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【連載小説】「こかげ」第19回(全22回)

 翌日は一般浴の日だった。浴室の準備をしながら乙村さんが言った。
「田中さん。三条さんをお願いしていいですか」
「えっ?」
「今のところお熱や風邪症状はないけど、入居されたばかりなので順番は最後です。私、先にフロアに上がって食事の方を手伝いますね」
「あっ、じゃあ私が食堂に上がりましょうか」
「大丈夫ですよ。田中さんは入浴が終わると休憩だから、きりがいいでしょう」
「はい……」


 どうしよう。いずれその時が来ると覚悟はしていたものの、まさか今日とは思わなかった。頬を自分でぱんぱんと叩きながら、私はひとりめの方を迎えに行った。
「じゃあ、後はお願いします」
 彼以外の入浴予定者が全員浴室を出ると、脚を洗って消毒を済ませた乙村さんが靴を履く。
「分かりました」
 脱衣場を出ると、バイタルセットを持って彼の居室に向かった。


「コンコンコン、失礼します」
 入ると、彼はすでにまとめた着替えを膝に乗せて窓際の椅子に座っていた。
「入浴を担当させて頂きます。よろしくお願いします」
 笑顔をつくってみたものの、マスクが邪魔をして伝わらない。


「こちらこそ」
 彼が会釈をした。ちょっと置かせて頂きます、とバイタルセットをベッドに置くと、私は彼の隣にしゃがんだ。
「もうひとつ椅子があるから、それに座るといいよ」
「いえ、大丈夫です」
 血圧計を膝に乗せると、彼の上腕にカフを巻く。
「あっ」
 巻きながら、バランスを崩した私は尻もちをついてしまった。ぶはーっ、と笑った彼が、だから言ったのに、と私の肩に触れた。どくん、と心臓が反応する。


「座った方がいいよ」
「ありがとうございます」
 顔が燃えている。緊張と恥ずかしさで手まで震えた。椅子を借りて座ると、血圧に続いて体温、血中酸素濃度を計る。安定した数値が出た。
「では、ご案内しますね」


 ふたりで居室を出ると、杖をついた彼が歩きながら言った。
「昨日のカラオケ」
「はい」
「俺の隣に座ってた佐伯さんだっけ、あの方、声の大きい人の隣に座るといいですね」
 源三さんのこと。
「たぶんだけど、まわりには歌わない人だと思われてるんじゃないかな。でもね、始まった時からすごく小さい声を出してたんですよ。字幕を見て知ってる歌だって分かるのか、ところどころ歌ってたんで、もしかして耳が遠いのかなと思って最後だけ俺も歌いました」
「そうだったんですか」


「うん。俺は今のからだになってから歌は疲れるからね、昨日は聴くだけでいいと思ってたんですよ。それであなたにマイクを渡したんだけど、結果、あなたの声と俺の声で佐伯さんにはよく届いたみたい」
「わあ、ありがとうございます」
 源三さんのことをよく分かっているつもりだった自分が恥ずかしかった。どうせ歌わないと思ってマイクを渡すことすらしていない。源三さんがあの場所に出てくるようになっただけで私は満足していたのかもしれなかった。


「こちらです」
 浴室のドアを開ける。脱衣場の椅子に彼が座ると、私は自分の靴を脱いだ。
「ちょっと、変なことを言っていいですか」
 シャツのボタンを外しながら彼が私を見上げた。
「はい。なんでしょう」
「あなた、ふくらはぎにホクロがあるんですね。両脚の同じ場所に」
「えっ」
 右、それから左と、腰をひねって自分のふくらはぎを見下ろす。


「ほんとだ。知らなかった」
 すすっ、と彼が笑う。
「別に、じろじろ見たつもりはないんですけど、目についたもんで」
「自分のことなんて、大して見てないのかもしれないですね」
 苦笑しながら棚からバスタオルを取り出す。立ち上がってズボンに手をかけた彼の腰にそれを巻くと、私は彼が転ばないように左側で見守った。
「そうかもしれないですね。俺だってそうですよ。夢中で働いてきたけど、自分では自覚してなかったんです。今のからだになるまで」


 がんばりすぎるな、と人には言いながら、自分は無理してしまう。彼も私も、そうだった。
「でも後悔はしてない。仕事をしてる時はものすごく充実してましたからね。まあ、そのせいで倒れて、今では息子たちに迷惑をかけてるけど」
「素敵な息子さんですよね」
 ズボンと下着を下ろすと椅子に座り、うん、と彼は靴下に手をかけた。


「すごく可愛がりましたよ。幼稚園から中学まで俺が毎日弁当作ってたし、子ども会の野球チームも一緒にやったし、勉強もみてやったし、習い事の送り迎えも全部やったし、海から山まであちこち連れていってやったし」
「ほとんど全部じゃないですか」
「まあね。でも楽しかったですよ」

 満足そうに彼が口角を上げる。すべて脱ぎ終わると、私は彼に杖を手渡した。そのまま彼は立ち上がり、私は左ななめ後ろから見守る。ふたりで浴室へ入ると、彼はシャワーチェアーに腰を下ろした。杖を預かり脱衣場に置いてから、シャワーを出して湯温を確かめた。


「お湯は、熱めとぬるめ、どちらがお好きですか」
「うーん、そうだな。シャワーが39度、湯船が41度。そこまできいてない?」
 いえいえ、ふふっ、と笑いがもれる。
「分かりました。では失礼します。ちょっと指先をお借りしますね」
 彼が差し出した右手の指先に湯を当てる。
「おっ、すごい。39度だ」
「分かるんですか」
「そりゃあ分かるよ」
 ほんとかなあ、と言ってから、ふたりで声を揃えて笑う。


「どこから洗いますか」
「背中をお願い」
「はい」
 シャワーで濡らしたタオルにボディソープを絡ませる。失礼します、と私は彼の背中をこすった。裸の背中なんて仕事でいくらでも見てきたのに、特別な背中だった。初めて見る彼の背中を、私は他の方の時と同じように丁寧に洗った。彼が言った。
「さっきの話だけど、佐伯さんて方はあの演歌に何か特別な思いがあるんですか。なんか食い入るように見てたけど」
「ああ、そうですね。亡くなった奥さんをそばに感じられる映像みたいです」
「へえ」


 背中を洗い終えると、私は彼にタオルを手渡した。受け取った彼が右手で首から胸、腹部とこすっていく。太ももを洗おうとして、彼が腰に巻いていたバスタオルを外した。
「わっ」
 びっくりして思わず声が出る。えっ、と彼も動きをとめる。
「どうしたの」
「いっ、いえ、なんでも」
 意識しないようにしていても、そういうわけにはいかなかった。皮膚トラブルはないか、傷などできていないか、仕事なのだからきちんとからだを観察しなければいけない。分かっていても、まともに見るにはとてつもないエネルギーが必要だった。


「では頭の方も失礼しますね」
 からだの泡を流してから、シャワーで髪を濡らしていく。シャンプーをボトルから手に取り、彼の髪になじませた。そこからは彼が自分でごしごしとこすり、最後に私がシャワーで流した。ばさばさと自分で頭を乱暴に拭くと、彼はタオルを洗面台に置こうとした。
「あっ、ちょっとお待ちください」
 タオルを受け取って広げる。
「お耳を、失礼しますね」
 彼の耳を片方ずつ拭っていく。溝に沿い、皮膚を傷めないようにしながら、念入りに拭き上げた。


「では、湯船の方へ」
 浴室内の手すりを伝いながら歩く彼に付き添う。慎重にスロープを下ると、彼は湯にからだを沈めた。
「ふう。気持ちいい」
「ちょっとぬるいですか」
「いや、いいよ。40度だね」
 またまた、と私が言い、笑い声が揃う。胸のあたりを撫でながら彼が言った。
「亡くなった奥さんをそばに感じようとするって、すごいですよね」
「はい。そう思います」


「男って、そういうところがあるんですよね。思い出になるほど想いが強くなっていく」
「男性だけじゃないと思いますよ」
「そうか、それは失礼。なんか女の人って、物理的にそばにいることをいちばん大事にするイメージがあるんですよ。だから、離れるとあっさり忘れてしまうのかなと」
 そんなことはない、と喉元まで出かかる。


「物理的にそばにいさえすればいいのだと、そんなふうに思ってきたんですよ。実際、それで彼女は満足そうだったし」
「彼女って」
「ああ、嫁ね。でも俺が今のからだになったとたん、逃げ出しちゃった。その時に俺、思ったんですよ」
 彼が自分の肩を撫でるたび、湯が耳ざわりのいい音を立てる。


「そばにいるだけでは与えられていないんだと、彼女は気づいたんだろうなと」
「与えられていない?」
「そう。俺が家のことをやったり、息子の面倒をみたり、仕事にいそしんだりする。そうすることで彼女は与えられているつもりになっていたんだと思うんです」
「与えられている?」
 何を? とたずねたい私の気持ちをお見通しと言わんばかりに彼が手すりを掴んだ。


「さて、そろそろ上がろう」
 立ち上がった彼が湯気に包まれた。
 身だしなみを整えて浴室を後にすると、私は彼を居室まで送った。
「お食事をお持ちしますね」
「ああ、ありがとうございます。いい風呂でした」
 どっかりと椅子に腰をかけた彼を見届け、私は部屋を出てドアを閉めた。浴室に戻ると浴槽を洗い、脱衣場を片づけて休憩に入る。更衣室で通常のユニフォームに着替えながら、私はふと、自分の手のひらを眺めた。
「与える……」


 30年の時を経て、私は彼に触れた。彼の体温がまだここにある。
「直……」
 誰もいない更衣室で背中を丸めてしゃがむと、私は膝を抱えた。泣かないように、泣かないようにと、瞼をきつく閉じた。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。