っていたのだった。私はあの怪物を、墓の中に塗りこめていたのだ。

エドガー・アラン・ポー『黒猫』

動物好きだがアルコール中毒の主人公は黒猫プルートゥを飼って妻と一緒に可愛がっていた。中毒症状が進み「天邪鬼」の精神に取り付かれた主人公は黒猫の片目をえぐり、やがて縊り殺してしまう。殺してからしばらくして、プルートゥにそっくりで片目が潰れている黒猫に酒場で懐かれ、家に連れて帰る。妻はプルートゥが帰ってきたと喜び愛でるが、主人公は気味が悪いと猫に憎悪を抱く。ある日足に絡まれたことで腹を立てた主人公は猫を殺そうとするが、それを止めようとした妻にも腹を立てて彼女を殺す。妻の遺体を地下室の煉瓦壁に埋めた主人公は次こそと黒猫を探すが、見つからない。数日後に行方不明の妻の捜索で警察が家を訪れるが、彼らは妻を見つけられない。気を良くした主人公は「ここには何もない」と壁を叩いて見せる。すると人のものとも思えぬ恐ろしい咆哮が聞こえてきた。警官が壁を壊すと、そこには妻の死体と、その頭に座した猫がいた。

↑黒猫のあらすじはざっとこんな感じです。

黒猫が何を象徴しているのかの研究はいろいろとありますが、「罪悪感」や「良心」であるという読み方があるあたりに『黒猫』を採用したモリミュのウィリアム解釈が見える気がします。罪悪感や良心を切り離して狂気に身を染めたつもりでも、結局追いつかれて精神が壊れる悪人の示唆がここまでで色々ありましたし(マクベスとかさ)。

――ちなみに。この手紙と出生記録のありかを示す「黒猫の鳴く場所」というのは『モリミュ』オリジナルですね。
西森 ちょっとしたクイズというか、ウィリアムとシャーロックらしく、何かの例え話で分かり合うシーンを作りたくて。美術の打ち合わせの時に「壁、崩せますよ」という話になって、「だとしたら」とアイディアを出しました。コナン・ドイルはエドガー・アラン・ポーを読んでいたので、シャーロックも読んでいることにして『黒猫』をモチーフにしたやり取りを挟んでみました。

アニメージュ2024年3月号149、150p

「片目をつぶされた猫が煉瓦の壁の中の死体を見つけてと鳴く」というのを、「ウィリアムが壁に隠した出生記録(死んだ孤児)を見つけてと書く」にしたわけですね。

余談ですが同じ本を読んでいる人というシンパシーのロマンス性に関してうみねこの戦人とベアトリーチェのそれを思い出してしまったりしたので、この挿入は個人的にかなりのツボポイントでございましたね。

 

ハムレット(To be or not to be)

ハムレット 生きる、死ぬ、それが問題だ。どちらが貴いのだろう。残酷な運命の矢弾をじっと忍ぶか、あるいは寄せ来る苦難の海に敢然と立ち向って、闘ってその根を断ち切るか。(ハムレット3幕1場)

シェイクスピア全集6 悲劇Ⅰ ハムレット

大変有名なこの一文。生きるか死ぬか、生かす道があるのかこのまま死なせてしまうのか、手紙を読んで最後の選択肢が目の前に現れたシャーロックの思考にいい感じに当てはまっていると言えます。

あとこの翻訳は正確ではないとかなんとかもよく聞く話ですね。「このままでい続けていいのか、いけないのか」と言った方がニュアンスが正しいという話があるし、モリミュの歌詞的にもこっちで意味を取った方がより分かりやすくなります。「to be=現状維持=死の定め」「not to be=現状打破=生きる意志」となりますので。

原典と生死が反転しているところがウィリアムの面倒くさい複雑さを表している気がしますね……。

 

ソドムとゴモラの火(悪徳により神に滅ぼされた街)

主は、ソドムとゴモラの上に、主のもとから、すなわち天から硫黄と火を降らせ、
これらの町と低地一帯、町の住民すべてと、土地に芽生えるものを滅ぼされた。

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』創世記19章24節‐25節

堕落して神の御使いまでも嬲ろうとした街を神は火の雨で滅ぼした、という創世記の話のひとつです。神にとって代わってロンドンという腐敗した都市に罰を下そうだなんて傲慢極まりない歌詞でゾクゾクしちゃいますね。

神はソドムを滅ぼすときに「十人でも正しい人がいるなら滅ぼさない」とアブラハムとの交渉で決めていた(創世記18章)が、ソドムに正しい人はいなかったため滅ぼしたというのが聖書での経緯なので、「正しいことを成した=身分の垣根を超え協力して炎を鎮めた」ロンドンの人々はソドムとゴモラを追わなくて済んだというのも読めるかなと思います。

 

参考文献

聖書 聖書協会共同訳:©︎日本聖書協会

Japan Bible Society , Tokyo 2018

井上達三(1967)、シェイクスピア全集3 喜劇Ⅲ あらし、㈱筑摩書房

井上達三(1967)、シェイクスピア全集6 悲劇Ⅰ タイタス・アンドロニカス ジュリアス・シーザー ハムレット、㈱筑摩書房

井上達三(1967)、シェイクスピア全集4 史劇Ⅰ ヘンリー五世、㈱筑摩書房

井上達三(1967)、シェイクスピア全集5 史劇Ⅱ リチャード三世、㈱筑摩書房

井上達三(1967)、シェイクスピア全集7 悲劇Ⅱ マクベス、㈱筑摩書房

FOLGER SHAKESPEARE LIBRARY・The Tempest Act1,scene2
(https://www.folger.edu/explore/shakespeares-works/the-tempest/read/1/2/)

エドガー・アラン・ポー、中野好夫(訳)(1978)、黒猫・モルグ街の殺人事件他五編、岩波書店

ピーター・ケネル/ハミシュ・ジョンソン(1997)、荒木正純(訳)、シェイクスピア人名事典、㈱東洋書林

荒井良雄・大場健治・川﨑淳之助(2002)、シェイクスピア大事典、㈱日本図書センター

高橋康也・大場健治・喜志哲雄・村上淑郎(2000)、研究社 シェイクスピア辞典、研究社出版㈱

マンフレート・ルルカー(1988)、池田紘一(訳)、聖書象徴事典、人文書院

旧約新約聖書大事典編集委員会(1989)、旧約新約聖書大事典、㈱教文館

「ベラドンナ」 山田恒史(1997)、朝日百科 植物の世界3巻、朝日新聞社

日暮雅通(2016)、シャーロック・ホームズ大図鑑、三省堂

ジョン・ウォラック/ユアン・ウエスト(1996)、大崎滋生・西原稔(訳)、オックスフォード オペラ大事典、㈱平凡社

石戸谷結子・小畑恒夫・河合秀朋・酒井章(1998)、スタンダード・オペラ鑑賞ブック[2]イタリア・オペラ(下)、㈱音楽之友社

岩下眞好・岡本稔・國土潤一・鶴間圭・堀内修(1998)、スタンダード・オペラ鑑賞ブック[3]ドイツ・オペラ(上)、㈱音楽之友社

オペラ対訳プロジェクト アイーダActⅠ https://w.atwiki.jp/oper/pages/634.html

オペラ対訳プロジェクト ドン・ジョヴァンニActⅠ‐2 https://w.atwiki.jp/oper/pages/3076.html

オペラ対訳プロジェクト ドン・ジョヴァンニActⅡ‐2 https://w.atwiki.jp/oper/pages/3078.html

アニメージュ2022年2月号、徳間書店

アニメージュ2023年8月号、徳間書店

アニメージュ2023年9月号、徳間書店

アニメージュ2024年3月号、徳間書店

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