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【連載小説】「こかげ」第13回(全22回)

「直……」
「うん」
「そんなことを言ってくれるのは……私が目撃者だから?」
「え?」
「私、直が私に対して親切にしてくれるのは、なんていうか、恩返しみたいなものなのかと思ってた。っていうか、思うようにしてた」
「さっちゃん……」


「直があまりに素敵だから、私なんか相手にされるわけがないって思ってた。普通に出逢っていたら、ただの知り合いだったんだろうなって」
「さっちゃん……」
「好きになりすぎるのが、怖かった」
「さっちゃん……」


 結局、確かめる前に言ってしまった。直は片手を私の頭に乗せると、そのまま自分の胸にもたれさせた。回した手で髪を撫で、耳たぶに触れ、肩から腕へと滑らせる。
「目撃者だからじゃないよ」
 手のひらで私の肘を包む直の声が、彼の胸に当てた私の耳で振動する。


「恩返しでもない」
 膝の上でハンカチを握る私の手の形を、もう片方の手で直がなぞった。私たちは水の流れをひたすら眺めていた。あの事件、いや出来事がなければ、私たちは出逢うことなどなかった。直が言った。
「誰かとの出逢い方って、その相手の一部なんだと思う。出逢いそのものは関係が始まるきっかけにすぎない。でも出逢い方は、その人でなければあり得なかったんだと俺は思う。君が恩人だから好きなわけじゃない。そういう出逢い方で現れたからこそ俺にとって知ることのできた君がいて、そんな君を、俺は好きになったんだと思う」


 直の片手が、ハンカチごと私の両手を包んだ。
「君が目撃したあの出来事から、俺は誰に対しても中途半端な態度は取らないと決めた。これって、どういうことか分かる?」
「メモを取った方がいい?」
 見上げた私に直は頬を緩めた。
「いらないよ。メモを取らなくても、忘れないはずだから。あれから俺は決めたんだ。自分の気持ちは、はっきりと相手に伝えようって」


 そうだった。あゆみさんという女性は、直と付き合っていると思っていた。でも直にとっては違ったんだ。
「だから言うよ。俺は、さっちゃんが好き。はっきり言う。何度でも言う。俺は、さっちゃんが好き」
 もう分かったよ、と言うまで直は繰り返した。からだじゅうが熱かった。今日の満月は、太陽ではなく私の熱で光っているのかもしれなかった。

          *

 翌日の昼食、私は直と、新藤さんの食事介助をした。
「これまでも伝えてるけど、自分が食べる時のことを想像するといいよね」
 直が言う。確かに、自分だったらと考えると気づけることが多い。食事の形態や食器の形、食べる時の姿勢、彩りや温度、まわりの音、歯の状態、尿意や便意、空腹感から服装まで、考えるほどに美味しく食べるというのは単純ではないと分かった。


「自分の食事くらい、自分で食べたいよね」
 本当はね、と直が言い足す。その通りだと私は頷く。今、新藤さんは私の介助を静かに受け入れている。本当は、この人ぜんぜん分かってない、と思っているかもしれなかった。


「次は、お味噌汁ですよ」
 私が近づけたお椀を見て新藤さんが口をすぼめる。
「ダシが効いているといいですね」
 かつて味噌汁を飲んだ時の、夏実さんのぼやきを思い出していた。
「面白いことを言うねえ」
 直が私の顔を覗き込む。


「言葉をかけるって、大事だよね。相手にとっても、自分にとっても。無言でやってると、お互いロボットみたいになっちゃう。言葉をかけることが適切だからっていうのはもちろんなんだけど、俺はやっぱり、誰と食べるか、どんな言葉とともに食べるかって、介護に関わらず誰にとっても大事だと思うんだ」
 昨日のからあげは最高にうまかった、誰と食べるかであんなに変わっちゃうんだよ、と小声で直が言い、私は火がついたように赤面した。


「一人でも大丈夫そうだね」
 味噌汁をきれいに飲み込んだ新藤さんを見て、直が言った。
「そうかな……」
 一人でできるようになりたい、もちろんそうだった。同時に、一人でできるようになれば、直との時間が圧倒的に少なくなる。
「別に、会えなくなるわけじゃないから」
 私の気持ちを見透かしたように言って、直は立ち上がった。


「そうかな……」
 確かに、会えなくなるわけじゃない。分かっていても、嵐の夜に一人で留守番をする子どものような心細さがあった。
「お肉もどうぞ」
 肉と言われなければ分からない、どろどろの食事だった。スプーンに乗せて口元へ運ぶと、新藤さんは、ぱかんと口を開いた。


「自分の食事くらい、自分で食べたいですよね」
 さっきの直の言葉を言ってみる。新藤さんの気持ちは彼女自身にしか分からない。それでも、新藤さんが自分で食べるとしたらどうしているか、想像することをやめたくはなかった。


「さて」
 お粗末さまでした、と言って、きれいに食べ終えた新藤さんのお膳を下げ、他の方の分も下膳する。休憩に入るように直に言われ、職員食堂に向かうためにエレベーター前を通りかかった時だった。
「やっぱり、ここの職員さんだったんですね」


 声をかけられ振り返ると、見覚えのない男性が私を見ている。
「はい……」
「いやあ昨日ね、居酒屋で飲んでたら、介護についてすごく熱く語り合ってる人たちがいるなあと思って感心してたんですよ。ほら、あそこにいる彼と、猛烈な介護談義を繰り広げていたでしょう」
 男性の視線の先には、まだ下膳している最中の直がいた。男性の話は止まらない。


「僕ね、あの彼をどこかで見たことがあるなあ、どこだっけなあと思ってたんですよ。それで介護の話が聞こえてきた時にね、そうだ、あの人はうちの母が入ってる施設の職員さんだって思ったんです」
「あっ、あの……」
 私の声を打ち消し、男性は高揚を隠さず話し続ける。


「いやあ、僕はすっかり感動してしまいましてね、思わず今日、母に会いにきてしまったんですよ。いつも本当にお世話になります」
 男性が頭を下げる。とんでもない、と慌てる私に構う様子もなく、男性はエレベーター前の応接セットに向かった。
「まだ食事の時間なんですね。ちょっとここで待たせてもらいます。足止めさせてすみませんでした」
「いえ、ごゆっくりどうぞ……」


 通用口を出て背中越しに扉を閉めると、私はその場にへたり込んだ。あの話を聞かれていた。どなたのご家族か確かめる余裕もなかった。
「ああ……」
 さっきの心細さは、こうなる予感だったのかもしれない。会えなくなるわけじゃなくても、それに近い状況が間もなく訪れる気がしていた。私たちはきっと、職場の中でも外でも簡単に会えなくなる。
「さっそく的中か」


 立ち上がり、よろよろと職員食堂に向かった。作ってきたお弁当を広げると、私は箸を持ったままぼんやりと空を見つめていた。
「どうしたんですか。おつかれさまです」
 お弁当の袋を持って食堂に入ってきたのは、パートの島田さんだった。
「ご一緒していい?」
 はい、という私の返事を聞いて、島田さんは正面に座った。


「なんかさっきのご家族、すごい勢いでしゃべってましたね」
 弁当袋の紐をほどきなから言って、島田さんが私を見る。
「やっぱり聞こえてたんですね。みんな聞こえてましたよね、きっと」
 そうねえ、と島田さんは弁当箱の蓋を開いた。
「鈴木さんとか高橋さんとかは聞いてましたね。あと、夏実さんとか」
 私はがっくりと首を垂れた。それだけの人に聞かれていたらもうじゅうぶんだった。間違いなく噂になって、私たちはますます関わりづらくなる。予感は的中し、『確定』のハンコが私の額に押された。


「まあ、あまり気にしないことですね。突き抜けてしまえば、そういうものだと受け入れられるから」
「突き抜ける?」
「そうそう。仲良しだって公言しちゃうとかね。隠されると余計に詮索したくなるのが心理だと思いますよ」
「公言ねえ……」


 そうしようよ、と直なら言うかもしれない。私は、どうなんだろう。
「そういえば」
 話はがらりと変わるんだけど、と島田さんが表情を曇らせた。


「3階の佐倉さん、問題になってますね」
「問題?」
「そう。なんか、他のお部屋に入って、寝ている方の布団を頭まですっぽり掛けちゃうらしいですよ」
「そんな」
「痴呆が進んでるんですかね。また精神科に逆戻りかしら。これで2階なんかに戻ったら、2階の方たちは自分で布団を剥げないから窒息しちゃうでしょう」


 島田さんがブロッコリーを口に入れた。私は箸を止めて考える。いわゆる痴呆が進んでいると言ってしまうのは簡単なように思えた。きっと佐倉さんは“お仕事”をしたんだ。直の言うように佐倉さんが自分にできることをわきまえているのだとしたら、何か理由があったに違いない。


「その時の情報がもっとほしいですね。きっと何か理由があるから」
「まあねえ。でも誰も見てなかったみたいですよ。生活者のどなたかが苦情を言ってきて発覚したみたいだから」
「そうですか……」
 おにぎりをかじりながら、佐倉さんの気持ちを想像してみる。佐倉さんにとって、放ってはおけない必要なお世話だったに違いない。そうさせたのが何だったのか、私は知りたかった。


「ああ、ごめんなさいね。食事中に仕事の話をしちゃって。お詫びにひとつ」
 島田さんが卵焼きを私の弁当箱の蓋に乗せた。
「わあ、ありがとうございます」
 遠慮せず頬張っていると、入り口のドアが開いた。おつかれさまです、と言った島田さんの視線の先を私も振り返る。入ってきたのは夏実さんだった。おつかれさまです、と私も続く。


「おつかれさまです」
 事務的に返した夏実さんは、私たちから離れたテーブルを選んで座った。
「気にしちゃだめ」
 島田さんがこそりと言った。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。