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【連載小説】「こかげ」第15回(全22回)

 本当にごめん、と直は繰り返した。体調が悪いわけではないという。
「仕方ないよ」
 本当にごめん、まったくいったいどうして、次こそは必ず、約束するから、まったくなぜ、どうして、と直は嘆いた。


「約束ね」
 受話器を置くと、私は大の字になってベッドにひっくり返った。高鳴っていた心臓はどこまでも縮み、真っ黒こげの塊になった。べつに一生会えなくなるわけでもないのに、なんとなく絶望的な気分だった。人と会うのがこんなにも難しいことだとは知らなかった。同時に、会えないのがこんなにも苦しいと初めて知った。待つということが私は得意なはずだった。幸せな時間には、それを待つ時間も含まれる。夕焼けを待っている時は確かにそうだった。それなのに今は、次の約束まで待てる気がしなかった。


「今日という日をどうやって生きようか」
 棒読みで呟いてみる。ひとまず起き上がるとクローゼットを開け、奥に突っ込んであったカメラを取り出した。出かける予定だった時間になるのを確かめると、私は外へ出た。


「くーっ」
 見上げると、悔しいくらい気持ちのいい天気だった。空は爽やかすぎるほど青かったし、どこかで小鳥がちよちよ、とさえずっていた。私は目に入るものを手あたり次第に撮りまくった。もともと夕陽を撮るために買ったカメラで、そういえば私は他のものをひとつも撮ったことがないと思い当たった。


「そうか」
 もしかすると、このカメラの存在を思い出すために今日という日はあったのかもしれない。次の約束の時には直をたくさん撮ろう。ベビーカーに乗った赤ちゃんの手を撮らせてもらいながら、私はふとそう考えた。


 後で直から聞いた話によると、その日は呼び出しを食らったのだという。榊原家だよ、と直は受話器越しに低い声で言った。
『ごめん。本当はもっと早く話さないといけなかった』
「榊原って、あの、例の」
『そうだよ』
 こんなにも無表情の直を想像させる声は初めてだった。


『亡くなったあゆみには妹がいるんだけど、あの出来事から話をするようになって、もうけっこう前に想いを打ち明けられてたの』
「想いって、好きってこと?」
『うん。俺はね、お姉さんを亡くした彼女の苦しみに対して、誠心誠意、全力で向き合ってきた。俺にしてみれば、付き合ってるとあゆみに誤解させるような言動をとったおぼえは全くなかったんだけど、それでも何か少しでも勘違いさせてしまうようなことをしていたなら本当に申し訳ないと思ってた。あゆみには思い込みの激しいところがあると家族たちは知っていたから、俺の話を最終的には理解してくれた。かえって迷惑をかけたとまで言わせてしまった』
「うん……」


 直に、勘違いをさせる言動はなかった。私もそう思う。直という人は、ただありのままに振る舞っているだけで、それだけで人懐こくて魅力的だから。
『そうやって対話を続けているうちに、その妹から言われたの。付き合ってほしいって』
「うん」
『俺、それはできないって言った。俺はもう誰に対しても中途半端な態度は取らないって決めたから』
「そうだったね」
『自分の気持ちは、はっきりと相手に伝える。そう決めたから、俺は彼女にも言った』


 彼女。あゆみさんの妹。彼にとって最も中途半端にしたくない相手のひとりに違いない。
『自分には好きな人がいる。あなたのことは友達の妹だと思ってる。だから、あなたと付き合うことはできない』
 勘違いのしようのない、あまりに明確な意思表示だった。それは直の、決意という優しさだった。
『そしたら彼女、好きな人がいてもいいから待ってる、って言った』


 頭に金槌を振り下ろされたような衝撃だった。露もなびかない相手を待つと言った彼女の覚悟を思うと、次のデートが待てない自分の淋しさなど塵くずのようなものだった。
『俺、何度も言った。何度も何度も言った。付き合うことはできないって。あなたを好きになることはないって』


 それでもいいと彼女は言った。彼女の気持ちを両親も知っていた。次第に彼女は衰弱していった。そして。
『あの日の朝、電話がかかってきた。彼女の母親から』
 精神科の薬を大量に飲んだのだと。すぐに気づいて救急車を呼び、今は病院にいるのだと。彼女が目覚めた時に、直にいてほしいと。


『ごめんね、さっちゃん』
 直の声がふるえている。ずるいよ、と喉元まで出かかったまま、私は言葉を失った。お姉さんと同じことをしようとするなんて。それを直がほっとくはずのないことを彼女は知っている。好きならば、なぜ相手が苦しむことをするの。


『さっちゃん、ごめんね……』
「謝らないで」
 何が悲しいのかわからないまま、瞬きもしない私の下瞼から大粒の涙がこぼれ落ちた。
『彼女の両親に頭を下げられた。娘を見捨てないでくれって。あの子にまで先立たれたら生きていかれないって』


 ずるい、みんなずるいよ……。じゃあ私が彼女と同時に薬を飲んだらどうなるの。そんなことできないけれど。だって大切だから。直が好きだから。
『さっちゃん、ごめん』
「もう言わないで」


 ごめん、と言った直の気持ちが弓矢となって私の胸を貫通する。ごめん、の意味がわかりすぎて痛い。考えたくない。考えたくないのに、直が選ぼうとしている未来を私はすでに察している。わかったよ、と言いたくない。私だって、直が好きなのに。私だって。
『さっちゃん……』
「わかりました……」
 この言葉を、彼女の両親を前に直もきっと言ったに違いなかった。受話器を置くと、私は枕に顔をうずめた。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。