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【連載小説】「こかげ」第16回(全22回)

「早紀さん、今日なんだか顔が腫れてません?」
 翌日、夜勤明けの夏実さんが、これから昼休憩に入る私の顔をまじまじと見た。
「そうかも……」
 昨日、どれほど泣いただろう。泣いても泣いても、ワイン樽の栓をひねったように涙が止まらなかった。電池が切れかけた時計の針みたいに、ただひたすら小刻みに肩を揺らして嗚咽した。


「主任が結婚するかもしれないって、もうすごいショック」
 夏実さんの話によると、夕べは副施設長が遅くまで残業していたという。彼女が事務所にコピーをとりに行こうとした時、中から副施設長の電話をしている声が聞こえて入口で足を止めた。副施設長のあまりに驚いた口ぶりに夏実さんはつい、立ち聞きをしてしまった。


「それじゃあ三条くん、辞めちゃうっていうのかよ、って。私もう、息が止まりそうになって、その場にしゃがんじゃいましたよ」
 その後も副施設長は驚きのあまり声を張り上げ続け、それは夏実さんに筒抜けだった。
「そりゃあ結婚なんていったらめでたいことなんだけどさ、そんなに急がなくてもいいじゃないか、って」


 電話の向こうでは直が相当急いでいるらしかった。これは今さっき決まったことで、早くしないと相手が死んでしまうと直が言ったと思われた。
「副施設長、すごい笑ってた。そんな大げさな、って。いくら愛されてるからって、そこまで言わなくてもいいだろう、って」


 それでも直は、相手のそばに少しでも早く行かなければならないと言ったに違いない。昨日、私との電話をきった後、直は彼女あるいは彼女の両親と話をしたのだろう。直に好きな人がいると彼女は知っている。だからきっと彼女は直のどんな言葉にも安心しなかった。彼がそばに来ることでしか。


「もう、今日という日をどうやって生きよう」
 しょぼしょぼした目をこすりながら夏実さんが寮母室のデスクに伏せる。今にも眠りに落ちそうな顔で彼女は唇を動かした。
「でも私、てっきり主任は早紀さんと付き合ってるんだと思ってた」
「そんな……」
「結婚したら退職して遠くに行っちゃうなんてもう、信じられない」
 奥さんの実家の近くに行くなんて、主任やっぱり優しいんだからあ、と夏実さんはデスクを叩いて悔しがった。


「みんなもそう言うでしょうね」
「そうだよお。みんなも辞めちゃうかも」
 うわーん、と声を上げた夏実さんが無邪気だった。それ以来、夏実さんはすっかり私に対して穏やかになった。だからというわけではなく、私は辞めずに続けると決めていた。直に教えてもらったことを受け継いでいきたかった。直が丹精込めて耕した育成の土壌から芽が出るのを見届けるまで、私はここにいる。


 なんだかんだと騒ぎながら、直の退職を知っても結局は誰も後を追わなかった。それこそが、直の築いた土台だと私は思った。直に大切に育成された寮母たちは、この場所と生活者に愛着を持って仕事を続けていく。


 そうして1ヶ月の月日は流れ、あっけなく直は退職した。最後の出勤日、抱えきれない花束を渡しながら夏実さんたちは号泣した。直は、泣かなかった。私はその時、持ってきていたカメラで集合写真を撮った。ふたりで写ればいいと言った島田さんが、直と私を並ばせて1枚だけ撮ってくれた。


あの日から何ヶ月もの間、私は泣きながら夜を明かした。どれほど涙をこぼしても、私の井戸は涸れることを知らなかった。夜を越えるたびに、私は幸せという形のないものを恨んだ。幸せを感じさえしなければ、失うことも知らずに済んだのだから。

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「そういえば、あれから話の続きを聞いてないですよね」
 久しぶりに休憩が一緒になった晴香がピーナツチョコレートを噛み砕きながら言った。
「話の続きってなんだっけ」
「ほら、事件を目撃した話」
「ああ」


 そんな話をしたことも忘れていた。どういう流れで話そうと思ったのかも憶えていない。
「もう30年も前の話だから、どうだったんだっけ」
 とぼけてみる。自分から傷口に触れたくせに、また開いてしまいそうで怖かった。


 あれから私は、独身のままだった。50代にもなるとさすがに詮索してくる人はいない。かつてはさんざん結婚の話題を振られ、なぜ結婚しないのか、いい人はいないのか、誰か紹介しようかと、身内から他人までいろんな人に世話を焼かれた。


 中には付き合ってほしいと言う男性もいた。少しずつ好きになってくれればいいと言われ、たびたび会って親しくした。
『さっちゃんて、呼んでもいいかな』
 やっぱり付き合うのは無理だと思った瞬間だった。さっちゃんと呼ばれたくなかった。誰にも呼ばせたくなかった。そうして私は、独身のままだった。


「なんか田中さんて、どこか陰があるんですよね。私、そういう人に惹かれちゃうんです」
「かげ?」
「あの、性格が暗いとか、陰気だとか、目立たないとか、そういうことじゃないです。うまく言えないんですけど、不思議な雰囲気を持っていて気になっちゃうんです」
「ふうん」


 確かに、どの職場にいても私は無口なほうかもしれなかった。自分のプライベートをさらさず、考えを堂々と述べることもなく、淡々と仕事をしてきた。ただ、入居者に対してだけは別だった。彼らにはありのままの感情で向き合い、心を砕き、気持ちを分け合うことができた。大切なことはいつも、彼らが教えてくれた。彼らは私にとって、人生のバイブルだった。


「田中さんて、いくつくらい施設を経験してるんですか」
「えっとね、いくつだろう」
 あまり意識していなかった。少なくはないと思う。


 最初の施設を辞めたのは、ひとりの生活者が精神科の病院に送られたことがきっかけだった。忘れもしない佐倉さんというその生活者は、彼女の行動の理由を知ろうとしてもらえることなく、問題のある人として扱われた。強く抗議した私への風当たりは強く、それは特に古くからいる職員のものだった。


「ちゃんと数えないと分からないけど、けっこう転々としたよ」
「なんか、もったいないですよね。田中さんには長くいて主任とかやってほしい」
「いやいや、無理だよ」
 教わったことを忠実に守るのが私は得意だった。それを人に伝えて指導するとなると、何かが欠けている気がした。
「あっ、もうこんな時間」
 休憩が終わるのってほんと早いですよねー、と晴香が荷物をまとめる。私もそれに続いた。

          *

 倉田さんが亡くなった。
 食事や水分を摂るたびにむせ込み、喉元のゴロゴロ音がずっと続いて看護師に吸引をしてもらっていた。血圧の低い状態が続き、血中酸素濃度が下がることもあった。医師からご家族へは看取りの段階であることが告げられ、何かあっても点滴や救急搬送などはせずに最期をここで迎えるという話になっていた。


「淋しくなるな……」
 入居者が亡くなるたび、ぽこんと胸に、覗き穴のような風の通り道ができる。忙しくしているうちにいつしかその穴は塞がり、またお看取りがあるとぽこんと空いた。


「次の入居者、もう決まってるみたいね」
 パソコンで記録を打つ私に乙村さんが囁いた。
「そうなんだ。早いね」
「うん。なんかさっき新しい表札が部屋にかかってたよ」
 急ぎの案件らしい、と乙村さんが続けた。
「じゃあもう、すぐに入ってくるのかな」
「そうみたい。早ければ週明けすぐに来るってケアマネが言ってたよ」
「へえ」


 倉田さんが亡くなった穴がまだ塞がっていないのに、と私はキーボードを打ちながら内心ぼやいた。どんなに経験を積んでいても、これだけは慣れることができない。いつもいた人がいなくなる。この虚しさに似た切なさは、仕事を続ける限り繰り返されていく。これまでもそうだったように。


「さてと」
 慌ただしくも無事に今日を終える。そろそろ体力的にきつくなってきた。もう50代だなんて。
「長かったような、短かったような」
 独りごちながら手を洗う。お先に失礼します、と夜勤者に声をかけ、私は通用口に向かった。


「ん」
 何気なく、倉田さんのいた居室の表札が目に入る。見慣れた文字が変わるだけでやっぱり違和感てあるものなんだ。
「えっ」
 表札の名前に息をのむ。どん、という胸への衝撃。がくりと膝が折れそうになる。
「うそ」
 その表札に手をついて私は近寄った。何度も眼球を上下させ、その文字を見つめる。
「うそ……」
 三条直、と書かれていた。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。